『やさしい猫』の昨日と明日

※小説『やさしい猫』および映画『イエスタデイ』についてのネタバレが多少含まれています。

 日本人は、入管のこと、在留資格のことを、なにも知らない。それらをすべて説明するのは困難だと思ったのです 。(中島京子『やさしい猫』中央公論新社、2021年、p.382)

 中島京子の『やさしい猫』は、入管問題をテーマにした小説だ。舞台となっている多くの実在の場所、例えば、東京都港区の東京入国管理局(現在は東京出入国在留管理局)や、茨城県牛久市の東日本入国管理センターの、建物周辺、面会受付、面会室の様子、などは、克明に描写されているので、その場所を「知っている」人ならば、情景が即座に目に浮かぶだろう。もちろん、「知らない」人にはそうではないだろう。
 ところで、「知っている人ならわかるけど、知らない人にはわからない」もの、といえば、これもそうだろう。

 クマさんの困った顔は、『イエスタデイ』という映画の中でジャック役のヒメーシュ・パテルがする顔に似ている。売れないミュージシャンが自動車にはねられたあと、気がつくと自分しかビートルズを知らない世界にいるっていうコメディ映画で、主役をやってたひとだ。その映画には、本物のエド・シーランが出ていて、ジャックが「ヘイ・ジュード」を歌うと、すごくいい曲だけど提案がある、タイトルは「ヘイ・デュード」にしろよ、と言う。そのときのジャックの顔は、クマさんの困った顔に似ている。(『やさしい猫』25-6頁)

 私は、『イエスタデイ』という映画は観たことがなかったし、ヒメーシュ・パテルという俳優も知らなかったので、いったいどんな顔なのか、想像するしかない。しかし、気になる。行ったことのない場所(たとえば『やさしい猫』の主人公クマさんの故郷であるスリランカ)にはすぐ行くことはできないが、観たことのない映画は、最近は、場合によってはネット経由で即座に観ることができる。というわけで、ネットレンタルして、映画『イエスタデイ』を早速観てみた。そして、めでたくその「クマさんの困った顔」を確認することができて、つまり、「知らなかったこと」が、「知っていること」に変わって、すっきりした。

 が、観終わったあと、『やさしい猫』という小説と、『イエスタデイ』という映画は、実は「知らない」ということに関していろいろつなげて考えられるのではないか、と気がついたので、少しそれについて書いてみる。
 『やさしい猫』の語り手であるマヤが言っているとおり、『イエスタデイ』という映画は、「売れないミュージシャンが自動車にはねられたあと、気がつくと自分しかビートルズを知らない世界にいる」という映画である。もちろんこれは「ビートルズ」というところがポイントで、おそらく映画を観る世界中のほとんどの観客が「知っている」超メジャーなバンドであるからこそ、それを「誰も知らない世界」というのが映画になる。たとえば、マヤが説明しているように、映画にはエド・シーランというミュージシャンが本人役で出演しているのだが、この人のことを私は知らなかった。ロック系の音楽に疎いので、名前ぐらいは聞いたことがあっても、顔も、曲も、思い浮かばなかった(映画を見て、こちらも確認できたが)。というわけで、もし映画の設定が「自分しかエド・シーランを知らない世界」だったら(エド・シーランさんには失礼な言い方になるかもしれないけど)たぶん微妙すぎるし、映画として成立し難いだろう。
 さて、自動車にはねられたあと、主人公のジャックは、最初は、世界が昨日までの世界と変わってしまったこと、つまり「自分しかビートルズを知らない世界」に変わってしまったことに気が付かない。ジャックは、マネージャー役の幼馴染エリーとの会話の中で何気なくビートルズの曲名やバンド名を出したときに全く反応がないので、違和感を少しづつ感じ始めるのだが、決定的だったのは、友人たちが開いてくれた彼の快気祝いのパーティーでの出来事だ。事故で壊れてしまったギターの代わりに、新しいギターをプレゼントされたジャックは、「楽器にふさわしい曲を」とビートルズの「イエスタデイ」を歌う。感動したエリーは、驚いて、ジャックに「いつ書いたの?」と聞く。ジャックは「俺じゃない、ビートルズだ」と答えるが、「誰、それ?」というみんなの反応。なんの芝居だよ、からかうなよ、とイラつくジャック。微妙な空気が流れたあと、友人ニックがこう言うのだ。

