野崎泰伸『「できなさ」からはじまる倫理学』

 著者の野崎泰伸さんから『「できなさ」からはじまる倫理学』(大月書店、2026年)をいただきました。

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 野崎さんの担当する大学院の授業の教科書として作られた本ですが、高校生以上を対象として書かれているので、とてもわかりやすく倫理学について学ぶことができる本になっています。
 さて、タイトルにある「できなさ」について野崎さんはこう書いています。

 「できなさ」は、多くの場合「欠けているもの」として語られます。何かが不足している、他の人にはあるのに自分にはない、そうした比較の視線が、「できなさ」を劣ったものとして固定化していきます。学校の成績、就職活動の結果、日常生活での手際のよさなど、あらゆる場面で「できること」が重視され、「できないこと」はマイナスのラベルとして貼りつけられます。
 けれどもわたしは、障害のある当事者として、「できなさ」をたんなる欠如とはとらえていません。むしろ、「できない」からこそ見える世界がある、「できない」からこそ、生まれるつながりがあると感じています。(野崎泰伸『「できなさ」からはじまる倫理学』83−4頁)

 ここで「比較の視線」という言葉が使われていますが、同書では、「まなざし」という言葉が何度も出てきます。「まなざし」とは、サルトルの主著『存在と無』(1943年)の他者論のキーワードで、それ以来メジャーになった言葉です。「まなざし」は実体的なものではありません。「見るもの(主観)」と「見られるもの(対象)」の関係性のことです。サルトルは、有名な、鍵穴から部屋の中を覗いている「私」の例を上げます。私は、純粋な「見るもの」として夢中で部屋の中を覗いているのですが、突然他者の「まなざし」を感じることになります。

 突然、廊下で足音のするのが聞こえた。誰かが私にまなざしを向けている。このことは、何を意味するであろうか? それはこうである。私は、突然、私の存在において襲われる。本質的な変様 modification が私の構造のうちにあらわれる。(サルトル、松浪信三郎訳『存在と無』邦訳第II巻110頁)

 この変様とは、「見ている私」が「見られている私」(対象ー私)に変容する、ということです。足音がしただけで、ここで私は、見ている他人「を見ていない」、つまり他者は対象となっていない、ということが重要です。サルトルは、他者のまなざしをとらえるということは、対象としての私を体験することであると同時に、主観としての他者を体験することだ、と主張したわけです。
 この「まなざし」の理論は、様々な社会構造に当てはめることができます。例えば、野崎さんが言うように、「障害者」と「健常者」の関係にも当てはめることができます。
 野崎さんは「「社会が前提としていること」と「わたしの身体の現実」がしばしば衝突することを経験してきた」と言います。野崎さんは、現在は車イスを使用して生活していますが、以前歩いて生活していたときは、「健常者」とは違う、大きく身体を揺さぶった歩き方をしていました。その時、とくに小さな子どもからからかわれたり、歩き方をまねされたりしていたそうです。中学生ぐらいの男子生徒に、携帯電話で動画撮影されたこともあるそうです。つまり野崎さんの身体は、「健常者」のまなざしによって「嘲笑の対象」とされていたのです。その後、野崎さんは、車イスを使用して生活するようになったとき「「かわいそうな人」を見る目に世間が変わった」のを感じたそうです。野崎さんはこう書いています。

 「まなざし」はたんなる個人の視線ではなく、社会的文脈のなかでつくられる「障害者はこうあるべき」という期待や感情を反映しています。だからこそ、その変化はわたしの身体の変化以上に、社会が「障害」をどう想像しているか、どんなふうに意味づけているか、という輪郭を浮かび上がらせるのです。(野崎泰伸『「できなさ」からはじまる倫理学』42頁)

 野崎さんは、同じ身体が「嘲笑の対象」から「かわいそうな人」に意味づけが変化することを体験しました。しかし、重要なのは、関係性自体は変化していないということです。社会、世間の方が「見るもの」「意味づけるもの」、つまり「対象化するもの」であることは変わらないのです。「見られるもの」は、見るものの「まなざし」によって、自分にはどうにもできないものとして「意味づけられて」しまいます。野崎さんも指摘していますが(103頁)、サルトルの戯曲『出口なし』には「地獄とは他人のことだ L'enfer, c'est les autres」という有名なセリフがあります。実はサルトルも「障害者」でした。彼は幼い頃熱病にかかって右目を失明し、そのせいで、外斜視になりました(70歳のころには左目も失明し、執筆ができなくなります)。野崎さんは「ルッキズム」について言及していますが、サルトルは、子どものころこの外斜視を同級生にひどい言葉でからかわれています。彼は、少年時代にすでに自分の容姿を「劣ったもの」と意味づける社会のまなざしを感じていたのです。彼が「まなざし」の理論を作り上げたのは明らかにこうした体験が影響しています。彼は、多数派の「当たり前」のまなざしによって意味づけられ、「マイナスのラベル」を貼り付けられてしまう、社会から排除されるもの(サルトルはそれを「余計者de trop」と呼びます)の立場につねに立ち続けました。
 たとえばサルトルは、まなざしの理論を植民地主義の問題、人種差別の問題に当てはめました。1948年、サルトルは、セネガルの詩人であり初代大統領でもあるレオポール・サンゴールが編集した黒人詩人たちの詩集「ニグロ・マダガスカル新詞華集」の序文を書きました。後にサルトルの評論集『シチュアシオン』第3巻に収録された「黒いオルフェ」というその文章の冒頭は、このようなものです。

 これらの黒い口を閉ざす轡(くつわ)を外したとき、君たちはいったいなにを期待していたのか。その口が君たちをほめたたえるとでも思ったのか。われわれの祖先は、彼らの頭を力ずくで地に捻じ伏せていた。その頭が伸びもたげられるとき、その眼の中に君たちに対する崇拝の心でも読みとるつもりだったのか。ところが今やここにいるのはすっくと立ってわれわれを見つめている人間たちだ。願わくば私同様、この見られているという戦(おのの)きを君たちも感じて欲しい。それというのも白人は、相手に見られずに見るという特権を三千年にわたって享受しつづけてきたからだ。白人は純粋なまなざしだった。(サルトル、鈴木道彦/海老坂武訳「黒いオルフェ」『植民地の問題』140頁)

 サルトルは、純粋な「見るもの」であった白人たち、「相手に見られずに見るという特権」を享受してきた白人たちに、黒人たちのまなざしを感じて「戦き」を感じてほしい、と言います。その時、特権を享受してきた「見るもの」に、根本的な「変様」が起こるはずです。しかし、その変様によってはじめて見えてくる新しい風景もあるのです。「「できなさ」が拓く世界には、これまでとは異なる豊かさの風景」がある、と野崎さんは言います(85頁)。本書の「はじめに」では、野崎さんが買い物の途中で見かけた、障害者たちが施設の外で職員といっしょにいる風景に「豊かさ」を感じたという体験が書かれています。また、『しあわせは食べて寝て待て』(水凪トリ)という漫画の主人公が、膠原病を得て人生設計が崩れ去ったあと、病気を得たからこそ生まれる「もうひとつの豊かさ」に気づく、というストーリーも紹介されています。私は『しあわせは食べて寝て待て』の漫画と、漫画を原作としたドラマの両方楽しんでいたので、野崎さんの言いたいことはよくわかるような気がします。ただ、ここに危険性もあると思うのです。もし「私たち」が、「相手に見られずに見るという特権」を手放さないまま、「なるほど、病気を得たからこそ生まれる異なる豊かさもあるんですね」などと言うならば、それはまさに「分かった気になっただけ」でしょう。マイノリティの問題について、しばしば「理解してあげる」というような表現が用いられ、批判されますが、本当の「理解」は自分自身の根本的な「変様」が必須です。野崎さんは「おわりに」でこう書いています。

 ここでわたしがしようとしたことは、障害のある人や生きづらさを抱える人たちの困難を、すでにある理論にあてはめて説明することではありません。むしろ、その人たちが抱える困難そのものが、これまでの哲学や倫理学の「当たり前」を揺さぶり、見直させるきっかけになる、ということを示そうとしたのです。(野崎泰伸『「できなさ」からはじまる倫理学』211頁)

 野崎さんのこの本は、「倫理学」という学問を学ぶためのガイドブックであるだけではなく、読者の「当たり前」を揺さぶり、読者に「戦き」と「自己の変様」を促す書物であると思います。

消去されるもの

 2026年のグラミー賞のカントリー・グループ賞を受賞したナイジェリア人移民の息子である歌手・ラッパー、シャブージーshaboozeyが、グラミー授賞式のスピーチで、涙を流しながら、グラミー賞を移民に捧げた。

x.com

文字通り、この国を築いたのは移民です。本当に。だからこれは彼らのためです。移民の子どもたちすべてのために。そしてより良い機会を求めてこの国へ来た人々のために。すべての人に自由を、誰にでも平等な機会を約束した国家の一員となるために。

もちろんこれは、ICE(合衆国移民・関税執行局)による移民迫害に対して全米で高まっている抗議行動に呼応した発言である。
ところが、この発言に対する批判も起こっている。以下は、facebook上で活発に政治的発言を行っているジャズ・ピアニスト、エリック・リードが黒人歴史月間(Black History Month)に際して行った投稿である。
Immigrants did not "build" this... - Eric Reed Poppa Reed

