kawakitaさんへの返答

前回の記事に対して、kawakitaさんから質問がありました。

 まず最初の質問に関してです。

一見資本主義社会と、等価交換原理を批判しているように見えながら、結局は、資本主義のシステムを肯定し、擁護しているのだ、ということです。

と書かれておりますが、内田氏がどこで「資本主義社会」「を批判している」か教えていただけますでしょうか。僕にはどこか検討がつきません。

 ということは、一見批判的に見せかけるポーズすらなく、最初から資本主義肯定、擁護である、ということでしょうか。とすればもうなんともはや、という感じではあるのですが、私はやっぱり一見批判的にみせるポーズがあるのではないか、と思います。
 たとえば、ちょっと話はずれますが、先日安倍官房長官が、教育基本法改正の意義について「損得を超える価値、つまり家族を大切にする、地域のために頑張る、国に貢献することの尊さを教えるための教育改革を行いたい」と言ったそうです。さらに安倍氏は、現在の教育の問題点として「子供が親を殺したり、親が平気で子供を捨てたり、金もうけがすべてという風潮がある。戦後60年間、損得ばかりを価値の基準に置いてきた結果だ」と言ったそうです。このような安倍氏の発言は、「損得を超える価値」の重要性を主張し、「金もうけがすべてという風潮」「損得ばかりを価値の基準に置くこと」を批判するわけで、その意味では、一見、(ものすごくアバウトな意味でですが)「資本主義社会」を批判している、とも言えるわけです。
 ところで、藤本一勇氏は、『批判感覚の再生』
批判感覚の再生―ポストモダン保守の呪縛に抗して
の中で、現在跋扈している「保守」主義を、冷戦後の状況の中でポストモダン思想とねじれた共犯関係を結んだ「ポストモダン保守」と呼んでいます。著者によるとそれは、本来の保守主義の美徳すらかなぐり捨て、空虚な自己を確認するために「敵」叩きに熱中する「狂った保守主義」です。さて、著者も言うように、現在の状況は、自由で開放的とされるグローバル市場が広がる一方で、一見それと対立する統制的・治安維持的な空気が蔓延しているという一種のねじれ現象と見ることができます。著者は、このねじれ現象の背後に、ネオリベラリズムネオコンサバティズムの相補的構造というか共犯関係があると指摘するのです。そして、著者は、八木秀次佐伯啓思の言説を例に、ポストモダン保守の言説が、この共犯関係と対応しているのだ、ということを明らかにしていきます。例えば八木氏の『国民の思想』に見られる「サヨク陰謀史観」は、文化左翼や人権思想といった「悪玉」を捏造することで、現代の諸問題がネオリベラリズム政策そのものから生じていることから目をそらさせ、ネオリベを補完する役割をはたしているわけです。
 さて、安倍氏による「損得を超える価値」の称揚と「金儲けがすべてという風潮」の批判、という、一見ネオコン的な主張も、背後には、ネオリベ政策との共犯関係があり、ネオリベが生じさせた問題点を、「戦後教育」という悪玉に転嫁し、ネオリベの問題点から目を逸らさせ、ひいてはネオリベを補完する役割をはたそうとするものだと思います。
 ひるがえって、内田氏の主張はどうでしょうか。例えば「不快という貨幣」には「グローバリゼーションと市場原理の瀰漫、あらゆる人間的行動を経済合理性で説明する風潮」とか「骨の髄まで功利的発想がしみこんだ日本社会」とかいう言葉が見られ、一見そうしたものに批判的であるかのようなポーズが見られると思います(ほのめかすだけで明言しないところがずるいところでもあるのですが)。そして、「不快という貨幣」では、そうしたものと対立する価値として「社会的威信や敬意や愛情」といったものがほのめかされます(これもほのめかされるだけです)。これが、「損得を超える価値」の重要性を訴える安倍氏の口振りとずいぶん似ている、と言ったらkawakitaさんは反発なさるかもしれませんが……。さて、安倍氏が「戦後教育」を悪玉に仕立て上げるのに対して、内田さんが悪玉に仕立て上げるのは、「労働から逃走する若者」です。
 というわけで、内田氏の言説も、安倍氏の言説も、どちらも一見資本主義(ネオリベ)的価値観を批判するように見えてそれを補完する言説だと思うのですが、内田氏の場合、安倍氏のような、保守的な伝統への回帰というポーズではなく、一見リベラルな立場からの社会批判、というポーズがあります。したがって、八木氏や安倍氏には反発するいわゆる「リベラル」な人も、内田氏の言説には容易に同意してしまうという点で、内田氏の言説はよりやっかいなのではないか、と思うのです。

 次に二つ目の質問についてです。

また「資本主義のシステムを肯定し、擁護」することと搾取や労働条件・労働環境が悪いことを容認することは同じことなのでしょうか?僕は資本主義社会における搾取や労働条件・労働環境を問題化することで、労働の成立契機を説明する言説まで否定する必要はないし、「資本主義のシステム」も否定する必要はないと考えております。

 「資本主義のシステムを肯定し、擁護しながら、搾取や労働条件・労働環境を問題化(改善)する」というのは、いわゆる「修正主義」という立場ですね。私自身は、それは不可能ではないかと思っています*1。しかしその前に、内田さんは、そもそも「資本主義社会における搾取や労働条件・労働環境を問題化する」つもりがあるとは思えません。内田さんが問題化するのは、結局のところいつも「劣悪な労働条件・労働環境をガマンせず、労働から逃走する若者の心理」だけではないか、と思います。
 また内田さんの主張が「労働の成立契機を説明する言説」であるかどうかも、疑問に思っています。kingさんがおっしゃっているように、内田さんの主張は、説明言説に見せかけた規範言説、という面が多分にあると思います。

 長くなってしまいましたが、三番目の質問に関してです。

あとsarutoraさんは

内田さんは、労働しない若者を批判します。

と書かれておりますが、僕は内田氏の若者の言及について「現代の社会環境への適応形態が表面的に異なって見えるだけではないか」と書きました。ですので具体的にどこで批判しているか教えてください。内田氏の文章が若者を他者化しすぎていて読む側も若者を他者化しすぎてしまうというパフォーマティブな効果が発生する可能性がある、というのであればわかりますが、具体的にどこでどういう「批判」をしているのでしょうか?

 そうですね、「批判」というよりむしろ蔑み、貶め、かもしれませんが。「具体的にどこでどういう」というなら、たとえば「不快という貨幣」でいえば

彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのである。

 というところは、彼ら(労働から逃走する若者)の「存在がもたらす不快に耐えている*2人間」(つまり大人たち)がいる、ということを述べています。しかも、自分(内田さん)自身が不快に耐えている、と明言することを巧妙にさけつつ、ほのめかしています。その上で、そういう風に大人達に不快に思われることは、結局自分たちが望んでいることなんだ、自己責任なんだ、と言うわけです。大人たちにゴミのように扱われても、結局お前達(労働から逃走する若者)が望んでいるんだから、自業自得だよ、という主張は、「労働から逃走する若者」の蔑み、貶め以外の何ものでもないと私は思うのですが。

*1:ただしその議論をさしあたりここでするつもりは有りませんし(いずれ書くかもしれませんが)そうした議論を内田さんのテクストのみを題材に行うことは、不毛なことではないか、と思います。

*2:なんとまあヒドイ表現でしょうか