通俗的な、サルトル(笑)

徐京植『秤にかけてはならない──日朝問題を考える座標軸』(影書房、2003年)に、内田樹氏のサルトル批判に対する徐氏の反批判がある、ということをrom_emonさんに教えてもらった。というわけで本をamazonで購入し、とりあえず該当箇所だけ読んでみた(他のところはあまりまだ読んでいない)。

徐──だから、多くの日本の人々はやはり必勝不敗です。その一番典型的なのは内田樹氏です。彼は、最初から自分は負けているのだと頭をかいているけれども絶対に負けないのです(笑)。これほど退嬰した言説がもてはやされる日本社会とは何なのかと思います。(……)
徐──そうですね、内田氏のことであまり時間を取らないほうがいいと思うけれども、やはり典型的に表れているのが、『ためらいの倫理学』(冬弓舎)のなかでの彼のサルトル批判です。「サルトルは、周囲のフランス知識人に先立って第三世界の被抑圧民族に謝罪することによって、同胞を審問する特権を手に入れた」といっているのです。
中西*1──なるほどね(笑)。
徐──第三世界被抑圧民族の正義という護符を得て同胞を審問するという特権を得たというのですが、そこで「同胞」という言葉を使っていることで、彼の議論がどれぐらいまやかしかということが分かります。つまり、「被害者の正義を借りて身内を責めるな」という身内主義で、それは結局、帝国主義、植民地支配に対する批判を前に保身をしたいという心的規制の学問的表現にすぎないのです。学問的とも言えないけれども……。
 しかし、それがなぜ日本でそんなにもてはやされるのか。しかももてはやす人たちは、自分たちはあたかも少数派で被害者であるかのように、指弾にさらされて非常に困った立場に立っている人間なのだと言うのです。「徐京植のような強者にいじめられて困った」みたいに(笑)。(徐京植『秤にかけてはならない』影書房、2003年、98-9ページ)

徐京植氏の内田批判(というより「内田樹現象」批判)はまったくそのとおりと思う。
ただ、私としては、ここで内田氏による批判対象として間接的に話題になっているサルトルのことが、気になってしかたがないのである。
この本の読者で、徐氏の内田批判にに同意する人は、はたしてサルトルに対してどう考えるのだろうか……。これはもちろん想像でしかないが、内田氏には関心があるが、サルトルにはそもそも関心がない、どうでもいい、という人が一番多そうである。さらには、「内田樹も嫌いだが、サルトルも嫌い」という人も結構いそうである。
具体的に言うと、徐氏に同意して「内田樹はやっぱりしょうもないなあ(笑)」とか言いいながら、別のところでは「サルトルはやっぱりしょうもないなあ(笑)」と言ったりする人がいるのではないか。あるいは、「内田樹は大衆書しか書いてないしなあ」と、「サルトルはやっぱり哲学者としては二流だしなあ」とかいうのを両方言っている人も、いそうだな、と思ってしまう。
日本では、サルトルの晩年以降、猛烈なサルトル・バッシング現象が生じ、その後、徹底的なサルトル・スルー現象(サルトル黙殺現象)が続いた。私は1988年にサルトルで卒論を書いたが、当時、「なんでいまどきサルトルなんかやってるの(笑)」と何度言われたかわからない。さらには「永野さんて、実存くん(笑)なんですか?(笑)」といきなり言われたこともある。
私は、この、サルトル・バッシングおよびスルー現象と、現在の日本で内田樹氏がもてはやされている現象は、無関係では決してないと思う。その意味で、内田氏が批判の、そして嘲笑の対象としてサルトルを選ぶこともむろん偶然ではない。
内田氏は、上で徐氏が紹介しているように、帝国主義や植民地支配に対するサルトルの「批判」を、サルトル個人が「「審問の特権」を得るためにやっていること」とすり替えて無効化しようとする。と同時に、彼は、批判者サルトルが取るに足らない存在であると印象づけることによってもまた、それを無力化しようとする。内田氏によるサルトルの矮小化は、たとえば氏の「私はサルトルの著作のうちで今日でもまだリーダブルなものはきわめて少ないと思う*2」という発言によく表れている。
ちなみに、内田氏は、氏の十八番のひとつであるフェミニズムの揶揄においてもまったく同じパターンを用いている。氏がフェミニズムについて書いている内容は、「フェミニズムは他罰的な審問の語法でよろしくない」というのと「フェミニズムは思想としての賞味期限が切れてもうすぐ消滅する」というのをあきもせずに繰り返すものでしかない。
というわけで、だとすると、内田樹氏を批判しながら、サルトル・バッシング、あるいはサルトルスルー現象に乗っかってしまっている人、というのは、結局のところ内田樹現象からそれほど離れたところにはいないのではないか、と言いたくなってしまうのである。
ところで、サルトル・バッシングおよびサルトル・スルー現象は、日本だけではなく、フランスにもある*3。そのことが、アニー・コーエン=ソラルの『サルトル』(サルトル生誕百年の2005年に、クセジュ・シリーズから出版された)に書かれている。著者アニー・コーエン=ソラルは、1986年に浩瀚サルトル伝『伝記サルトル』を出版したが、著者によるとこの本は、フランスの出版社が関心を示さなかったために、アメリカで最初に出版された。
彼女は、クセジュの『サルトル』の冒頭で、2004年にパリ第8大学において二人の哲学者に名誉博士号が授与された場面を紹介している。博士号が授与されたのは、コロンビア人のアンタナス・モスクと、アフリカ系アメリカ人のコーネル・ウェストに対してである。以下、少し長くなるが引用する。