移民がこの国を「築いた」わけではない。エリス島の誤った呼称を拡散するのはやめるべきだ。
移民はアメリカ合衆国に属し、安全を感じられる権利がある。
人々は米国移民関税執行局(ICE)の行動と歴史的事実を混同し、真摯な感情から虚偽の物語を生み出している。これは白人至上主義の工作に他ならない。
アメリカ合衆国は以下の上に築かれた:
1. 先住民族に対するジェノサイド
2. 鎖で繋がれ意思に反して連れてこられたアフリカ人の搾取された労働力(これが米国経済を牽引した)
3. 白人入植者による他人の土地の奪取;アフリカ人を奴隷化しながら先住民を民族浄化したヨーロッパ人
これらの集団は「移民」ではない。この用語は米国形成の恐怖を和らげるものだ。
後にこの地へ渡り(そしてこの国のさらなる形成に貢献した)真の移民たちが目にしたのは、ジェノサイドと奴隷制によって冒涜された土地だった。この国は既に、血と土地と奪われた労働力という原価を支払った者たちによって、その初期形態において創設され、成立し、富を築かれていたのである。
黒人歴史月間100周年おめでとう
#StopTheErasure(消去をやめろ)

 「エリス島」(Ellis Island)とは、アメリカ合衆国移民局が置かれていたことで有名なニューヨーク湾内の島である。1892年から1954年まで、1200万人を超える移民がエリス島を通過してアメリカへ入国したという。しかし、この島の名前は、1774年にこの島を購入したニューヨークの商人サミュエル・エリス(Samuel Ellis)に由来するという。言うまでもなく、アメリカ先住民にとってこの島はそんな名前ではなかったはずだ。エリック・リードが言う「エリス島の誤った呼称を拡散するのはやめるべき」というのはそういう意味であろう。
 エリック・リードと同様の批判はネット上にたくさん見られる。たとえば、作家・アクティビスト・詩人のシャーデー・グリーンはこのようにXに投稿している。彼女は、2025年1月のbluesky投稿

You can and absolutely should advocate for immigrants’ rights WITHOUT saying that immigrants built this country because no they didn’t. Enslaved Africans who were kidnapped and forcibly brought to the United States were the people who built this country.

Sade Green (@sadegabriella.bsky.social) 2025-06-11T19:03:58.063Z
bsky.app

あなたは移民の権利を擁護することができるし、絶対にそうすべきです。ただし「移民がこの国を築いた」と言う必要はありません。なぜなら、そうではないからです。この国を築いたのは、拉致され強制的にアメリカ合衆国へ連れてこられた奴隷化されたアフリカ人たちでした。

を引用しながら、こう言っている。

x.com

移民がこの国を築いたなんてとんでもない。そんなクソみたいな言い方はやめてほしい。

署名

ナイジェリア移民の娘であり、アフリカ系アメリカ人の娘である者より

 もちろん、エリック・リードがICEの暴力に抗議するものたちの側に立っていることは明らかだ。
 オスカー・ピーターソンの公式facebookページに、全米各地でのICEへの抗議デモの映像が「自由への賛歌Hymn To Freedom」(ピーターソンが1962年に発表した公民権運動を称える曲)をBGMに投稿された。
https://www.facebook.com/reel/1775226219840511
 その後、このページの管理者であるセリーヌ・ピーターソン(オスカーの娘)に対して、生命を脅かすものも含む卑劣なメッセージが複数寄せられたそうだ。その結果彼女はページの管理者を降りることになった。
 この件に関してエリック・リードはこうコメントしている

ジャズファンを自称しながら人種差別主義者であるなんて、特別な種類のバカでないとできない。多くのジャズミュージシャンが同じことをしているのだから、驚くことではない。

 残念ながら、これは現在の多くの日本のジャズ・ファンやジャズ・ミュージシャンにも当てはまる言葉だ。
 ただ、彼はこのような投稿もしている。
Include Keith Porter Jr.'s name... - Eric Reed Poppa Reed

アレックス・プレッティとレニー・グッドについて言及する際は、必ずキース・ポーター・ジュニアの名前を含めてください。

 キース・ポーター・ジュニアは、昨年の大晦日、非番のICE(移民税関捜査局)職員に殺害された43歳の黒人男性。ICEに虐殺されたアレックス・プレッティとレニー・グッドはどちらも白人である。
(以上英文の翻訳は基本AI翻訳を使用しています)。

「欧米の轍を踏むな」論もそれに対する反論もナンセンスなわけ

「欧米の轍を踏むな」論

「「欧米を反面教師に」と言うけれど 移民巡る比較がナンセンスなわけ」毎日新聞2025年12月23日
mainichi.jp
 記事冒頭にはこうある。

外国人の受け入れを巡る議論で、しばしば引き合いに出されるのが欧米の状況だ。
移民との共生に難航する姿を「日本は反面教師にすべきだ」として、排外主義的な言説にもつながっている。
「欧米を反面教師に」と言うけれど 移民巡る比較がナンセンスなわけ | 毎日新聞

 確かに、「日本は外国人を受け入れた欧米を反面教師にすべきだ」とか「欧米と同じ轍を踏むな」「欧米の二の舞いになるぞ」的な言説は、今まで散々聞かされて聞き飽きたほどだ(そもそも外国人の「受け入れ」という表現そのものが問題なのだが、それについては後述する)。そこら辺のネトウヨは言うまでもなく、「外国人問題」についてちょっとひとこと語ってみようとする人が「欧米は外国人を受け入れて大変なことになっている。だから外国人の受け入れには慎重になるべきだ」というようなことを言っているのを何度聞いたかわからない。「大変なこと」の中身は、「犯罪の増加」「テロの増加」「排外主義の高まり」etc.である。「外国の情勢について俺は知ってるんだぞ」という、いわゆる「マウントを取ってくる」ニュアンスを感じることもしばしばだ。
 この記事は、そうした「欧米と同じ轍を踏むな」論を批判する、移民政策の専門家である是川夕*1のインタビュー記事だ。だが、残念ながら、是川の主張は、批判の方向性はともかく、中身において納得できるものではなかった。
 是川の主張を検討する前に、まず、典型的な「欧米と同じ轍を踏むな」論とそれに対する批判を紹介しておこう(この議論についてよく知っている方は、この節は飛ばして次節から読んでください)。

上野千鶴子の「欧米の轍を踏むな」論

 2017年2月、上野千鶴子のインタビュー記事「平等に貧しくなろう」が、中日新聞・東京新聞に掲載された。その中で上野はこう言っている。

日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています。
 移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。

 この「社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国」として上野が念頭においているのが、すでに移民を「入れ」た「欧米」であることは十分想像できる。上野のこの主張に対しては移住連・貧困対策プロジェクトから公開質問状が出され、上野からの回答→移住連メンバーからの意見表明→上野の再回答という形でやりとりが続いた。
貧困対策プロジェクトと上野千鶴子さんのやりとり・まとめ
 移住連の公開質問状は、最初のインタビュー記事で上野が「社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか」と発言していることに対して、こう指摘する。

治安悪化は、日本において特に頻繁に語られる移民への謬見です。実際には、日本で移民人口が増えたことによる治安悪化はまったく起こっていません。「治安悪化」というデマは、1990年代後半に警察とメディアが広めたもので、上野もそれを信じ込んでいるようです。今回の発言は、自らそうしたデマを広めていますが、それについてどうお考えでしょうか。
『中日新聞』『東京新聞』(2017年2月11日)「考える広場 この国のかたち 3人の論者に聞く」における上野千鶴子氏の発言にかんする公開質問状

 また、同質問状は、上野の「客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった」という発言を否定して、日本がすでに実質的な「労働開国」に踏み切っていること*2を指摘する。さらに、上野が「世界的な排外主義の波にぶつかってしまった」と「排外主義」があたかも日本の外からやってきたかのように主張していることを批判し、日本において、植民地主義支配から続く在日外国人にたいする差別やネットや路上ではびこっているヘイトスピーチについてどう考えるのか問いただす。
 こうした移住連による批判に対する回答「人口減少か大量移民か?」の中で、上野は、日本にすでに相当数の外国人労働者が入ってきていること、外国人の犯罪率が高くないことはデータから「承知している」としつつ、自分の主張は「これまで」ではなく「これから」先の将来について論じたものだ、として、以下のように言う。

移民先進国で現在同時多発的に起きている「移民排斥」の動きにわたしは危機感を持っておりますし、日本も例外とは思えません。これから先、仮に「大量移民時代」を迎えるとしたら、移民が社会移動から切り離されてサバルタン化することや、それを通じて暴動やテロが発生すること(フランスのように…と書けばよかったんですね、事実ですから)、ネオナチのような排外主義や暴力的な攻撃が増大すること(ドイツのように)、排外主義的な政治的リーダーが影響力を持つようになること(イギリスのように)、また移民家事労働者の差別や虐待が起きること(シンガポールのように)などが、日本で起きないとは思えません。
上野研究室 > ブログ > 人口減少か大量移民か? ちづこのブログNo.113 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

 このやりとりを見ても、上野が典型的な「欧米と同じ轍を踏むな」論に陥っているのは否定できないだろう(「事実ですから」という表現には「マウントを取りに来ている」感もある)。しかし、この上野の「回答」の最大の問題点は、彼女のこうした事実認識にあるのではない。「回答」において上野はこう言っている。

ジェンダーやセクシュアリティと移民の問題が同じにできないのは、前者が選択できないのに対して、後者は政治的に選択可能だからです。(難民の問題は別です。)
上野研究室 > ブログ > 人口減少か大量移民か? ちづこのブログNo.113 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

