ブラック・ジャックは医学モデル、ドクター・キリコは優生学

 実写版『ブラック・ジャック』でのドクター・キリコ(女性に変更されているらしい)の描写が問題になっているようだ。こちらのポストが数多くリポストされている。
https://x.com/Swampert_on770/status/1807425490749436184

途中まで良かったけどドクター・キリコが自殺幇助するのだけは原作とかけ離れ過ぎてどうしても許せない
キリコは原作でも何度も出来ることなら人を治す、自殺には手を貸さないってのが描かれているのにそれを無視して自殺幇助
脚本家は小うるさい自殺者回を今すぐ読んでこい

 確かにドクター・キリコは「出来ることなら」人を治すような人物として描かれている。しかし、「出来ない」「治せない」(と見なした)場合は、彼は何度も人を殺して来たのである。そして、「治せない」とはどういうことなのか?また、そもそも安楽死と自殺幇助にはたして根本的な違いはあるのか?以下は、手前味噌だが拙著の一部で『ブラック・ジャック』でドクター・キリコが初登場するエピソード「ふたりの黒い医者」について書いた部分である。

 1975 年に発表された、手塚治虫の『ブラック・ジャック』「ふたりの黒い医者」では、天才医師である主人公ブラック・ジャックのライバルで、安楽死を請け負っているドクター・キリコという医師が登場する。キリコはある女性から安楽死を依頼されるのだが、彼女は交通事故で背骨を折ってから体が全く動かず寝たきりの状態となっている。二人の子どもたちは収入のほとんどを母親の入院費に使っているのだという。彼女はキリコに「一生子どもたちに苦労をかけるより こんな役立たずひとおもいに死んでしまったほうがいいのです……」と訴える。
 1970 年代にアメリカで発達した「バイオエシックスbioethics」では「患者の自己決定patient autonomy」が中心的な概念だ。そこでは、強い立場にある医師が、患者のためといって患者に干渉する「パターナリズムpaternalism」が批判される。では、患者が死を「望んでいる」場合、キリコのように医師が死
期を早める処置を行なうこと(積極的安楽死)や、延命措置を控えること(消極的安楽死)は、患者の自己決定の尊重として肯定されるべきなのだろうか?
 ところで『ブラック・ジャック』で安楽死を依頼する母親は、なぜ安楽死を「望んでいる」のか。それは彼女が「体が動かない」から、そして、そのため家族に負担がかかっているから、である。しかし「体が動かない」ことそれ自体はそれだけでは苦痛を生まない。体が動かないことによって様々なことが(社会的に)「できない」ということこそが問題なのである。
 100人の人に宅配寿司と銀座の高級寿司のどちらが食べたいか自由に選んでもらいます、と言いながら、高級寿司を選ぼうとする人に様々な嫌がらせをすることで宅配寿司を選ぶように誘導し、最後に「全員が宅配寿司を選びました」というナレーションが流れるCM があった。特定の選択肢に誘導しておきながら選択させることは、本当の自己決定とは言えない。『ブラック・ジャック』では、キリコによる安楽死とブラック・ジャックによる治療(医学モデル)という2 つの選択肢しか描かれていないが、個人の体が動かなくても様々なことが「できる」ような選択肢を社会的に作り出すこと(社会モデル)が重要だろう。
永野潤『〔改訂版〕イラストで読むキーワード哲学入門』白澤社、2023年、p.110.