彼らは二人とも、その受理演説のなかで、当然で必然的な典拠として、サルトルを引用した。モクスは、新たな文化的相互依存関係の名において、ウェストは、ポスト・コロニアル時代の名において。この二つの方向は、余人に先駆けてサルトルが概略を示し、ついで思考した方向にほかならない。この二人の哲学者にとって、サルトルは日常的な典拠となっており、もしかしたら「倫理的羅針盤」と形容しうるほどであると言えるかもしれない。ところがフランスではそんなことはない。私が本書をこのような場面から始めることを選んだのは、サルトルの作品の受け止められ方には、フランスと外国とでは奇妙な隔たりがあることを、私は長いあいだ疑問に思っていたからである。わが国では長いあいだ激しい批判を浴びつづけているのに対して、国外ではサルトルは必須の典拠なのだ。
(……)「被告人サルトル」という表題のアンケートで、『コティディヤン・ド・パリ』紙は、一五人ほどの知識人に、「貴方の考えでは、サルトルの政治的誤りのうち最も重大なもの一〇件はどれですか」と質間していた。そして彼らは各人各様のリストを開陳した。サルトルは一九三三年にベルリンで「誤りを犯した」、一九四四年にパリで、一九五四年にモスクワで、一九六〇年にキューバで、一九七〇年にブーローニュ・ビヤンクールで「誤りを犯した」といった具合だ。そして各人が「悪しきサルトル」を椰楡したのである。(……)
 しかし政治において「誤り」と名付けられるのは、どういうものなのだろう。「誤り」という言葉を用いたということは、永続する最終的な真理、プラトン的な真理の存在を前提としていたということではないのか? サルトルはもっぱら世界を注釈することにのみ閉じこもっていたわけではけっしてない。他の場所へと赴き、警報を発し、憤激したのだ。だとするなら、周知の通りの有為転変に対して、過去を振り返って判定をくだす検閲者よろしく採点を行なうという権利をぬけぬけと主張する、などということがよくできたものだ。それではいったい、あの奇妙な要求は何を基準とするものだったのか? 「良き」サルトル、つまり誤りなき不謬のサルトル以外には、ないではないか? なぜこのような部族同士の食人のようなことが猖蕨を極めるのか? 政治における真実とは、実践の側にあるものでもあると私は考えるし、それはサルトルが不断に主張して来たところだ。彼は、コンセンサスと体制順応主義に抗して、各人が独自の探究を行なうべしと説いた人ではなかったか。そして自分の周りに人が築き上げた思想の師という役割から、是が非でも逃れようと試みたのではなかろうか? それこそが当時、彼にとって最も悩みの種だったのである。
 『マタン・ド・パリ』紙は『マタン・ド・パリ』紙で、「サルトル以後は、だれだ?」というタイトルを掲げた。そしてフランス知識人のなかで、今後サルトルのあとの空席に就こうとするかもしれない者たち(ブルデューデリダレヴィ=ストロースフーコー、ドゥブレ、など)のポートレートを紹介した。これではまるで、サルトルがその文学作品や、数多の論説や論文や、公的な介入や、態度表明や、直観や、アンガジュマン〔政治的社会参加〕や、二十世紀に刻印を刻んだ悲劇的な政治的出来事(戦争、ナチズム、対独協力、拷問、植民地主義、人種差別、など)に対するそのときどきの告発、こういったものの過程で徐々に獲得してきた象徴的権力は、これらの人物のいずれかに委譲することのできる職務のようなものにすぎなかった、ということになってしまうではないか。(……)