出生率を政治的にコントロールすることはできないし、すべきではありませんが、移民は政治的に選択することができます。
上野研究室 > ブログ > 人口減少か大量移民か? ちづこのブログNo.113 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

 「移民を政治的に選択することができる」とはどういうことだろうか。誰が「選択」するのか。上野が言うように、出生率を政治的にコントロールすることはできないし、すべきではない。にもかかわらず、国家は出生率を政治的にコントロールしようとしてきた。しかし、同じく、移民は政治的に選択することはできないし、すべきでもないにもかかわらず、国家はそれをしようとしてきたのである。上野はなぜ「移民」に関しては簡単に国家と同一化してしまうのだろうか。
 この上野の回答に対して、岡野八代は以下のように応答している。

あたかも移民問題が、国策=主権国家が受け入れる・受け入れないを一方的に判断できる「裁量圏内」にあるという考え方は、すでに80年代以降、ずっと思想的には批判されてきた「主権」論だと理解しています。そもそも、この上野さんの「移民」の捉え方は、あまりに国家中心的すぎる。移民を、「受け入れ国家」が選択できる問題としてのみ、考えているからです。
エッセイ > 移民問題は、「選択の問題」か?--上野さんの回答を読んで 岡野八代 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

 また、稲葉奈々子・髙谷幸・樋口直人の連名による意見表明はこう言っている。

上野さんの議論は、岡野さんも指摘されているとおり、移民管理における「国民主権」の全能性を信奉しているようにみえます。しかし実際には、主権は、全能な「至高の権力」ではなく、移民ネットワーク、国際規範、外交関係、社会の道徳規範などによって規定される社会的・歴史的産物にすぎません(Ngai 2004)。
エッセイ > 排外主義に陥らない現実主義の方へ――上野千鶴子さんの回答について 稲葉奈々子・髙谷幸・樋口直人 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

 つまり、移民を「政治的に選択」したり「政治的にコントロール」することなど実際は不可能なのだ。にもかかわらず、国家はそれをしようとしてきた。

主権が全能でないことは、各国に存在する非正規移民が端的に証明しています。とはいえ、日本の場合、国家、正確には入国管理局は、「至高の権力」としての主権であるかのように振る舞い、大幅な裁量のもと外国籍者を管理・追放してきました。また、マクリーン判決に代表されるように、裁判所もそうした「至高の権力」としての主権という神話を追認してきました。こうした状況において、「国民主権」の全能性を当然視する言説は、入管局の振る舞いにお墨付きを与え、民族的マイノリティを抑圧する政治的効果をもたらします。
エッセイ > 排外主義に陥らない現実主義の方へ――上野千鶴子さんの回答について 稲葉奈々子・髙谷幸・樋口直人 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

 また、稲葉らは、上野の回答の中の「わたしたちが外国の人たちにどうぞ日本に安心して移住してください、あなた方の人権はお守りしますから、と言えるかどうかも」という表現に見られるような、移民の行為者性(agency)を無視する上野のパターナリズムを批判している。しかし、稲葉らが言うように、「日本国民」が移民の人権を「お守り」したことなどなかったのである。移民の人権は、在日朝鮮人など移民当事者による闘いの中で獲得されてきたものでしかない*3*4

是川夕の「欧米の轍を踏むな」論批判

 さて、冒頭でも触れたように、「移民政策の専門家」是川夕は、「欧米の轍を踏むな」論を批判し「欧米の議論をそのまま持ってきて、同じようなことが起きるからだめだというのは、ほとんど事実誤認です」と言う。その理由として、是川は、欧米と日本の外国人の「受け入れルート」の違いを指摘する。欧米の「受け入れ」は「権利に基づいた受け入れ」が主流だが、日本の「受け入れ」は「労働ルート」が主流で、だから日本は大丈夫、というわけだ。つまり是川は、「欧米は外国人を受け入れて大変なことになっている」までの認識においては、上野ら「欧米の轍を踏むな」論者と同じなのだが、ただ、「だから外国人の受け入れには慎重になるべきだ」ではなく「でも日本は違うから大丈夫」となるのだ。そもそも彼の語り口は、「受け入れ」という表現にあらわれているように、上野と同じく「移民は政治的にコントロール・選択できる」という前提を共有している。ただ結論が上野と違って「コントロールして受け入れを選択すべし」となっているだけなのだ。
 また、この結論は、「権利に基づいた受け入れはするべきではない(欧米のようになるから)」と言っているに等しい。そもそも、「権利に基づいた受け入れ」とは何か。是川によると、旧宗主国への移動の権利を持って移動する旧植民地出身者のケース、シェンゲン協定*5に基づく権利によって移動する欧州市民のケース、難民条約で保障された庇護申請権によって移動する難民のケース、であるらしい。

「こうした人たちは仕事がなくても入ってきますし、家族でいきなり来ることも多い。そうすると、どうしても失業や貧困が問題になってくるわけです」
「欧米を反面教師に」と言うけれど 移民巡る比較がナンセンスなわけ | 毎日新聞

 是川によると、欧米で現在移民排斥の動きが強まっているのは、「権利」を持つ人の流入は原則的に拒めないがゆえに、受け入れ側の事情に関係なく移民が入ってくるからだ、という。
 是川の言い方は「日本は拒めない権利ルートの流入が少なくてラッキー」のようにも読めるが、日本に権利ルートの流入が少なく見えるのは、日本が、「拒めない」はずの権利を持つ人の移動を拒みまくってきたからである。歴史的に見ても、敗戦後日本は、特別な認可を受けた場合を除いて朝鮮半島からの日本への入国を禁止し、日本から朝鮮に帰国したが、故郷の政治的経済的混乱で生活できなくなったため、あるいは日本に残った家族と暮らすため日本に再入国しようとした朝鮮人を「不法入国者」として収容所*6に収容し、その後朝鮮に強制送還した。これが、旧植民地出身者の旧宗主国への移動の権利の侵害でなくてなんだろう。
 また日本は1981年に難民条約に加入したが、よく知られているように、日本の難民認定率は極めて低い。難民条約を批准してから2021年まで40年間、日本は毎年、常に数人から数十人しか難民を認定していない*7。特に2011年から2021年までの難民認定率は、常に1%以下だった。
 一方上野は、「難民の問題は別です」とか「日本の難民受け入れが極端に少ないことは是正すべき」と言っている*8。ということは、上野の立場は、「権利による受け入れは行うべきだが労働ルートの受け入れは行うべきではない」で、是川の立場は全く逆の「権利による受け入れは行うべきではないが労働ルートの受け入れは積極的に行うべき」だ、ということになる。
 それはともかく、日本が労働ルートの「受け入れ」を増やしてもなぜ大丈夫なのだろうか?それは、日本には(労働ルートの)移民を受け入れる「移民政策」が十分備わっているからだ、と是川は言う。

日本は前述した永住型も一時滞在型も受け入れを増やしており、「機能的には移民国家としての条件を十分に備えている」という。
「短期から永住に至る在留期間の長短にかかわらず、あらゆる形態に対応する在留資格があります。かつ、長く住む人には参政権を除けば、基本的には全ての人権を保障しています。そういう意味で言うと、フルスペックの移民政策を既に持っています」
「欧米を反面教師に」と言うけれど 移民巡る比較がナンセンスなわけ | 毎日新聞

 「あらゆる形態に対応する在留資格がある」というのが、まるで外国人のためにあるかのようにも読めるが、とんでもない話だ。「在留資格」とか「在留期限」は、1951年にポツダム政令として公布された「出入国管理令」(現在の入管法の起源の一つ)においてはじめて定められたものだが、「外国人は、こういう役割であればこの期間日本に居てもいいと認めてやる」というものだ。それは、強大な権限が与えられた入管によって恣意的に与えたり奪ったりされるものでしかない。1952年のサンフランシスコ講和条約発効の直前の4月19日、日本政府は、朝鮮人と台湾人は講和条約発効に際して日本国籍を失う、という通達を出した(欧米のような国籍選択の自由は与えられなかった)。植民地化されて一方的に「日本国籍」を押し付けられ、1947年の外国人登録令では外国人と「みなされ」ていた朝鮮人・台湾人は、「みなし」ではなく外国人とされ、入管法と外登法の対象となったのだが、彼ら彼女らには当初「在留資格」が無かったのである。日本政府は「法律第126号」と呼ばれる法律によって、当面の間、在留資格を持たずに彼ら彼女らが「在留することができる」とした。植民地化の結果日本にいる人たちなのに、お前らには「在留資格」に当てはまるものはなく出て行ってほしいが、当面は特別に「在留を認めてやる」というのだ。戦前に来日を余儀なくされ、長い間日本社会で生活してきた在日朝鮮人・台湾人(これは当時の外国人登録者の95%だった)は、入管法と、1955年から指紋押捺の義務も加わった外登法の対象となり、日本から退去させられうる不安定な立場を強いられることになった。朝鮮・台湾人の中には、戦争中軍属として徴用され、戦後BC級戦犯として裁かれた人もいたが、日本国籍がないことによって戦傷病者や戦没者遺族に対する保障から除外された。また、国・自治体の職員、国鉄などへの就職ができなくなった。公営住宅への入居などほとんどの社会福祉制度からも排除されることになった。広島長崎で被爆した朝鮮人も被爆者補償から除外された。
 だから、是川の「長く住む人には参政権を除けば、基本的には全ての人権を保障しています」という発言は、それこそ「ナンセンス」である。現在もなお、長く日本に住む外国人に「基本的には全ての人権が保障されている」わけがないことは言うまでもないが、保障されている人権があるとしても、それは、在日朝鮮人をはじめとする外国人当事者たちの長い闘いの中で、文字通りゼロから勝ち取られてきたものでしかない。上野は「わたしたちが外国の人たちにどうぞ日本に安心して移住してください、あなた方の人権はお守りしますから、と言えない」がゆえに「移民政策はやめておけ」と言うのだが、是川は「わたしたちはあなた方の人権はお守りしています。フルスペックの移住政策があります。ですから、どうぞ日本に(労働ルートに限って)安心して移住してください」と言うのだ。
 かつて世耕弘成は「フルスペックの人権」と言って炎上したが、是川が言うように日本に「フルスペックの移民政策」があるとするなら、それは「フルスペックの管理システム」でしかない。前述の稲葉らの意見表明にあったように「日本の場合、冷戦と植民地主義から引き継いだ差別構造・意識を背景にしてつくられた、入管法と外登法のセットによる外国人の「管理」、申請帰化による国籍取得などが、移民政策の根幹をなしてき」たのである*9
 さらに、是川の以下の発言もあきれるものだ。

