【入管法改悪反対】アッティカから大村へ──ロックフェラーたちを忘れるな!

 

2.23 入管法改悪反対全国一斉アクション の情報と入管法改悪法案の問題点を説明する動画

 


www.youtube.com

 ここで用いられている曲の原曲は、ジャズベーシスト、チャールズ・ミンガスが1975年に発表したアルバム「Changes One」の冒頭を飾る「Remember Rockefeller at Attica」である。Atticaとは、ニューヨーク州アッティカ刑務所のこと。かつてここでは、多くがアフリカ系アメリカ人である被収容者への、看守による人種差別的虐待が横行していた。

Jayu from Harrisburg, PA, U.S.A. - Attica, New York (Correctional Facility) CC BY-SA 2.0 Created: 13 January 2007

Jayu from Harrisburg, PA, U.S.A. - Attica, New York (Correctional Facility) CC BY-SA 2.0 Created: 13 January 2007

 1971年当時、この刑務所では2,300人近くが収容されていたが、54%はアフリカ系アメリカ人、9%はプエルトリコ人だったのに対し、看守は全員白人だった。彼らは1日に14時間から16時間を房で過ごさねばならず、1週間に1度のシャワー、月に1ロールのトイレットペーパーの使用しか許されていなかった。1人当たり1日63セントの食費しか支給されず、被収容者はいつも空腹で寝ていたという。手紙は検閲されていたのだが、看守はスペイン語が読めないので、プエルトリコ人の手紙はゴミ箱に捨てられていた。黒人の被収容者は最低賃金の仕事に追いやられ、白人の看守から人種差別的な嫌がらせを受けていた*1
 1971年9月9日、被収容者のうち1000人ほどが、「我々は人間だ、獣扱いはもうたくさんだWe are men! We are not beasts」と宣言し、刑務官ら42名を人質に取って刑務所を制圧した*2。蜂起の指導者たちは、ニューヨーク州知事ネルソン・ロックフェラー州知事をあいてどって交渉し、33の要求を掲げた。医療の改善、公平な面会権、食事の質の改善、信仰の自由、受刑者の仕事の賃上げ、虐待の中止、歯ブラシや毎日のシャワーなどの基本的必需品、職業訓練、新聞や書籍へのアクセス*3と並んで、より良い教育の要求も含まれていたという*4
 しかし、最終的に要求が受け入れられることはなく、被収容者との面会を拒絶していたロックフェラー知事は、9月13日、武装警官と州兵をアッティカ刑務所に派遣した。彼らは非武装の反乱者たちに対して無差別に発砲。29人の被収容者と10人の人質が殺された。銃撃が終わった後も刑務官らは生き残った被収容者たちを裸にして殴打するなど虐待したという*5。だが、この事件の真実を、アメリカ国家は、嘘や隠蔽工作によって「忘れさせよう」としてきた。ロックフェラーは、人質を殺したのは被収容者だったと主張し、ニューヨーク州は(2016年現在)いまだに何千もの重要記録の公開を拒否している。虐殺に関与した州兵を起訴しようとした検察官が上司に阻まれたこともあるという*6*7

 

Nelson Rockefeller with Henry Kissinger January 3, 1975.jpg

キッシンジャー(左)とロックフェラー(右)1975年

 さて、この事件の3年後の1974年12月、リチャード・ニクソンが、いわゆるウォーターゲート事件によってアメリカ史上初めて大統領を辞任した。アメリカ合衆国憲法修正第25条第1節にしたがって、副大統領だったジェラルド・フォードが大統領に昇格し、同第2節に従って、フォードは自分の後任の副大統領として、ネルソン・ロックフェラーを指名した。たった3年前、アッティカで多くの被収容者を虐殺したあのロックフェラーを、である。彼は12月10日に上院で、19日に下院でそれぞれ承認された。チャールズ・ミンガスが「Remember Rockefeller at Attica」をニューヨークのアトランティック・レコーディング・スタジオで録音したのは、その2週間後、1974年12月27日から30日にかけてである。つまり、この曲のタイトル「【アッティカの】ロックフェラーを忘れるな!」は、怒れるジャズマンAngry Man of Jazzとも呼ばれるミンガスの「ロックフェラーが虐殺者であることを忘れるな!」という叫びそのものだったのだ。それから約50年後、2021年3月、ウィシュマ・サンダマリさんが名古屋入管収容中に死亡した、いや、殺された。その三ヶ月後、名古屋地検は、当時の佐野豪俊名古屋入管局長ら職員13人を不起訴処分(嫌疑なし)とした*8。これまで、入管施設で、また強制送還の途中空港で、多くの外国人が死亡している、いや殺されているが、驚くべきことに(本当に驚くべきことなのだが)それらの事件で入管局長ら職員が刑事事件で訴追されたことは一度もない。大きく報道されることもないそれらの事件のことを、多くの人たちは「忘れる」以前に「知らない」ままだった*9