hakutakusha.co.jp
『ブラック・ジャック』の一コマ。安楽死依頼した女性のセリフ「一生子どもたちに苦労をかけるより こんな役立たずひとおもいに死んでしまったほうがいいのです……」
 上でも書いたように、キリコに安楽死を依頼する女性は、事故で「体がぜんぜん動かない」が、身体的苦痛の描写はない。死期が迫っているというような描写もない。依頼理由は「一生子どもたちに苦労をかけるよりこんな役立たずひとおもいに死んでしまった方がいいのです」だ。キリコが行ったのは、「役立たず」(とされた人)を20万人殺したナチスの「安楽死」を請け負った医師たちの行為と、何も変わらない。
 たしかに手塚は決して安楽死を肯定しない(そこは「安楽死」的なものを思わせぶりに肯定する凡百の漫画家とは違って断然良い)。しかし、ブラック・ジャックは医学モデル。ドクター・キリコは優生学(ある意味で究極の医学モデル)。社会モデルはどこにもない。
 原作キリコの改変とかそういうこと以前に、「キリコVSブラックジャック」があたかも究極の選択、倫理的ジレンマであるかのような見方が、50年たった今でも未だに乗り越えられていないこと自体が本当は問題なのではないか。
 そう思っていたら、実写『ブラック・ジャック』のプロデューサーのコメントが朝日新聞に載っていた。それが、まさに、「安楽死」的なものを思わせぶりに肯定する予想通りのものだった。
www.asahi.com

なぜ自分で自分の死を決めてはいけないのか。いまだ答えの決まらぬ重い問いを、キリコは理路整然と突きつけ、BJのエゴを暴いてしまう。

 キリコは「理路整然」となどしていない。「エゴ」というなら、「答えの決まらぬ重い問い」に悩むふりをしながら、実はとっくに答えを決めていて、「役立たずだからひとおもいに死にたい」という人を殺す(殺してきた)我々の社会こそが、「エゴ」だろう。改めて、立岩真也の文章を引用しておこう。立岩は、「女性」「病を生きる人」「障害をもつ人たち」が「自己決定」を主張しても実現しなかった(していない)のは、この人たちに自己決定させることが、周囲の人達にとって「不都合であり、負担」だったから、と指摘したうえで、こう言う。

 それに対して、「安楽死」はどうだろうか。不治の病があリ、重い障害がある人は、先に述べた意味で、周囲の人たちにとって負担となる人である。そして誰もがそうだがいずれにしてもやがては死が訪れるのだから、その前に、その人が自分自身で「死にたい」と言ってくれれば、それは都合のよい自己決定なのである。
 具体的に誰にとって都合がよいのか。負担を免れる人にとってである。家族だけがその負担を負っている、負わされているなら家族であり、また社会的に医療や介護の負担をしている場合にはその「社会」である。結局、私たちが、私たちにとって都合のよいものとして、自己決定としての安楽死を支持するのである。(立岩真也『弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術』青土社、2000年)

家族を思う患者の心を否定しようというのではない。ただ、それを利用してしまう位置に私たちはいってしまっている。これは私たちにとって都合のよすぎる状況である。そのことの危険がある。それゆえに、少なくとも周囲にいる私たちが、安楽死をよいと簡単に言ってはならない。(同)

なぜ安楽死で死のうとするのか。なぜ安楽死を許容してしまうのか。繰り返すが、安楽死は自分の力で死ねない時の自殺である。死を自分の力で行えない時、その人は他の多くのこともできない。(肉体的な苦痛でなければ) これが安楽死に人を赴かせる。この社会の中での「できない」こと(同時に「できる」こと) について考えることから安楽死は考えられなければならない。(同)

 もう一つ、上記のプロデューサーの記事で、なぜキリコを女性にしたかという理由が、気持ち悪かった。

海外で安楽死をサポートする団体には、なぜか女性の姿が多い印象があった。脚本の森下佳子さんと相談しているうち、「優しい女神」のような存在が、苦しむ人のそばにいて死へと導くのかもしれない、と想像するようになった。

 ブラック・ジャックはキリコを「患者を殺して回っている死神の化身」と呼んでいる。しかし、キリコは「死神」ではなく、実は「優しい女神」だ、と言いたいのだろう。「女性」「病を生きる人」「障害をもつ人たち」にとって「優しくない」この社会で、この人たちに「役立たず」になったら「ひとおもいに死にたい」と言わせるこの社会で、「殺してあげる」という「優しさ」を女性に実行させる。そしてその女性が「優しい女神」だ、というわけだ……。

『ブラック・ジャック』「二人の黒い医者」より、ブラック・ジャックが、キリコのことを「「死神の化身」と呼ばれている、患者を殺して回っているおじさんだ」と説明しているコマ