アニメと反戦(6)『攻殻機動隊』

アニメと反戦(1)『機動戦士ガンダム』1 - 猿虎日記
アニメと反戦(2)『機動戦士ガンダム』2 - 猿虎日記
アニメと反戦(3)『超時空要塞マクロス』 - 猿虎日記
アニメと反戦(4)『宇宙戦艦ヤマト』 - 猿虎日記
アニメと反戦(5)『カウボーイ・ビバップ』 - 猿虎日記

 アニメの『攻殻機動隊』シリーズで草薙素子役をされていた田中敦子さんが亡くなったそうだ。そのことを話題にするSNSの中に以下の記事を紹介するものがあった。

note.com

 アニメ『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』(2002〜2003年)(以下『攻殻SAC』と略)の冒頭で草薙素子が言う「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口を噤んで孤独に暮らせ。それも嫌なら・・・」という有名なセリフは、SNSなどで大抵「世の中に不満を言わずに受け入れろ」と引用されてしまっているけれど、

しかしながら、本来、このセリフは物語全体で否定されるべきテーゼとして提示されており、そのまま文字通りの意味で引用してしまっては作品の読解として間違いです。

 なるほど。興味深い。細かいことだが、この記事で紹介されている『攻殻SAC』の「笑い男」のロゴに入っている「I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes」という語句は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』からの引用らしいが、この記事やwikipediaの「笑い男」の項目などでその翻訳とされている「耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ」は、草薙素子のセリフに寄せてるのではないか。原文は「deaf-mutes」だから「目を閉じ」は入ってない。要するに日本語は「見ざる聞かざる言わざる」だが、英文は「聞かざる言わざる」のみ。『ライ麦畑』の翻訳で当該箇所は確認していないが、たぶん違うのではないか*1
 それはともかく、問題の「世の中に不満があるなら自分を変えろ〜」という草薙素子のセリフだが、あれはたしかマンガ版の原作(1989年)でも出てきたのではなかったか…と思って原作マンガを引っ張り出して見てみたらそんなセリフはない。勘違いだったようだ。そういう勘違いをする人が多いということを加野瀬未友氏が指摘していた。


 すいません、私もでした。しかしとにかく、上の加野瀬氏のポストの引用で藤田直哉氏も言っているように、『攻殻SAC』のあのセリフを文字通りの意味に受け取るのは間違いだというのは確かだろう。『攻殻機動隊』のハリウッド実写映画版については以前このブログで書いたが(ニッポン・イン・ザ・シェル - 猿虎日記)そこでも書いたように実は私は『攻殻SAC』にはあまり惹かれず、途中で観るのをやめてしまっている。しかし今回いろいろ調べて俄然興味がわいてきたので、近い内に改めて最後まで観てみることにしよう*2
 さて、原作漫画(第一巻)に「世の中に不満があるなら〜」のセリフがないのは確かだが、しかし、似たようなセリフがあることも事実。一番有名なのはこれ。

何が望みだ?俗悪メディアに洗脳されながら種(ギム)をまかずに実(フクシ)を食べる事か?興進国を犠牲にして
(士郎正宗『攻殻機動隊』講談社ヤングマガジンKCDX、41ページ)(士郎正宗『攻殻機動隊』講談社ヤングマガジンKCDX、41ページ)]

原作漫画『攻殻機動隊』のコマ「(素子)何が望みだ?俗悪メディアに洗脳されながら種(ギム)をまかずに実(フクシ)を食べる事か?興進国を犠牲にして」
 「マスゴミ」とか「ナマポ」とか言っている人々がいかにも喜びそうなセリフではないか。つまり原作の作者って、『攻殻SAC』の件のセリフを「世の中に不満を言わずに受け入れろ」と解釈してる連中と同じような人、というかその元祖みたいな人なのではなかったのかな。と思っていたら、こんな匿名の意見を見つけた。

45. ハンJ名無しさん
2024年02月24日 08:16
神谷監督の攻殻(注:『攻殻SAC』のこと)は確かにリベラルっぽいな。2ndGIGでは難民問題が起こったらとか、電脳に感染する排外思想のウイルスやPKO派遣...現実感があって真面目な設定を取り上げてたと思う。

