鈴木道彦さんが亡くなった。
Xでリツイートされたので、2004年のブログ記事で引用した鈴木道彦さんの文章をあらためて引用しておく。
金(嬉老)は日本人を人質にして国家権力と対峙した。つまりわれわれは人質だ。そして人質になるとは不当であり、不幸なことだとわれわれは考える(……)。それはすでにわれわれが、日本人として、国家を己のうちに無意識にしのびこませている証拠である。(……)われわれがまず第一に明らかにしなければならぬのは(つまり「意識化」せねばならぬのは)、この集団的無意識であり、己の内部にくいこむ国家である。そしてそれを意識化する方法がただ一つしかないことは、ファノンの例でも明らかだ。すなわち金嬉老の告発した日本の国家権力に、われわれの立場から激しい告発を対置させることだ。私の考える民族の責任という課題も、この長く苦しい闘いによってしかとりようのないものであり、またこの闘いのみがわれわれを差別から解放する端緒だろう。それというのも差別することを受け入れるとは、差別されることにほかならないからである。
(鈴木道彦「橋をわがものにする思想」、フランツ・ファノン著作集3『地に呪われたるもの』、みすず書房、213-4頁。)
あとは、『サルトル読本』(法政大学出版局、2015年)の拙論で引用した(156頁)この言葉も。
サルトル来日中の一九六六年一〇月に、 サルトル、ボーヴォワール、平井啓之、鈴木道彦、海老坂武、白井浩司が参加して行われた座談会「私の文学と 思想」(『文芸』一九六六年一二月号に掲載された)において、鈴木道彦はこう発言している。「ご承知のようにサルトルさんの日本における影響は大きく、読者も多ければ研究家を自称する者も少なくありません。しかしおよ そサルトルさんの方向と異なって、体制内存在に陥っている者の多いのが私には残念です。[・・・] サルトルさんの作品は、日本と世界の将来の変革や平和のことを真剣に考える者のためにあるのであって、のうのうと消費の文学に固執したり、政治など糞くらえといった態度を示す 者のためにある作品ではないと信じています。これは絶対に、闘っている者のためにある作品です。」(日高六郎、平井啓之他『サルトルとの対話』、人文書院、一九六七年、六七頁)。
また、鈴木道彦さんについてこのことに言及している人がいない。
1967年10月8日の羽田闘争で、18歳の大学生山崎博昭が死亡した。警察は、山崎が「仲間の運転する警備車に轢かれて死んだ」と発表した。デモに参加していた海老坂武は、学生たちを警棒で滅多打ちにする機動隊の暴力を目撃している(『竹内芳郎 その思想と時代』50頁)。にも関わらず、マスコミは警察発表をそのまま垂れ流し「暴力学生」を非難する報道を行った。鈴木道彦と竹内芳郎は、そうしたマスコミの報道姿勢を糾弾し、1968年2月「朝日新聞への公開状」を雑誌「展望」に掲載した。
鈴木道彦さんはそのことについて『竹内芳郎 その思想と時代』(閏月社、2023年)でこのように書いている。
「不偏不党」と「公正中立」の名のもとに、警察の流す情報のみを唯一の真実のように垂れ流すマスメディアこそ、読者から事実を知る権利を奪い取る「暴力」の名にふさわしいものであることを主張した。これはいくらか勇気を必要とする発言だった。というのも、メディアは「暴力学生」非難の声一色で、文字通りそれは「大合唱」になっており、それに疑問を抱くことは許されないような雰囲気が支配的だったからだ。こうしたメディアの報道に疑問を表明する者は、「暴力学生」の支持者・同調者として、これにも厳しいバッシングが浴びせられることは覚悟しなければならなかった。(『竹内芳郎 その思想と時代』19頁)