 ミュージシャンてやつは、誰もがマイナーなバンドを知ってると信じてる。で、知らないと驚くんだ。ニュートラル・ミルク・ホテル*1とかさ。ビートルズも同じだ。(ダニー・ボイル監督『イエスタデイ』2019年)

 ここでニックは、ジャックの態度に、「知らない」ことを見下すような雰囲気を感じ取って、皮肉を言っているのだろう。「誰も知らないことを私だけが知っている」ことは、優越感につながる場合があるからだ。しかし、実際にはそれは誤解である。ジャックは、「誰もが知っているはずのことを誰も知らない」というパラレルワールドに迷い込んで、純粋に「驚き」と「戸惑い」を感じていたのである(そして、あの「困った顔」になっていたのだ)。
 ところで、『やさしい猫』の主人公の家族が体験したことも、映画『イエスタデイ』の主人公ジャックが体験したことと、実は少し似ているのである。『やさしい猫』の主人公たちは、突然、予想もしなかったトラブルに巻き込まれる。一種の「事故」とさえ言える出来事だ。家族の一員であるスリランカ人のクマさんが入管に収容されてしまったのだ。この事故のあと、家族にとっての日常は、とてつもなく理不尽なパラレルワールドのようなものに変化する。そして、彼女たちは、信じられないような入管の実態を知ることになる。しかし、そうした実態は、日本社会の中でほとんど知られていない。つまり、彼女たちは、「誰も知らないことを知っている」状態に(心ならずも)なる。

 だけど、クマさんはクマさんで、ほんとにたいへんな日々を過ごしていたらしい。だって「収容」って、なにがなんだか、わからないでしょう? クマさんだって、自分がそんなことになって、はじめて実態を知ることになった。東京入管の収容所は、あの湾岸の大きな建物の七階にある。JRの品川駅よりも、もっと近いのは、りんかい線東京モノレールが乗り入れている天王洲アイル駅だってことは、意外に知られていない。 天王洲アイルっていえば、ドラマの撮影とかしてるとこでしょ。レインボーブリッジも近い、ウォーターフロントおしゃれエリアから徒歩圏内に、いろんな国から来た外国人がさまざまな理由で「収容」されてる一角があるなんてこと、知ってる人のほうが少ないんじゃないかと思う。(『やさしい猫』p.184)

 もちろんこの状態(誰も知らない入管の実態を自分たちが知っている状態)は、優越感を感じさせるようなものではまったくない。むしろ、自分たちを苦しめている入管のことを「誰も知らない」ことが、さらに主人公たちを苦しめるのである。
 こうして、主人公たちの「孤独な」たたかいがはじまる。ただ、彼女たちは、たたかいの中で、入管のことを「知っている」人たちと出会い、いっしょにたたかうことになる。ちょうど、映画『イエスタデイ』のジャックが、パラレルワールドで、自分と同じようにビートルズのことを「知っている」少数の人と出会い、お互いをはげましあうことになるように。
 そんな中、主人公マヤは、ハヤトというクルド人の青年と出会う。ハヤトの父親と兄は、クマさんと同じように入管に収容された経験を持っている。ハヤトの両親は、トルコでの迫害をのがれて来日した難民だ。しかし、一家は難民申請をしているにもかかわらず、認定はされず(日本での難民認定率は1%以下で、難民認定されたクルド人はこれまで一人もいない)退去強制令が出されている。ハヤトは日本生まれだが「赤ちゃんのときから」正規の滞在資格をもたない「仮放免者」として生きているのだ。日本で生まれ日本で育っても、行ったことのない国に「帰れ」と言われる。おかしな話だが、これはパラレルワールドでも鏡の国でもなく、現実の世界での話なのである。
 あるときマヤは、収容されているクマさんと面会して、被収容者が病気になっても詐病と決めつけられたり、医師の診察を受けるには申請書を書いて2週間も待たされる、という入管収容の実態を聞かされる。心配になったマヤはハヤトにその話をする。ハヤトはそれを聞いても驚きもせず、入管の中で死亡した被収容者もいる、と答える。