国際的な視点に立てば、(日本では)欧米と違って労働ルートでの受け入れが機能しており、そこからあふれる非正規滞在者も少ない。
「欧米を反面教師に」と言うけれど 移民巡る比較がナンセンスなわけ | 毎日新聞

 日本では労働ルートでの受け入れを長年表立っては認めていなかったのであり、1980年代にまず「受け入れ」られた外国人労働者は非正規滞在のオーバーステイである。ピークの1993年にはその数は30万にせまるほどだったが、当時彼ら彼女らは完全に黙認されていた。さんざん利用してきたにもかかわらず、日本は、2000年代になって突如彼ら彼女らを「不法滞在者」と呼んで追放しはじめる。現在政府入管は「ゼロプラン」なるもので非正規滞在者を「ルールを守らない外国人」として追放しようとしている。その中には、日本で長年働き、日本社会に定着し、家族ができたりして帰国することができないにもかかわらず、正規化もされず、収容や仮放免という無権利の状態で10年も20年も耐えてきた非正規滞在者が多く含まれているのだ。その「少ない」非正規滞在者に対する官製ヘイトが、現在日本の排外主義の起爆点となっている。「少ない」というなら、彼らに一刻も早く「権利」に基づいて「在留資格」を出すべきだ。
(文中敬称略)

*1:内閣府を経て国立社会保障・人口問題研究所の国際関係部長を務める、という経歴

*2:90年入管法改定において日系3世とその家族に「定住者」の在留資格を認めたこと、93年に設立された外国人技能実習制度など

*3:「在日コリアンの権利獲得の歴史ひとつ振り返っても、「日本国民」が彼・彼女らの人権を率先して「お守り」したことがあったでしょうか。むしろそれらの権利は、国際的な圧力にくわえ、当事者自身による身をかけた闘いによって獲得されてきたのではないでしょうか(朴君を囲む会編 1974; 田中 2013)。私たちが関わってきた移住者支援運動も、当事者による運動の蓄積の上に成立しており、上野さんのようなパターナリズムは規範として問題があるだけでなく事実としても間違いです。」 エッセイ > 排外主義に陥らない現実主義の方へ――上野千鶴子さんの回答について 稲葉奈々子・髙谷幸・樋口直人 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

*4:上野は、稲葉らの批判に対する再回答の中では、いくつかの点で批判者の指摘に同意し、反省を表明している。 エッセイ > ブログ > ふくざつなことをふくざつなままに ちづこのブログNo.114 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

*5:欧州連合(EU)域内の自由な移動を保証する。

*6:1946年からは長崎県佐世保市の「針尾収容所」、1950年からは長崎県大村市の「大村収容所」。

*7:2022年に、初めて認定数が202人と3桁に達したが、この増加はアフガニスタン大使館関係者などに対する例外的な対応によるものと見られている

*8:ちなみに、最初のインタビュー記事では上野は「難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していく(べき)」と主張しているので、批判への回答で主張が変わっている。

*9:エッセイ > 排外主義に陥らない現実主義の方へ――上野千鶴子さんの回答について 稲葉奈々子・髙谷幸・樋口直人 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network

楳図かずお『14歳』について

『ビッコミ』で楳図かずおの『14歳』(1990〜95)が、期間限定全話無料というキャンペーンをやっていた。
bigcomics.jp
 読んだことなかったので、全話無料期間の3日間ほど、通勤時間をほぼ全て使って読み進めたが、結局260話のうち半分ぐらいしか読めなかった。そしたら、今度は2週間くらいで半分無料で読めますよ期間がはじまった。「なんだ、ちょうどよかった。ゆっくり残り半分読もう」と思ったら、え?!半分て前半の半分なの?!いやそこはもう読んだし…ていうか前半半分は2週間無料なら、3日間で慌てて読む必要なかったじゃん…。
 ところで、楳図というと、私は小学生のころ『漂流教室』(1972〜74)をリアルタイムで読んだが、とにかくめちゃくちゃ怖かった。『まことちゃん』(1976〜81)も少し読んでいたと思う。その後はまったく読んでいなかったが、だいぶ後になって『漂流教室』を読み直して感動し、その他のいくつかの作品も読んだ。『漂流教室』のほかは、『洗礼』(1974〜76)と『私は慎吾』(1982〜86)が印象に残っている。『洗礼』に関しては、20年前に旧サイトでどうってことのないことを書いている。
「猿虎日記」2004/06/01「梅図かずお『洗礼』、岡崎京子『ヘルタースケルター』他」
 そこでも書いたけれど、これから文庫版楳図かずお『洗礼』を読む人は、第一巻巻末の手塚眞の「エッセイ」はネタバレしているので決して読まないようにしてほしい。

引退の真相

 で、『14歳』だが、この作品を最後に楳図は、まだ50代だったのに(今の私より年下だ……)漫画家を引退している。腱鞘炎の悪化も理由だったようだが、大きなきっかけとなった事件があったという。2022年に朝日新聞に掲載された楳図のインタビューによると、この作品の連載中、新人の担当編集者が楳図の仕事場に入ってくるなり、「手はこうやって描くんですよ」と、げんこつの絵を巨匠に見せてきたそうだ*1
digital.asahi.com

僕は何も言いませんでしたが、その瞬間、この作品を最後にして、もう漫画を描くのはやめようと思ったんです。

 たしかに、この作品、1990年連載開始、つまり例えば大友克洋の『AKIRA』より8年も後の作品なのだが、70年代初めの『漂流教室』と何も変わってない、当時としても古臭い絵だったかもしれない。しかし、そこが楳図漫画の魅力でもあるのであって、楳図が大友克洋のような絵になったら、それはもう楳図かずおではない。
 そういえば、松田奈緒子の漫画『重版出来!』(2012〜23)第一巻で、ネット上で自分の漫画のデッサンの崩れが噂され「オワコン」呼ばわりされていることを知り、ショックを受けて引退を決意するベテラン漫画家三蔵山が出てくる。三蔵山の場合は、主人公の編集者のアドバイスで立ち直り、デジタル作画を導入するにまでなるのだが。それにしても、「オワコン」とか、「老害」とか、いやな言葉だ。
 話がそれたが、この『14歳』という作品、おそらく世の中では、天才的発想による奇想天外なストーリーがすごい、みたいに評価されているのではないか、と推測される。たしかにそういう面もあるのだが、この漫画のすごさは、動物解放、環境破壊、生命操作、優生思想などのテーマをまっすぐに掘り下げた「生真面目さ」にあると思う。以下、最初に書いたようにまだ全体の半分ぐらいしか読んでいないのだが、思いついたことを書いてみる(ネタバレあり)。

動物解放論

 この漫画の舞台は、「人類が古今まれな発展の頂点に至り」日本の遺伝子工学による食品革命によって世界の平均寿命が150歳になっている22世紀の地球である(コミック版第2巻64頁)。この時代、人間によって多くの動物は絶滅させられているのだが、バイオテクノロジーによるチキンが開発され、地球上から動物性タンパク質不足の危機が消え去ったのだという(コミック版第1巻50頁)。本作の主人公、チキン・ジョージは、未来の日本のある人工鶏肉工場で、培養液の中から突然生まれた、鶏の頭と人間のような体をもつ異形の「怪物」である。工場の研究員繁野はこの生物をこっそり自宅に連れ帰り保護するのだが、怪物は培養液の中で急速に成長する。最初は繁野の言葉を鸚鵡返しに発するだけだったのが、短時間で高度な知能を発達させ、繁野の家の書物やコンピュータで様々な知識を吸収する。そして、涙を流しながら、繁野に次のように言い残して、繁野の家を出ていく。

わたしの名前は、チキン・ジョージ。誰にも望まれずに、生まれてきました。(第1巻215‐6頁)
わたしは、動物を代表してやってきました!わたしは、あなたが伏せっている間に、あらゆる勉強をして考えました!!数学、化学、物理、生物……人のために、多くの動物が消えてしまったのですね。ゾウ、クジラ、ゴリラ、ライオン……そしていま生きているのは、犬、猫、カラス、ネズミなど、人の周りのものばかりですね。だが、やがてはそれも消えてしまうでしょう。人の勝手な都合で!!そう考えると怒りがこみあげてきます。(第2巻6−8頁)

