イナバの物置化する日本

 なんでデモデモいいはじめたんだっけ?ていうのをそもそも忘れかけていたんですが、そういえば、共謀罪のデモが100人かあ、ていうのが出発点でした。しかし、つらつら考えたら、100人といえば、「100人乗っても大丈夫!」じゃないですか。つまり、イナバの物置に乗っかれちゃうのか……。よかった、大丈夫で。て何が大丈夫なのかまったくわからんが。しかし、共謀罪という日本の行方を左右する案件について東京で行われたデモ参加者がイナバの物置(の屋根)に乗っかれてしまう、というのはやはりすごい。
 ある意味で、日本の公共空間はイナバの物置サイズに縮小してしまった、ということではないか。「猫の額ほど」という言葉があるけど、日本の公共空間は「イナバの物置(の屋根)ほど」の広さですってか?(しつこいようですが自分が当のデモに行ってないことを、思いっきり棚、というかイナバの物置の上に上げてます)
 ところで、kmizusawaさんは「なんで街中だけが危険だ危険だ言われるのかを問うたほうがいいのかな」とおっしゃってますが*1「街中」の危険視と、デモの危険視はリンクしていて、それはすなわち、「街中」の非街中化=公共圏の縮小とリンクしている、てことでしょうね。そのうち、ついには「象が乗っても大丈夫」の筆箱サイズまで縮小するのではなかろうか。筆箱だけに、最後まで残るのはペン(言論)か、なんてクサーイ落ちまでつきました。
 そういえば、去年の衆院選のとき、「大仁田が政界入り」というよりどっちかというと「政界が大仁田入り」だなあ、と書いたなあ*2

2005年、政界が大仁田入りした。そして2006年、政治がイナバの物置化した。

 そうだ、今年はじめの話題といえば、そう、イナバウアーではないですか!あれは、ニッポンのイナバの物置化を暗示していたのか!イナバの社長もウアーと驚く、と。今回は(も)昭和+オヤジテイストがひどいな。