押井守は原作ブレイカーだが、原作のイメージのままだったらここまで続くコンテンツにならなかったかもしれない。TV版にも影響を与えた劇場版2作の功績は大きい。

原作者の士郎正宗が一番何も考えてなかったと思う。才はあったけど、エロとメカが描きたいだけの右寄りのノンポリオタクという感じか。

「何が望みだ?
俗悪メディアに洗脳されながら種(ギム)をまかずに実(フクシ)を食べる事か?」

原作で素子が口にするこのセリフも作者の不勉強さが見えてかなり香ばしい...
nanyade.livedoor.blog

 上の人も「才はあった」と言っているが、原作は、もちろんSFマンガとしては抜群に面白いし絵もかっこいい。ただ、今回読み直してみて、セリフなどから見え隠れする作者の政治的なスタンスが(現代の日本のマンガ・アニメ作者にまったく珍しくはないものだが)「右寄りのノンポリオタク」だ、というのはまあそんなに外れてはいないのではないだろうか、と思った。
 原作のマンガ版『攻殻機動隊』の特徴の一つが、欄外に小さい文字でびっしり書かれた「脚注」というか「解説」だ。例えばこういうもの。

マンガ『攻殻機動隊』の欄外の科学解説

 欄外の「解説」というと、白土三平を思い出す。例えば、『カムイ伝』(1964〜1971年)の第一巻から適当に拾い出してみよう。

白土三平『カムイ伝』の欄外解説

 これは生物学を背景にした記述だが、白土三平の場合、こうした自然科学系の解説だけではなく、歴史や政治に関する解説が大量に付されている。

白土三平『カムイ伝』の欄外解説

 そしてこの「解説」は、単なる歴史的事実に関する「豆知識」とか「うんちく」ではなく、周知のようにマルクス主義を背景にした体系的な史観に基づいていた。

白土三平『カムイ伝』の欄外解説

 一方、『カムイ伝』の20年後に書かれたマンガ版『攻殻機動隊』も、SF的科学的解説と同時に、作品世界の社会構造や政治に関する「解説」がある。たとえばこういうもの。

『攻殻機動隊』欄外解説

 しかし、『カムイ伝』と違って、それらの解説の背景にあるのは、唯物史観などではではもちろんない。では何があるかというと、結局は、この連載でずっと取り上げてきた、例の「左翼フォビア」「社会運動フォビア」なのである(上のにもあるが、これらの「解説」ではしばしば「嫌い」という言葉が出てくるのは象徴的だ)。といっても、このマンガでは政府や大企業などの「体制側」も悪役として出てくる。でもその一方で、「反体制的」なものもやっぱり一貫して悪役なのである。信じられるのは「個人」と仲間の警察官。しかも、個人が依拠するのは、思想でも宗教でもない、「力」、そして「ゴーストの囁き」だ、というわけだ。
 加野瀬氏が紹介していたこちらのブログ記事(草薙素子とはどんな人間だったのか─原作素子とSAC素子の差異 : 戦争だ、90年代に戻してやる)の筆者は「攻殻SACが嫌い」だ、と言い、次のように書いている。

SAC素子の属する世界は単純です。

いち政治家が大規模な企業テロや不正な株価操作を試み、軍や警察でさえも不思議な力で自分の私兵にしてしまい、私的犯罪の証拠隠滅や証人の殺害に加担させられる。それがSACの世界です。

そこには純粋な被害者と加害者のみが存在し、他には何者も存在しません。悪徳政治家と虐げられた民衆がいるのみです。悪いのは全て黒幕、というのがSACの世界です。

こういった社会なら素子のやるべきことは簡単です。黒幕を倒す。それだけです。そうすれば悪は滅び、虐げられた人間は解放され、万民の歓喜の声が渦巻き天下大吉万々歳ということになります。

 つまり、『攻殻SAC』は、「悪徳政治家(加害者)と虐げられた民衆(被害者)がいる」という単純な左翼的世界観*3が支配しているから「嫌い」(で、原作はそうではないから良い)ということなのだろう。しかし、「左翼的世界観は単純である」というのも、それはそれで、単純な世界観である。そして、原作マンガには、その作者が、そうした「左翼フォビア」的な単純な世界観を持っていることを伺わせる描写がたくさん出てくるのである(以下ややネタバレあり)。
 例えば、第6話(押井守の劇場版『攻殻機動隊』第二作『イノセンス』のストーリーは、この第6話をもとにしている部分が多い)の冒頭で、素子、バトー、トグサは、県警による暴走したロボットの回収現場に同行するのだが、現場では、無惨に殺された人間の死体のそばに血まみれのロボットがいた。警官隊に襲いかかるロボットを、バトーは破壊する。現場を離れるために二人が乗り込んだ車の周りを、プラカードを掲げた人々が取り囲む。プラカードに書かれた文字は「暴力反対」「PEACE!」「法を守れバカヤロォ」「原発反対エネルギーよこせ!」など(それにまぎれて「違法同人誌反対」などのおふざけもある)。群衆が叫んでいるセリフが以下である。