 チキン・ジョージはこうも言っている。

わたしは知っている、わたしは誰にも望まれずに生まれてきた、だがこの世で望まれずに生まれてくる者などいない!!わたしは動物の意志なき意志によって生まれた。人間どもに復讐するために!!(第2巻46‐47頁)

 その後彼はさらに知能を発達させて天才科学者となり、ケンブリッジ大学の学位も取得する。彼は人類に対する復讐計画を撤回し、人類から、また地球の滅亡から逃れさせるため、動物たちを宇宙に送る計画に没頭する。

逃げよ!!逃げよ!!人類から逃げよ!!人類がまき散らす災いからできる限り遠くへ!!
(第6巻210頁)

 作中でのチキン・ジョージの思想は、読者によって、下手をすると、マッドサイエンティスト風キャラクターの妄想として作られた架空の奇説、程度に受け取られているのではないだろうか。だが、宇宙に逃がすとかは別として、彼の主張するような「動物解放論」自体は実際に存在しているのであり、楳図は以下のような主張を読者に真面目に問いかけているのだと思う。

このような立場で動物を見つめてはっきりと分かったのは、これまでの人類の動物への扱いが、一部の例外を除くと基本的に不当なものだったということだ。これまで人類は、それが同じ人類同胞だったら決して許されないような仕打ちを、動物に対して行なってきた。つまり人間は、動物はただ彼らが動物であるという理由だけで自由気ままに取り扱っていいと考え、その生殺与奪をほしいままにしてきたということである。(田上孝一『はじめての動物倫理学』集英社新書、2021年、p.4(Kindle版))

 おそらく楳図はチキン・ジョージの動物解放論を、既存の動物倫理学の書物などを学んで作り上げたのではないだろう。楳図かずおのwikipediaによると(「要出典」となっているが)、彼はチキン・ジョージのキャラクターを、吉祥寺(キチジョージ)で見かけた鳥の頭のモチーフと、「鳥はなぜ食べられるだけなのか?」という疑問から発想したのだという*2。もしそうなら、そういうところがさすがだな、と私は思う。
 ただ、この「人類によって虐げられてきた動物たちの意志が怪物を生み出す」というストーリーは、岩明均の『寄生獣』を思い起こさせる。この漫画の場合、人間に寄生し、人間を殺して食べる生物が突然上空から飛来する、ということになっているが、冒頭の

地球上の誰かがふと思った『人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにするだろうか……』(……)誰かがふと思った『生物(みんな)の未来を守らねば……』(第1巻4−5頁)

 というモノローグなどから、この生物が、地球か、全生物の「意志なき意志」のようなものによって生み出されたものかもしれない、ということがほのめかされている。
 また、主人公新一に寄生した寄生獣「ミギー」が、急速に知能を発達させ、新一の部屋の書物を読んで全世界の知識を吸収するシーンがある(第1巻44−5頁)。
 これは当然、岩明による『14歳』へのオマージュなのだろうと思ったのだが……。

チキン・ジョージが繁野の部屋でコンピュータを使って地球上の動物についてのの知識を吸収している
楳図かずお『14歳』(ビッグスピリッツコミックス)第2巻206頁
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ミギーがシンイチの部屋で図鑑を読んで動物の知識を吸収している
岩明均『寄生獣』(講談社アフタヌーンKC)第1巻44頁

 調べたところ、『寄生獣』の連載開始は1989年で、『14歳』の連載が開始された1990年より前である。wikipediaによると、楳図は「徹底的なオリジナル追求志向であり、他作品から影響を受けることを恐れて漫画や映画、アニメ、小説などには一切触れない」ということなので*3、この一致は偶然なのだろう。ただし、常に冷静・冷徹なミギーと違って、チキン・ジョージは最初から人類に対する激しい「怒り」を示している。そこはまったく違う。
 ちなみに『14歳』というタイトルは、ある年生まれた子どもがすべて14歳で死ぬ運命にある(そして人類と地球が滅ぶ)というところからとられている。私はてっきり、これは「1959年以降に生まれた世代は(環境汚染のせいで)41歳までしか生きられない」という、西丸震哉の『41歳寿命説』の41をひっくりかえして14にしたのではないか、と思っていたのだが、『41歳寿命説』が出版されたのは1990年7月だが、『14歳』はそれより前の1990年4月なので、これも偶然なのだろう。

優生思想批判

 さて、繁野の家を出たチキン・ジョージは、人間に変装して動物園を訪れ、動物が人間の見世物になっていることにショックを受ける(第2巻27頁)。先に引用した『はじめての動物倫理学』で田上孝一が言うように、動物園が動物虐待施設であり、それを廃止するべきだという動物園廃止論は、欧米ではすでに確立された有力な一学説である。

動物園にいる動物は人間が普段みることができない珍しい動物である。それは人里離れた地に生きる野生動物が主である。人間のいない、もしくは人間がまばらにしか住んでいない場所に住んでいるような動物が「珍しい動物」であり、それを間近にみたいという人間の欲望を叶える施設が動物園である。人里離れた地に住んでいる動物が人間の好奇の視線に間近に晒されれば苦痛を受けないはずはない。こうして動物園はその本質からして動物虐待施設である。(田上孝一、前掲書、p.125)

 しかし、田上が言うように、動物園廃止論は2020年代の現在の日本でも「まだまだ新奇な風説と受け止められている」わけで、その意味でも楳図の視線の先進性は際立っている。
 ところで、この未来の動物園では、通常の動物だけではなく、「遺伝子組み換え」によって作られた怪物たちも展示されていた。それどころか、人間の顔をした犬のようなキメラの怪物も展示されているのだ(このシーンは、永井豪の傑作短編「宇宙怪物園」(1978年)を思い起こさせる)。展示の前ではこのようなアナウンスが流れている。

動物たちが食べている肉も、やはりバイオで作られたチキンです。ですから、昔のように、個体を殺すような殺生は今はなくなりました。(第2巻32頁)

 チキン・ジョージはこう叫ぶ。

ちっ、違う!これは動物ではない!こんなもの図鑑にもなかった。ぜ、全部!全部人間が創り出した過ちだっ!(第2巻33頁)

 人間がバイオテクノロジーで生命を操作することを、神の領域に踏み込んだ「過ち」のように描くのは古典的なSF作品のモチーフだろう。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818年)、H.G.ウェルズの『モロー博士の島』(1896年)などはそうした作品のはしりだろうし、『14歳』には明らかに『モロー博士の島』を意識しているだろうシーンがある*4。前ブログで書いた『メイドインアビス』に出てくるミーティという「怪物」も、生命操作の犠牲者のように描かれている*5
sarutora.hatenablog.com
 しかし、ブログに書いたように、あの作品は、生命操作の「過ち」を非難しつつ、「過ち」の結果生まれた「可哀想な怪物」を主人公が「殺してあげる」ことで救済する、というような、「エモい」陳腐なストーリーになっていた(荒川弘『鋼の錬金術師』のニーナのエピソードも、そのような結末になっていたと思う)。
 一方、「恐怖漫画家」を自称している楳図は、人間の「過ち」によって生まれた「怪物」に対する人間たちの「恐怖感」や「哀れみ」に同調して作品を描いているわけではない。『14歳』は、バイオチキンの培養液の中で生まれた「ミュータント」であるチキン・ジョージを主人公として、彼の「怒り」と「苦悩」を描く。動物園で子どもたちに素顔を見られて「怪物」と囃し立てられ、しかもカラスにも攻撃されてしまうチキン・ジョージはこう叫ぶ。

ふん!!わたしが怪物に見えるか、人間の子供ども!!
わたしから見れば怪物は、お前らのほうだっ!!
(第2巻43頁)
 そうか、わたしは人間でも動物ではないのか。わたしは、お前らにとって、怪物なのかっ!?わたしはどっちでもないのかっ!(第2巻45頁)

 そしてチキン・ジョージは動物園の檻を開け放ち、中から出てきた「怪物」たちは動物園の観客の人間たちに次々と襲いかかるのである。『メイドインアビス』や『鋼の錬金術師』のエピソードとの違いは明らかだ。
 もちろん、そうした「怪物=ミュータント」の苦悩をテーマにした作品は、他にもある。上掲のブログで私は以下のように書いた。

 「怪物」というテーマは、永井豪、諸星大二郎、藤子F不二雄、手塚治虫、楳図かずお、宮崎駿、といった人々の作品にしばしば登場する*6。このブログでもいくつかそれについて考察する文章を載せたことがある。そして、それらの作品では、「怪物」を忌み嫌う私たち自身のまなざし、を問題にする観点が多かれ少なかれ含まれているように思う。

 以下のブログでは、諸星大二郎の『バイオの目次録』と、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』という、どちらもバイオテクノロジーとミュータントがテーマとなっている作品を比較して色々書いている。
sarutora.hatenablog.com
 上記ブログミーティの危惧 - 猿虎日記で紹介したが、堤愛子は「ミュータントの危惧」という文章で、反原発をテーマにしたある書物に含まれる優生思想を批判した。