「日本人は、あそこでなにが起こってるか、ぜんぜん知らないよね」

そう言うと、ハヤトはきれいな茶色の瞳でまっすぐこっちを見た。(中島京子『やさしい猫』p.227)https://sarutora.hatenablog.com/entry/2022/04/24/003735

だから、入管法改悪反対運動、そしてその中で用いられてきた「#NeverForgetWishma」というスローガン(ハッシュタグ)は、ミンガスの「Remember Rockefeller at Attica」という叫びと響き合っていると言えるのだ*10
 ところで、長崎県大村市にあった「大村収容所」(現在の大村入管センターの前身)は、在日朝鮮人を韓国へ強制送還させるための施設だったが、ここにはかつて多くの在日朝鮮人が収容され、劣悪な環境で迫害を受けていた。「大村朝鮮人収容所」とも呼ばれたこの収容所で、1953年6月にこのような事件があったことをご存知だろうか。

 1953年6⽉、長期収容を覚悟した被収容者たちが、⽇本当局の⾮⼈道的な取扱いに憤激し、無条件釈放を要求したことがあった。
 しかし、当局は、警官400名を動員して催涙弾の⾬を降らせ、主導者を独房に監禁した。
 被収容者はこれに抗議して座り込んだが、待機していた600余名の警官隊は、「殺せ!」という指揮官の号令で狂犬のように被収容者を襲い、7名を撲殺しただけでなく、多数に重傷を負わせ、あたりを⾎の海に変えてしまった。
(姜徹『在日朝鮮人の人権と日本の法律(第三版)』雄山閣、2006年(初版発行は1987年)、136ページ。)

 日本のアッティカともいうべきこの事件のことも、私たちは「忘れてはならない」。

Charles_Mingus_1976.jpg: Tom Marcello Webster, New York, USAderivative work: Emdee, CC BY-SA 2.0

Charles_Mingus_1976.jpg: Tom Marcello Webster, New York, USAderivative work: Emdee, CC BY-SA 2.0

 大村収容所では、この事件だけではなく、被収容者による即時釈放と待遇改善を要求する運動がたびたび起こっていた。大村収容所がどのような場所であったかについては、「日刊イオ」の2010年の記事に、2001年の「朝鮮新報」に掲載されていた文章が引用されている。
https://www.io-web.net/ioblog/2010/06/12/74934/
 元記事が閲覧不能なようなので、孫引きになるが以下は「日刊イオ」の方からの引用である。