「え、まさか、ほんとに、亡くなった人が、いるの?」
「マヤ、知らないの?」 
「どういうこと? 病気で、治療が受けられなくて、亡くなった人がいるの?」
「日本人は、あそこでなにが起こってるか、ぜんぜん知らないよね」
そう言うと、ハヤトはきれいな茶色の瞳でまっすぐこっちを見た。それから、目をそらして遠くを見て、なにかをあきらめたみたいに言った。
「オレはいろいろ知ってるけど、言わない。だって、マヤ、父ちゃんのことが心配になっちゃうだろ。オレは兄貴や親父が収容されたとき、心配で気が狂いそうだった。(……)」(『やさしい猫』p.227)

 こうして、マヤは、入管に苦しめられている自分が、入管のことを何も知らずに暮らしてきた「日本人」でもあることを思い知らされるのだ。でもそれだけではない。マヤはこの後、あることを「知らなかった」ことで大切な人を傷つけてしまう、という残酷な体験をすることになる*2
 このように、主人公たちは、実に「たいへんな日々」を過ごすことになるのだが、彼女たちをこんなたいへんな目にあわせたもの、それは『イエスタデイ』のジャックの場合のような事故でもタイムスリップでもなく、「入管」である。そして、入管は、なぜこんなにも好き勝手に外国人やその家族を「たいへんな」目にあわせることができるのか。その原因の一つが、ハヤトが言うように、日本人が、入管でなにが起こってるか「ぜんぜん知らない」ということにあるのはたしかだろう。入管による人権侵害が、「密室の人権侵害」と言われるゆえんである。
 ところで、住宅街などで、恐ろしげな眼のイラストと「みんな見てるぞ」という文字が書かれたステッカーが貼られていることがある。これは、防犯ステッカーで、窃盗犯などへのメッセージらしい。つまり、みんなが見ていると思えば悪事をしにくくなるだろう、ということなのだろう*3。このステッカーにはメッセージの外国語訳が添えられているものもあるのだが、中国語が不自然に大きく書かれていることがある*4。となると、このステッカーは、窃盗犯へのメッセージと見せかけながら、実際は「日本人」へのメッセージなのではないか、という疑惑が生まれる。つまり、ここには「窃盗犯には中国語でメッセージを書く必要があるのですよ、つまり窃盗犯は中国人なのですよ」というメタ・メッセージが隠されているのではないか*5
 ちょっと脱線してしまったけれど、入管はというと、逆に、誰も見ていない、誰も知らない、と思うからこそ、思う存分悪事(人権侵害)に励む*6ことができる、というわけだ。
 ところが、自分たちは人々の「無知」の陰に隠れて悪事を働いておきながら、入管は、あろうことか、主人公たちの「無知」を責めたてるのである。退去強制の行政処分の取り消しを求める裁判の中で、被告代理人の訴務検事は、原告であるクマさんにこう質問する。

 入管を、なにか冷酷非情な組織のように勘違いされている方も多いんですが、オーバーステイにならないように、いくつものオプション、いくつもの救済策を準備しているんですよ。それをご存知なかった。調べようともしなかったとは、ご自分で、怠惰だとは思われませんか?(『やさしい猫』p.376)

 つまり、クマさんが「知らなかった」こと、それによって苦しんでいることは、全部「自己責任」だ、と言いたいようだ。かと思えば、この訴務検事は、クマさんが「知っていた」ことも、攻撃材料に使ってくる*7

さっきの質問に答えてください。不法就労だと知っていましたね?(『やさしい猫』p.377)

 ただ、この裁判の中で、原告代理人の恵弁護士は、クマさんがあることを「知らなかった」ことを逆手にとり、決定的な反撃の武器にする。ここは、この小説の中で最もスリリングであり、痛快な場面である。
 このように、日本人が入管のことを「知らない」ことは大いに問題なのだが、ただ、「知らない」と、「知らないふり」の境界線は、実はけっこうあいまいなのだ。1950年代、アルジェリア戦争の際、フランス軍によるアルジェリア住民の虐殺、レイプ、拷問、などの残虐行為を本国の人々が「知らない」ままでいるように、フランスでは周到な情報統制が敷かれていた*8。しかし哲学者のサルトルは、当時、「無知な」フランス人たちが、眠らされ、騙されていた、とは考えない。彼らはある意味で「無知」であることを選んでいたのであって、フランス軍による虐殺に対して、無罪ではなく共犯者ですらある、と言うのだ。