 一方、『デバ』誌は『デバ』誌で、「サルトル、その死後五年」と題する総決算を行ない、何人かの哲学者たちに「その死後五年のいま、われわれとサルトルとの関係はどうなっているのだろうか」という質問に答えるよう要求した。「彼を引用する者はほとんどいない」と、最初の論者は書き、二番目の論者は、「知性を愚行に親しませようとする執拗な傾向」を批判して、「あの作家には関心がない……」と断言した。また三番目の論者は、「この数年間、私はサルトルの本を開いたことがない」と認めていた。要するに死後五年経っても、相変わらず彼のあら探しをやっていたわけである。
 以上が、サルトル死後数年間における──この間、私は調査を続けたのだが──フランス知識人についての、何とも寂しい実態であった。一般大衆の側では、事態はさらに悪かった。一九八五年九月のある日、私はティヴィエ市でのサルトル記念プレートの除幕式に招待された。ティヴィエは、ペリゴールの町で、サルトルの父、ジャン=バチストの出生の地であり、サルトル自身も幼少期に何度かヴァカンスを過ごしていた。ところが私は意外にも、サルトルに対する敵意が消え去っていないことを思い知らされたのである。人びとは一人ずつ市議会議場に入って来て、自分の本に署名をして貰うと、そそくさと立ち去るのだった。私が駅に戻った頃には、どの家の力ーテンも引かれていた。みんな自宅に帰っていたのである。「あんな与太者に敬意を表することなどない!」と抗議する匿名の電話が、その数時間前にあったくらいだ。
 同じ時期に、私はあちこち飛び回り、調査を続けていた。サルトルがした旅行の跡を辿り、証人たちを探しだしたのだが、大抵の場合、感謝の念と、サルトルに対する恩義の気持に出会って、私は心を打たれるのだった。たとえば〔カリブ海の〕アンチル諸島では、サルトルの死に際して大量の新聞雑誌が特集を組んだことを私は知らされたが、マルチニックのクレオール語新聞『グリフ・アン・テ』は「サルトル、マル・ネグ」という表題を掲げていた。それはほぼ「偉大な人」、「並外れた人物」、「いい奴」というほどの意味である。同様に、私の本〔『伝記サルトル』〕の刊行後、これを翻訳刊行した国々を一つ一つ訪ねる旅を私は企てたが、そこで私は、サルトルのカリスマ性は無傷のまま残っており、彼への恩義の感情も無傷のまま維持されていることを、確認するに至った。(……)
 『サルトル伝』の刊行後四年間にわたって行なった旅のあいだ、私が訪れた国の作家たちはいずれも、熱心に語り、証言し、サルトルの作品を称賛しようとした。それはブラジルでは、ジョルジェ・アマードであり、アルゼンチンでは、エルネスト・サバトであり、ペルーでは、マリオ・バルガス・リョサであり、アメリカ合衆国では、アーサー・ミラースーザン・ソンタグエドワード・サイードであり、日本では、大江健三郎であり*4イングランドでは、ジョージ・スタイナーとサルマン・ラシディであり、イスラエルでは、アモス・エロン、ダヴィッド・グロスマンであり、ポーランドでは、アダム・ミシュニックであり、ドイツでは、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーとユルゲン・ハーバーマスであり、スウェーデンでは、ヤーン・ミュールダールであり、イタリアでは、ウンベルト・工ーコとアルベルト・モラヴィアである。確かに、東ヨーロッパとアラブ諸国の何人かの作家からは、歯軋りも聞こえた。「最晩年には、彼のイスラエルヘの献身は他のすべてを凌駕していた」と、パレスチナ政治学者、ナフェズ・ナザルは分析した。しかし、収支決算をするなら、結果は全体として大幅に黒字となっていたのである。
(アニー・コーエン=ソラル『サルトル白水社、2006年、9-17ページ)