放射能汚染の例としてよく引用されるものに、スリーマイル島の原発事故の影響による巨大タンポポがある。本書では「巨大タンポポ」(六頁)と記されていたが、別のある資料には「お化けタンポポ」と書かれており、私は胸が痛んだ。
 以前、食品汚染のPRビラの見出しに「首の曲がった子になるの、ボクいやだ」と大きく書かれているのを見て、私は身震いするほどの不快感を感じた。これを書いた人は、首の曲がっている人の気持ちをどう考えているのだろうと。(……)「お化け」であれ「巨大」であれ、タンポポの「奇型」を強調することによって放射能汚染の恐怖をあおり立てることに、私は言いようのない苛立ちとたまらなさを感じる。たとえば「種々の食物が突然変異を起こし、奇型がつづいています。このように放射能による影響は歴然としていますし、またこのように恐ろしいものなのです(六頁)」といったような表現だ。結局これらの表現は、「奇型」「障害」をマイナスのイメージに固定化させていくことに他ならないからだ。
堤愛子「ミュータントの危惧──甘蔗珠恵子『まだ、まにあうのなら』書評」1989年7月『クリティーク』(青弓社)所収

 堤は、放射能汚染の恐ろしさを「障害者」に対する異和感や恐怖心と重ね合わせたところで語ってほしくない、と言う。
 この点に関しては、『14歳』の第二章の冒頭のシーンが興味ふかい。地球滅亡の最初の兆しとして、全世界で緑色の子どもが生まれる、という事件が起こる。チキン・ジョージはこの現象を最初「植物による人間への復讐」と考えるのだが、のちにそうではなく、滅亡する地球から宇宙に脱出する人間の計画を察知した植物が、人間に寄生して宇宙に逃れようとしていたのだということがわかる。(第6巻205頁)。それはともかく、アメリカでは、政府は当初この事実を隠蔽しようとして、緑色の赤ちゃんたちはある病院の中の一箇所に集められる。この作品のもう一人の主人公とも言えるアメリカ大統領ヤングがそこを訪れた時、科学者たちはこの子たちを「処分」しようとしていた。驚く大統領に、科学者たちは、「処分」は大統領の命令だ、と主張するのだが、大統領は「悪質なデマだ」と言う。しかし科学者たちはこう言う。

そのような赤ちゃんがいないほうがいいと思っているのは、大統領、あなただけではなくて、むしろ親の方ではないでしょうか。もし今これを助けたら、あとでどんなに親に恨まれるでしょう……あの時殺しておいてくれればよかったと……。だからこれは正しい行いではないでしょうか?だからわたし達も、疑うことなく従ったまでです。(第2巻122頁)

 大統領は赤ん坊たちの前に立ちはだかり、「処分」を寸前で止める。その後大統領はこう言う。

いや、悪いのは、むしろわたしのほうだったのかもしれない。じつはわたしの息子も緑色で生まれてしまった。わたしはそんな息子が産まれてきたことを心の中でうらんだ。そんなわたしの気持ちが、こんなデマとなってあらわれたのかもしれない。わたしは、たとえ心の隅にだけでも、そのような考えを持ったことを、この子ども達に謝らなければ。(第2巻127)

 こうしたシーンにも、やはり楳図の真面目さが現れていると思う。

日本の「ざんげ」

 さて、ここまで褒めてきた『14歳』だが、第9巻まで読んだ時、ある程度予想はついたことではあるが、やはりだめか、とがっかりした箇所があった。
 単行本第9巻で、各国首脳がアイスランドに集まり地球の未来について対策を話し合う「地球会議」を開催するシーンがある。報道では、本当の議題は秘密にされ「地球の明るい未来について」と偽装されているが、本当の議題は、絶滅が迫った地球の未来について話し合うものだった。会議の冒頭で、各国首脳は、地球があと3年で滅亡することを知る。彼らは、子どもたちを選抜して宇宙に逃がすという計画を立てるのだが、話し合いのあと、首脳たちの間で誰からともなく涙ながらの「ざんげ」がはじまった。アメリカのヤング大統領のざんげは以下のようなものだ。

地球を死に追い詰めたのはアメリカだと思う!!振り返れば、アメリカは率先して自然の破壊をつづけてきた。まず、アメリカ大陸という土地を踏みにじった。そしてそこにいた先住動物のいくつかを絶滅させてしまった!!(……)アメリカは自由と正義の名のもとに突き進んだ。(……)自分が正義でいるためには、やっつける敵が必要だった!!そのために、いろいろな国々に迷惑をおかけした。(……)
アメリカはいつも世界で一番でなくてはならなかった。原子爆弾を使用したのもアメリカが最初だった。広島と長崎に原子爆弾を落とした時も、われわれの知識人があれは現代のソドムとゴモラだと言い放ち*7、なんら反省するところはなかった。犠牲者に対してはもとより、核の惨禍が地球自体にも向けられているということに気が付きもしない、無知ともいえる傲慢な態度だった!!(……)われわれは今までに何度、母体である地球を痛めつくしただろう!!過去における地上及び地下や海中の核実験は悲惨なまでの地球への反逆行為だった!!(第9巻68-72頁)*8

つぎはヨーロッパである。

いや!!ヨーロッパこそ悪かった!!ヨーロッパ中心の上流階級主義は、そうでないものをアメリカへ追いやってしまった。(……)わたし達は、ありとあらゆる場所を征服しては、ありとあらゆる資源を取り尽くした!とくにアフリカに対しては、心から謝罪させていただきたい!!許してください!!(第9巻73-4頁)

 呉智英はかつて『はだしのゲン』の「解説」でこんなことを言っていた。

『はだしのゲン』の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば、『はだしのゲン』は稚拙な政治的マンガだということになってしまう。そうではなく この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。稚拙な政治的言葉しか持ちえなくても、それでも巨大な災厄に立ち向かおうとする人々の軌跡なのだ。
呉智英氏「不条理な運命に抗して」(『はだしのゲン』解説)1996年 「猿虎日記」最近読んだマンガ2003/03/11「中沢啓治『はだしのゲン』」にて引用*9

 呉ならば、『14歳』の上記の箇所も、おそらく「稚拙な政治的言葉」であり、それを作者の訴えと単純に考えてはならない、などと言うのだろう。 
 もちろん、アメリカがざんげするとすれば、先住動物の前に先住民に対してだろう、というのが強烈な違和感だし、ヨーロッパの問題を「上流階級主義」というのもずれているような気がするが、上記の各国首脳の「ざんげ」のセリフは、帝国主義、植民地主義、核の問題などについて、楳図自身が真面目に考えていることだろうし、読者としても真面目に受け取るべきものだと思う。
 だが、次の日本とアジアのざんげは、予想できたこととはいえ、がっかりしてしまった。

(日本の首相のざんげ)
 日本こそ謝らなくてはいけない!!日本は小国のくせに、経済の発展で自らを経済大国と呼んだ……経済力であらゆるものを買いあさり、あらゆるものを作り出した。その結果おびただしいゴミを生み出し、影ではゴミ大国と呼ばれた。(……)わたし達は常に、法律とお金というモノサシ以上に、美意識というモノサシを持つべきだった!!(……)

(アジア(ってどこ?)の首脳のざんげ)
 それを言うなら、われわれアジアはみんな同じだ!!何かと言えば日本の悪口ばかり言いつづけた!!だがそれは、自分に言っているのと同じだった。(……)

 バブル時代に書かれた漫画とは言え、時代に先駆けてあれほど鋭い動物解放論を展開し、まっとうな優生学批判を展開していた楳図にして、やはりこうなる。日本がざんげしなければならないとすれば、まずは、アイヌ、琉球、アジア諸国に、計り知れない「迷惑をおかけした」ことであろう。しかし、楳図にとって、日本がざんげすべきこととしてまず思い浮かぶのは、「経済大国」となって「美意識」を失ったこと、なのである……。さらに、アジアは「何かと言えば日本の悪口ばかり」と来ては、ネトウヨと大差ない認識だ。ちなみに、小林よしのり『ゴーマニズム宣言』がはじまったのは、『14歳』連載中の1992年である。
 かつてこちらの記事で、『皇国の守護者』という漫画のタイトルをネタに次のように書いた。

日本人というのは、明治以来、尊大な「大国」意識とアジアに対する蔑視感情をとめどなく増大し続け、実際に軍事大国となって加害を繰り返しておきながら、一方で、自分の汚れた手(軍事)からひたすら目をそらし、「大国」のイメージを「科学技術」だの「経済」だので塗りかため、さらには、自分たちは「反日」の軍事大国からいじめられ、脅かされている「小国」なんだ、などという被害者意識をはちきれんばかりにふくらませている

sarutora.hatenablog.com
 残念ながら、楳図の『14歳』の中の「日本」も、この構図から逃れられていない。

*1:「新潮45」2002年1月号のインタビューでも楳図は同様のことを語っているそうだが、ただし、当時の楳図の編集者などへ取材した石田汗太によると、このエピソードが事実だったかどうかの裏付けはとれないということだ。(楳図かずお;石田汗太. わたしは楳図かずお マンガから芸術へ (p.212). Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版. )

*2:楳図かずお - Wikipedia

*3:楳図かずお - Wikipedia

*4:「他作品から影響を受けることを恐れて漫画や映画、アニメ、小説などには一切触れない」とされているにもかかわらず。ついでにいうと、『14歳』には『アルジャーノンに花束を』を思わせる部分もある。

*5:ミーティが「怪物」になるのは人工的な生命操作によってというより異世界の呪いのようなものによってではあるが、彼女はボンドルドによって人体実験の目的で強制的に呪いを受けさせられている。

*6:ここに石ノ森章太郎も付け加える必要があるだろう。その他、私は見ていないのだが、アメコミやそれを原作とする映画の「X-MEN」シリーズなんかも、そうした作品のようだ。

*7:しかし、原爆を「現代のソドムとゴモラ」とはっきり言ったアメリカの知識人はいるのだろうか?