 もしわれわれが眠れるものなら、そして何も知らずにいられるものなら! もしわれわれが沈黙の壁によってアルジェリアから隔てられているのだったら! もしわれわれがほんとうに騙されているのだったら──そのとき、外国の人びとはわれわれの知能を疑うかもしれないが、われわれの無罪は疑いようもないだろうに。
 われわれは無罪ではない、汚れているのだ。われわれの良心は乱された〔トゥルブレ〕のではない、しかしそれは濁っている〔トゥルブル〕のだ。指導者たちはそれを良く承知しており、われわれがそういう状態にあることを好ましいと考えているのである。彼らがその慎重な配慮や見え透いた手心によって獲得したがっているものは何かといえば、それは見せかけの無知に隠れたわれわれの共犯なのである。*9

 入管もそうだ。日本人が、入管のことを「知らない」ままでいようとすること、つまり「見せかけの無知に隠れたわれわれの共犯」こそが、入管が欲していることだろう。

 でも、遅いということはない。いまからでも、「われわれ」は、入管のことを知るべきだし、知ることができる。入管のことを「知っている」のは、意識高いことでも、偉いことでもない。しかし、入管のことを多くの人が「知らない」「知ろうとしない」ということは、本当は、おかしいことで、驚くべきことで、困ったこと、なのだ。

 小説の最初のほうに、マヤのこんな言葉がある。

 でも、きみは知っておくべきだと思う。(p.19)

 小説を最後まで読むと、われわれは、この「きみ」が誰なのか(そして「やさしい猫」というタイトルの意味も)知ることになる。しかし、マヤが語りかけている「きみ」とは、そこで明らかになる人物のことだけではなく、読者である「われわれ」でもあるのではないだろうか。

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イエスタデイ (字幕版)

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*1:もちろん私は知らなかったが、これも実在のバンドだそうだ。

*2:そういえば、映画『イエスタデイ』も、主人公ジャックがあることを「知らなかった」ことで大切な人を傷つけてしまう、ということがストーリーの軸となっている。

*3:哲学者サルトルの主著『存在と無』には、窃視者が、背後に他者のまなざしを感じて羞恥にとらわれるという有名なシーンがある。(Sartre, Jean-Paul, L'Être et le néant, Gallimard, 1943, rééd., coll. «Tel», 1976, pp.298-299, ジャン=ポール・サルトル、松浪信三郎訳『存在と無』Ⅱ、ちくま学芸文庫、2007年、107-110ページ。))

*4:このサイトhttps://san-tatsu.jp/articles/82742/の中程にその写真がある。

*5:このステッカーを2000年代はじめに発案したのは石原慎太郎であるとも言われていて、ますます疑惑は強まる。

*6:もちろん、主観的には「日本を悪い外国人から守る」という良いことをしている、と思っている場合も多いわけだが。

*7:この訴務検事は架空の人物だが、こうした主張はいかにも入管が実際に言いそうなものである。

*8:「フェラガ〔アルジェリアの抗仏パルチザン〕」たちがヨーロッパ人の一家を殺害したとすると、大新聞はこと細かにこれを報道し、段損された死体の写真まで掲載する。ところが逆に、イスラム教徒の一弁護士がフランス人の拷問に対して自殺以外の救いを見出せなかったとすると、この事件はわれわれの感受性を傷つけないようにわずか三行で片づけられてしまうのである。隠蔽し、ごまかし、嘘をつくこと。これがフランス本土の報道関係者の義務なのだ。唯一の犯罪とはわれわれの平安を乱すことだ、というわけであろう。」(Sartre, «Vous êtes formidables», dans Situations, V [«Colonialisme et néocolonialisme»], Gallimard, 1964, p.59. /サルトル、二宮敬訳「みなさんは素晴らしい」『シチュアシオン V』(サルトル全集第31巻)所収、人文書院、1965年、44ページ。)

*9:Ibid., pp.60-61. /同、45ページ。