 大村収容所は朝鮮戦争の避難民や外国人登録令に違反した同胞を収容し、南朝鮮へ強制追放するために設立された施設です。1950年10月1日、針尾収容所として始まり、12月末に大村の元海軍航空工廠跡地に移転して現在になりました。
 初期の収容人員は常時4、500人で、最も多いときには1500人が収容されていました。ここから集団送還された同胞数は、50年代だけでも1万人以上にのぼります。被収容同胞には刑務所や捕虜収容所と同様な、過酷で非人道的な待遇が行われていました。
 収容所の周りは鉄条網と高いコンクリートの塀で二重に取り囲まれ、鉄格子の付けられた部屋は溢れる人数で身動きできず、食事や医療も不充分でした。しかも52年5月以降、送還者のうち「終戦」前から在留者で追放された者の受入れを南朝鮮政府が拒否したため、劣悪な環境で多くの同胞が長期収容を余儀なくされました。
 このような状況を打開するため被収容者たちは即時釈放と待遇改善を要求し、再三抗議集会を開きますが、当局はこれに対し武装警官を導入して弾圧し、多数の死傷者まで出します。それでも同胞たちは遺書を書いて「死の断食」闘争を決行していきます。
 58年以降、被収容者のうち「戦前」からの在留者が仮放免されます。と同時に56年から中断されていた強制送還が開始されるのですが、当時多くの同胞が南朝鮮での迫害を恐れ、共和国を帰国希望地としていたにもかかわらず、南へ送還され、過半数が情報警察に逮捕されるという事件が起きています。その後のたたかいで帰国地選択の自由が認められ、100余人の被収容同胞が共和国への帰国船第1便に乗船できました。
 60年以降の大村収容所は、単なる在日朝鮮人追放の施設としてだけではなく、南の軍事政権から逃れてきた人々を再びそのもとへ送り返す南朝鮮の出島、反共の場と化していきます。(金大遠、研究家)

 1953年6⽉の大村での虐殺事件については、以下のyoutube番組(デモクラシータイムス)でも言及されている。
「ニッポン入管残酷物語 辛淑玉 × 北丸雄二 【マイノリティ・リポート】2023/02/19」


www.youtube.com

20:40〜
 このコーナーでは、入管体制の問題点と歴史についてわかりやすく説明されているが、とくに辛淑玉さんの話はぜひ聞いてほしい。

※誤解を避けるために記しておくが、入管の収容所は「刑務所」ではない。入管の収容所は、本来は、退去強制という行政処分を受けた外国人が送還されるまで待機する場所でしかない。

 

www.cbsnews.com

www.nytimes.com

*1:https://en.wikipedia.org/wiki/Attica_Prison_riot https://www.nytimes.com/2016/09/04/books/review/blood-in-the-water-attica-heather-ann-thompson.html

*2:前月8月21日には、ブラック・パンサーの指導者の一人ジョージ・ジャクソンが刑務所脱走に失敗して射殺されているが、この事件が蜂起のきっかけであるとされている。

*3:https://en.wikipedia.org/wiki/Attica_Prison_riot
https://www.cbsnews.com/pictures/attica-prison-riot-50-years-later/

*4:「具体的要求」として彼らが示したのは、食事の栄養改善、看守の質の向上、より現実的な更生プログラム、そしてより良い教育計画だった。彼らはさらに宗教的自由、政治活動の自由、検閲の中止を要求した。
(アンジェラ・デイヴィス、上杉忍訳『監獄ビジネス──グローバリズムと産獄複合体』岩波書店、2008年、58ページ。)

*5:https://www.nytimes.com/2016/09/04/books/review/blood-in-the-water-attica-heather-ann-thompson.html

*6:同上。

*7:事件の一年後、この刑務所を訪れたフーコーのインタビューが残っている。John K. Simon, "Michel Foucault on Attica: An Interview", Telos, No.19, Spring 1974: 154-161.「アッティカ刑務所について」『ミシェル・フーコー思想集成 V:1974−1975 権力 処罰』筑摩書房、2000年。

*8:2022年12月、名古屋第1検察審査会検審)は当時の検察の決定について、「不起訴不当」とする議決書を公表し、名古屋地検の再捜査がはじまることになっている。

*9:荒木祐一さんが、「ウィシュマさんを見殺しにして、総理大臣が辞職していないのがおかしいんだよ」と書いていたが、まったくそうだと思う。https://twitter.com/ark_yz/status/1626221064182448132?s=20

*10:ミンガスは、その後ALSに罹患し、1979年1月(おそらく人工呼吸器を装着することなく)死去した。
 アッティカ刑務所事件を題材にした曲としては、事件直後の1972年に、ジャズ・サックス奏者のアーチー・シェップによる"Attica Blues"、ジョン・レノンによる"Atthica State"が発表されている。前者を含むシェップの同名アルバムには、ジョージ・ジャクソンに捧げた"Blues for Brother George Jackson"という曲も収録されている。ちなみにジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンは、長らくアッティカ刑務所に収監されていた。