*8:それにしても、この漫画の中のアメリカ大統領、蔑称としての「漫画のような」現実の大統領とはえらい違いである。

*9:今回、2018年に紙屋高雪氏が、この呉の『はだしのゲン』解説について「ポジショントーク」と批判していることを知った。 kamiyakenkyujo.hatenablog.com

高市・小野田の発言は石破発言のコピペ

高市首相は、10月24日の所信表明演説で、外国人政策について次のように述べている。

 人口減少に伴う人手不足の状況において、外国人材を必要とする分野があることは事実です。インバウンド観光も重要です。
 しかし、一部の外国人による違法行為やルールからの逸脱に対し、国民の皆様が不安や不公平を感じる状況が生じていることも、また事実です。
 排外主義とは一線を画しますが、こうした行為には、政府として毅然(きぜん)と対応します。政府の司令塔機能を強化し、既存のルールの遵守を求めるとともに、土地取得等のルールの在り方についても検討を進めてまいります。そのため、新たに担当大臣を置きました。

www.kantei.go.jp

 ここで言われている新たに置かれた担当大臣、とは「外国人との秩序ある共生社会推進担当大臣」のことを指す。そして、この大臣に任命されたのが小野田紀美である。しかし彼女は、「外国人との共生」を推進する考えを持っているとはとても思えない人物だ。彼女は、2021年に参議院法務委員となってから一貫して入管法改定の強硬な推進派*1。2023年には、「移民政策はもちろん外国人の入国資格緩和等には常に反対してますよ」と言っている。

 2022年3月4日には、2019年の大村センターにおける餓死者も含め、1997年以降27人の被収容者が死亡している入管の収容施設の状況について

(被収容者が)飢え死にすることはありませんよ。我が国の国民の税金から5億円を超える食費をまかなって宗教などにも対応した50種類以上のメニューが3食支給されていますから。

などと言ったうえで、名指しはしていないまでも、明らかにウィシュマさんについてとわかる書き方で

活動家に唆されて、病気を理由にした仮放免を狙ってハンガーストライキして体を壊す方はいますが。
法律違反のゴネ得を認めるなど否。

などと言っている。

 これは、その後同年5月の国会で、維新(現参政党)の梅村みずほが発言し党からも処分を受けた問題発言とほぼ同じ内容である。
 また、2023年4月には、政府・与党が、在留資格がない子どもに在留特別許可を与える方向で検討しているというニュースに対して、Xで

とんでもない提案。そもそも日本の国籍は出生地主義では無く血統主義なので、日本で生まれようが育とうが関係ない。責められるべきは日本国ではなく不法行為で不安定な立場にした親の責任。感情で法を捻じ曲げたゴネ得は許されない。

などと書いている。

 さて、小野田は、高市の所信表明演説の二日前の10月22日、大臣就任記者会見で、次のように述べている(動画からの聞き取り)。

 外国人との秩序ある共生社会の推進について、一部の外国人による犯罪や迷惑行為、各種制度の不適切な利用などにより、国民の皆様が不安や不公平を感じる状況も現在生じております。
 排外主義に陥ってはなりませんが、国民の皆様の安全安心の確保は経済成長に不可欠です。ルールを守らない方々への厳格な対応や、外国人をめぐる現下の情勢に十分対応できていない制度、政策の見直しを含めた様々な課題について、関係行政機関との緊密な連携の下で、政府一体となって総合的な検討を進めてまいりたいと思います。

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(【動画】「排外主義に陥らず」 小野田外国人政策相、外国人政策見直しへ意欲 - 産経ニュース2025/10/22 )

 こうした発言には、小野田個人の排外主義的思想が色濃く現れている……ように見えるのだが、実はこの小野田の就任記者会見の発言には、小野田個人の言葉は微塵も含まれていないのである。
 というのも、就任記者会見での彼女の言葉は、前首相石破茂の3ヶ月前の発言と、ほぼ一字一句同じ丸コピだからである。参院選の真っ只中の7月15日、「外国人施策の司令塔となる事務局組織」として、小野田大臣の肩書「外国人との秩序ある共生社会推進担当大臣」と全く同じ、「外国人との秩序ある共生社会推進室」という組織が内閣官房内に発足した。その際の訓示で、石破は次のように述べている。

『外国人との秩序ある共生社会推進室』の発足に当たり、一言申し上げます。
 少子高齢化や人口減少が進む我が国が、今後、成長型経済への移行を確実なものとするためには、一定の範囲での外国人労働者の受入れ、インバウンド消費の拡大などにより、海外の活力を取り込んでいくことが重要であります。
 他方で、一部の外国人による犯罪や迷惑行為、各種制度の不適切な利用など、国民の皆様方が不安や不公平を感じる状況も生じております。
 国民の皆様の安全・安心の確保は、経済成長の不可欠の前提であり、ルールを守らない方々への厳格な対応や、外国人を巡る現下の情勢に十分に対応できていない制度・施策の見直しは、政府として取り組むべき重要な課題であります。

 こうした問題意識の下、本日、内閣官房に、外国人施策の司令塔となる事務局組織として、『外国人との秩序ある共生社会推進室』を設置いたしました。
 出入国在留管理の一層の適正化、外国人の社会保険料等の未納付防止、外国人による土地等の取得を含む国土の適切な利用・管理など、取り組むべき課題は多々存在しております。
 皆様におかれましては、これらの課題に的確に対処するため、省庁の枠を超えて緊密に連携し、外国人の懸念すべき活動に対する実態把握、関係機関のより緊密な連携を可能とするための国・自治体における情報基盤の整備、各種制度・運用の点検・見直しなどに取り組んでいただきたいと思います。
 国民の皆様も、高い関心をもって、政府の対応を注視しておられます。
 皆様が、その職責を十分に認識し、外国人との秩序ある共生社会の実現に向けて、総合的・横断的に取り組んでいただくことをお願い申し上げ、私の訓示といたします。どうぞよろしくお願いいたします。

www.kantei.go.jp

 どうだろうか。赤字部分、取ってつけたような「排外主義に陥ってはなりませんが」という文句が加わっている以外、まったく同じである。よりわかりやすくするために該当部分を並べて引用しておこう。

小野田

一部の外国人による犯罪や迷惑行為、各種制度の不適切な利用などにより、国民の皆様が不安や不公平を感じる状況も現在生じております。

排外主義に陥ってはなりませんが、

国民の皆様の安全・安心の確保は、経済成長に不可欠です。ルールを守らない方々への厳格な対応や、外国人を巡る現下の情勢に十分対応できていない制度・施策の見直しを含めた様々な課題について、関係行政機関との緊密な連携の下で、政府一体となって総合的な検討を進めてまいりたいと思います。

石破

一部の外国人による犯罪や迷惑行為、各種制度の不適切な利用など、国民の皆様方が不安や不公平を感じる状況も生じております。

国民の皆様の安全・安心の確保は、経済成長の不可欠の前提であり、ルールを守らない方々への厳格な対応や、外国人を巡る現下の情勢に十分に対応できていない制度・施策の見直しは、政府として取り組むべき重要な課題であります。

 ただ、小野田はそもそも「移民反対派」を自称しており、特定技能が導入された2019年の入管法改定には反対していたのだが、党議拘束があるので「党内の議論に負けてしまったら賛成するしかなかった」と言っている。

 だから、石破発言の「一定の範囲での外国人労働者の受入れ、インバウンド消費の拡大などにより、海外の活力を取り込んでいくことが重要」という部分はコピペせず省略したのかもしれない。
 それはともかく、石破辞めるなデモまでして石破の続投を求め、高市政権の成立を嘆く「リベラル」は多いようだが、少なくとも外国人政策に関しては、石破も高市も小野田も、全く変わらないのである。
 では、7月の石破の訓示が「石破の言葉」か、というと、実はそれもまた違うのだ。
 石破は、7月15日の「外国人との秩序ある共生社会推進室」発足の一週間前の閣僚懇談会で同組織の設置を表明しているが、この懇談会後の記者会見での林芳正官房長官(当時)の発言には「一部の外国人による犯罪や迷惑行為、各種制度の不適切な利用など、国民が不安や不公平感を有する状況も生じている」という全く同じフレーズが見られる。
news.yahoo.co.jp
(政府 外国人共生に向けて新組織 一部外国人の犯罪・迷惑行為にも対応 7/8(火)日テレNEWS )

 しかし、そもそも、この「外国人との秩序ある共生社会推進室」というふざけた名前の政府組織は、もともと、ほぼ同じ名前の自民党の内部組織「外国人との秩序ある共生社会実現に関する特命委員会」の提言を受けて作られたのである。「外国人との〜特命委員会」は、外国人政策に関する自民党政務調査会の様々な組織を束ねて立ち上げられたとのことだが、6月6日に石破首相(当時)に「国民の安心と安全のための外国人政策 第一次提言― 違法外国人ゼロを目指して―」と題した提言を申し入れている。
www.jimin.jp

 この提言の中にある「近年、外国人の就労者や海外からの観光客の増加により、迷惑行為や国民の不安を招くような事態が発生しています」という部分が、例のコピペフレーズのもととなっているのだろう。で、この提言は、以下のような「3つの原則と3つの方針」からなっている。