 さて、徐京植氏の『秤にかけてはならない──日朝問題を考える座標軸』にもどると、この本の第三章は、2000年と2002年に仙台で行われた市民グループとの対話集会の記録である。この集会の司会者は早尾貴紀氏であるが、集会の参加者には故梅木達郎氏もいて、その発言も記録されている。ところで、早尾貴紀氏は、ご自身のブログで、梅木達郎氏の著書『サルトル』の書評を書いている。短い物なので以下に再録させていただく。

 前回紹介した金泰明氏の著作を読んで、梅木さんの『サルトル』を読み返した。
 というのも、NHK出版の担当編者が同じであったこと、それから通底するテーマとして、「他者とのつながり」について、少し違う角度からの哲学的な認識について考えたかったということがあった。
 梅木さんは、本書でも強調しているように、学生時代から強固なサルトリアンだった。しかし、ある時期からサルトルがまったく読めなくなり、バルトやデリダやジュネやセリーヌなどを広く読みあさるようになっていったらしい。僕と会ったときは、もっぱらデリダ&ジュネにはまっていた。「自分はもうサルトルを卒業したんだ」と言っていた。
 その梅木さんが、一巡して、サルトルを論じたのが本書。
 実存だ、アンガージュマンだと謳われたサルトル・ブームの頃の通俗的理解とは異なり、むしろサルトルは、直接的に他者や世界そのものに触れることにあらかじめ挫折しているところから、思想構築をしている。そこにこそサルトル哲学の真髄がある、と梅木さんは言う。無媒介には到達不可能な他者の存在。それが出発点だ。
 その他者とのあいだで、いかに「自由の相互承認」という関係を結ぶことができるのか。「だれをも支配せず、だれからも支配されず、自他のあり方をそのあるがままの姿で認め合うような関係」(p.76)、それがサルトル(を介した梅木さん)の求めた倫理だ。
 他者への「呼びかけ」?、「贈与」?、「愛」?、それが相手を束縛したり利用したりしないとう保証などない。
 そこまでサルトルは考え抜いていた、あるいはサルトルからそこまで読み取りうる。
 その意味で、サルトルは汲み尽くせぬ思想的源泉だ、と梅木さんは言う。
 他者の支配と自由の問題については、同じ梅木さんの重要論文集、『支配なき公共性――デリダ・灰・脱構築』(洛北出版、2005年)も合わせて読んでください。

http://hayao.at.webry.info/200810/article_2.html

 この書評は、サルトルについて肯定的に書かれている。しかし私は、ここでさりげなく書かれている「実存だ、アンガージュマンだと謳われたサルトル・ブームの頃の通俗的理解」という言葉にちょっとひっかかってしまうのである。通俗的の「俗」とは一体なんなのだろうか。というのも、コーエン=ソラルが言うように、「第三世界」において、いまなお熱心に語られ、証言され、称賛されつづけているサルトルとは、デリダを通過して再発見された「真髄」などではなく、おそらく「実存だ、アンガージュマンだ」の、そのサルトルではないか、と思うからである。
そして、こうも思うのである。「サルトルを「卒業」してデリダに向かい、その後サルトルを再発見」という流れは、梅木氏自身の、それこそ「実存的な」思想との対決の歴史であったのかもしれない。しかし、「サルトルを卒業してデリダへ」というのは、フランスや日本の「思想界」とやらにおいては、「脱構築だ、差延だと謳われた」現代思想ブームの頃の、極めて「通俗的」な風景でもあったのではないだろうか。

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*1:インタビュー聞き手の中西新太郎

*2:http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20080213/1202916446

*3:サルトル・フォビアという言葉もある。

*4:このように、コーエン=ソラル氏は、日本を、「フランスとは違ってサルトルが必須の典拠となっている国」のひとつにあげているが、先に述べたように、私にはそうは思えない。