1.3つの原則

  • 法令遵守の徹底:公の秩序の維持の観点も踏まえ、ルールを守る外国人を受け入れ、ルールを守らない外国人には厳格に対応
  • 制度の適正利用:制度の目的に反する利用を防止するため、制度・運用を適正化
  • 透明性の確保:土地の取得や制度の利用状況について、国籍等の実態を把握


2.3つの方針

  • 国籍等の情報を報告・共有する制度的枠組みの整備、および出入国・在留管理、土地利用、制度利用状況など、外国人に関する実態の把握
  • 政府機関や自治体のDX化を推進し、双方向の情報共有を可能にする基盤の整備
  • 関係省庁が協力し、継続的な実態把握および制度・運用の不断の見直しを行う司令塔体制の構築

 この、「3つの方針」の3つ目の「司令塔体制の構築」に従って、提言をした組織とほぼ同じ名前の「外国人との秩序ある共生社会推進室」という組織が政府内に作られ、「外国人との秩序ある共生社会推進担当大臣」に小野田が据えられた、というわけなのだろう*2
 「3つの原則」の1つ目には「ルールを守る外国人を受け入れ、ルールを守らない外国人には厳格に対応」とある。しかし、「ルールを守る外国人を受け入れ」の部分は、小野田としては納得いかない部分だろう。自民党としては、「ルールを守らない外国人には厳格に対応」というところを、排外主義者たちに「外国人はルールを守らないから厳格に対応」と都合よく解釈してもらおうと思っているのではないか。
 ちなみに、この自民党の内部組織の提言「国民の安心と安全のための外国人政策 第一次提言」には、「―違法外国人ゼロを目指して―」というサブタイトルがついている。この「違法外国人ゼロ」や、「ルールを守らない外国人」という言葉から容易に思い起こされるものがある。上記自民党「外国人との〜特命委員会」が石破首相に提言を行った6月6日からさらに2週間まえの5月23日に法務省入管が発表した「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」である。この「ゼロプラン」は、「ルールを守らない外国人により国民の安全・安心が脅かされている社会情勢に鑑み、不法滞在者ゼロを目指し、外国人と安心して暮らせる共生社会を実現する」ことをうたっているのだが、入管のサイトには以下のように書かれている(強調引用者)

 ルールを守る外国人を積極的に受け入れる一方で、我が国の安全・安心を脅かす外国人の入国・在留を阻止し、確実に我が国から退去させることにより、円滑かつ厳格な出入国在留管理制度の実現を目指してきました。
 しかし、昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け、そのような外国人の速やかな送還が強く求められていたところ、法務大臣から、法務大臣政務官に対し、誤用・濫用的な難民認定申請を繰り返している者を含め、ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示がありました。
 その結果として、「入国管理」、「在留管理・難民審査」、「出国・送還」の3つの段階に分け、各段階における具体的な対応策を「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」としてまとめました。

www.moj.go.jp

*1:ちなみに、21年の改定案が一旦廃案になったのは、彼女によると「一部野党とマスコミにネガキャンで潰されてその国会では廃案にな」った、ということらしいhttps://x.com/onoda_kimi/status/1566317104344621057

*2:2つ目の「DX推進」は笑ってしまう。

加工禁止


出入国在留管理庁へ(to Immigration Services Agency)
【加工禁止】
行政文書の開示請求で、内容のある部分をすべて黒塗り等で加工するのは不可です。加工した文書では内容が確認できず、市民の知る権利の侵害であり、都合の悪い情報の隠蔽を疑われます。こちらをご確認ください↓
https://mainichi.jp/.../arti.../20230117/pol/00m/010/003000c
https://digital.asahi.com/articles/AST7J22KGT7JPTIL00VM.html
リンクを貼った2つの新聞記事に掲載されている、開示請求で入管から送られてきた全面黒塗りの文書の写真

出た!「ねらい」論法(イラン核査察)

 日本のマスコミでは、中国、朝鮮民主主義人民共和国、韓国、ロシア、イラン……そうした国に関する報道のときだけ、事実や政府の公式声明を単に伝えるだけではなく、必ずといっていいほど「ここには、◯◯のねらいがあると見られます」のように付け加える。そういうしきたりがあるかのようだ。そのことはこのブログで2007年以来何度も書いている。
sarutora.hatenablog.com
 先日電車の中でモニターに映されるニュースを見ていたら、また典型的なものがあった。まずそのニュースの背景を説明しておこう。
 2025年6月13日、イスラエルが、イラン各地の核開発関連施設などの100以上の標的に対して「先制攻撃」を行った。その後両国は事実上の戦闘状態となり、イラン保健省によると21日までのイラン側の死者は430人、負傷者は3500人以上で、大半が民間人であるという。さらに同月22日には、今度はアメリカが、イランの3つの核施設を攻撃した。このイスラエルとアメリカによるイラン核施設への攻撃は、とんでもない暴挙であることは明らかだ。NHKの報道によると、その日のうちに、この攻撃に関する国連安保理の緊急会合が開かれている。
www3.nhk.or.jp
この緊急会合で、ロシア代表が、中国、パキスタンとともにこの件に関する決議案を準備していることを明らかにし支持を呼びかけたという。だが、それについてNHKの記事ではこう付け加えている。

決議案の採決が行われても、アメリカが拒否権を行使する可能性が高く、利害が対立する各国が合意を形成する難しさが改めて浮き彫りになりそうです。

 それにしても、引用した部分、「利害が対立する各国が合意を形成する難しさが改めて浮き彫りになりそうです」という書き方にあふれる他人ごと感、まったくあきれる他はない。その後、イラン核施設への攻撃を非難する決議案は提出されたようだ*1。採決の報道は見つけられなかったが、周知のとおり、アメリカの拒否権行使によってイスラエル非難決議が否決されることは、これまで何度も繰り返されてきたことだ。イスラエルによるイラン攻撃の直前の6月4日も、国連安全保障理事会では、ガザへの人道支援の制限解除をイスラエルに求めた決議案が提出されたが、常任理事国5カ国非常任理事国10カ国のうち、アメリカ以外の14カ国が賛成したにも関わらず、常任理事国であるアメリカ一国が拒否権を行使したために否決された。
www.sankei.com
 それはともかく、イスラエルとアメリカによる核施設の攻撃を受けたあと、7月に入って、イランは、IAEA(国際原子力機関)の査察への協力を停止し、査察官はイランから退去した。イランは、アメリカなどによる核施設への攻撃をIAEAが非難しなかったとして協力を一時停止する法律を施行したのだという*2。このイランの対応はまったく理解できるものだ。だいたい、イスラエルは核兵器保有をほのめかすだけで肯定も否定もせず、イランと違ってNPT(核拡散防止条約)に加盟してすらいない。にもかかわらず、IAEAは、過去、イスラエルにNPTへの加盟と査察の受け入れを求める決議案を、アメリカやヨーロパ、日本などの反対で否決している*3
 ここまでが今回私が電車で見たニュースの背景なのだが、では、そのニュースでは何が伝えられていたかというと、7月以来IAEAの査察への協力を停止していたイランが、IAEA査察官の受け入れを部分的に再開したというのだ。これを伝える各社のニュースで、例の「ねらい」論法が炸裂していた。
産経↓

IAEA査察官がイランに入国と報道 核開発の監視に関する協力を一部再開か - 産経ニュース2025/8/27 21:16
イランのアラグチ外相は27日、国際原子力機関(IAEA)の査察官が同国南部のブシェール原発で燃料の交換作業を監督するため入国したと明らかにした。イランメディアが報じた。イランの法律はIAEAへの協力を一時的に禁じているが、核開発拡大に対する欧米諸国からの圧力が強まる中、柔軟な姿勢を示す狙いがありそうだ

日経↓

IAEA査察官、イランに入国 協力姿勢示す意図か - 日本経済新聞2025年8月28日 14:30 [会員限定記事]
【ドバイ=福冨隼太郎】イランのアラグチ外相は27日、国際原子力機関(IAEA)の査察官がイランに入国したと明らかにした。同国南部のブシェール原子力発電所での燃料の交換を監視するためとしている。核開発をめぐって米欧がイランへの批判を続けるなか、核監視への協力姿勢を示す狙いもありそうだ


NHK↓

イラン IAEA査察官受け入れを部分的に再開 核開発めぐる国連制裁再開を回避したい思惑か | NHK | イラン2025年8月28日 5時14分
イランは、IAEA=国際原子力機関の査察官の受け入れを部分的に再開したと明らかにしました。核開発をめぐりイランへの制裁を再開させようとする動きがある中、IAEAへの協力姿勢を見せることで、そうした事態を回避したいという思惑もあるとみられます

朝日↓

IAEAトップ「査察官イランに戻り活動準備」 欧米の圧力高まる中 [イスラエル・イラン情勢]:朝日新聞テヘラン=大野良祐2025年8月27日 20時00分
 イスラエルと米国がイランの核施設などを攻撃した6月の「12日間戦争」後、イランの批判を受け、IAEAの査察官全員がイランを退去していた。核問題でイランには外交解決に向けた欧米諸国からの圧力が高まっており、査察官が戻ることで、IAEAとの関係正常化を印象づける狙いもあるとみられる

 制裁再開という「欧米諸国からの圧力」があるから査察受け入れを再開したのだとして、それを「協力姿勢を示すねらいがある」ていう言い方をするのって、おかしいでしょ?
 カツアゲされてる少年がしかたなくお金払ったら「ちゃんと払ってますって真面目アピールして、俺等にシバかれるのを避けようってねらいがあるんだろ?いい子ぶってんじゃねえよ」て言われているようなもんじゃないの。