「我々は警察のォこの様なやり方にィ断固抗議するゥ」
「んだんだ」
「力で権利を侵害するのか!」
「自由と平等を土足で踏みにじるやり方でェ」

 以前アニメと反戦(3)『超時空要塞マクロス』 - 猿虎日記で取り上げた、『超時空要塞マクロス』で、リン・カイフンをリーダーとする群衆が、マイクローン装置を回収しようとする軍人の輝を取り囲んで「国家権力の不当介入!」とか「権力を振りかざすな!」とか叫ぶシーンとそっくりである。
 『攻殻機動隊』の原作の場合、この群衆の声を聞きながら素子たちが車の中でする会話は以下のようなものだ。

(素子)「死体には人権がなく、機械には擁護団体か。人命も安くなったものね」
(バトー)「よせよ ここで 人口爆発に苦情 を言っても はじまらん。それにどうせ 自分の家族を殺されても聖人ヅラしてる不感症野郎共さ。誰も彼も手前の利益ばっかり考えやがる。」

マンガ『攻殻機動隊』人権団体にかこまれる主人公たち
 この第6話では、「興進国」の子どもたちを密輸しロボット製作のために使い捨てにして殺す企業、その企業と癒着する軍人とヤクザが、手前の利益ばっかり考えている「悪役」として登場するのだが、そうした「悪」を生み出す構造の変革のために闘うと称する「左翼」も、結局は手前の利益しか考えていないバカで「単純」なやつら、として嫌悪と嘲笑の対象にしかなっていない(さらには、ご丁寧に、「被害者」の子どもたちも単純な被害者ではない、という描写もある)。
 このシーンの欄外の「解説」もいかにもなものだ。

「人命が星より重い」というのは願いであって現実ではない。又その願いがもしかなったら星は1人に1コづつ必要で、生命を守る為なら星をどう処理してもよいというコトになる。星は人間などという一種族よりはるかに重く、人命が星より重いというセリフは他の全生命体を無視したおごり高ぶった考え方である・・・と思うので僕はキライだ。(人命は尊重するけど惑星程じゃないというイミにおいて)

 ロボットに殺された被害者がいるのにロボットの権利を叫んでいるデモ隊を皮肉っているのは素子であるが、かといって素子は「人命が星より重い」と思っているわけでもない。作者は、権利尊重にしろ人命尊重にしろ、青臭い単純な思想でデモをするような「聖人ヅラしてる不感症野郎」はキラい、そんなところではないか。それにしても、左翼が「聖人ヅラした不感症野郎」とは、ずいぶん陳腐なステレオタイプである。
 その他、原作マンガにおける「いかにも」なセリフをいくつかあげておこう。
 同じく第6話。悪徳ロボット企業に潜入したトグサとバトー。トグサが女性警備員?にみつかり、殴って倒すあとのセリフ。

(トグサ)「男女同権だ、悪く思うなよ」(135ページ)

 逃げ出した悪徳企業の社長を追いかけるバトーが、現場にいる全員に麻酔をかけて連行しておけ、とフチコマに命じた後のバトーとトグサの会話。

(トグサ)「おい!彼らにも人権があんだぜ」
(バトー)「そんなもんが本当にあったら世の中平和で俺達ゃ失業だ!」(138ページ)

 第7話。ソ連と癒着していた択捉の悪徳企業(この世界では択捉島は返還され日本の領土になってるらしい*4)の社長(実は元は対ソ連の特務機関に所属していた軍人)と、手下が、素子たちの潜入を察知したときの会話。

(手下)「2902だと公安9課6課レンジャー4課いずれも首相直属……圧力の効かない組織ですね」
(社長)「圧力が効かんのは議会を操る組合幹部連中だけだ。」(160ページ)

 このように、このマンガでは、やたらと「組合」が日本の黒幕的なものであるような描写が出てくる。
 163ページで、素子を襲撃する男のセリフ

死ね軍国主義者ッ

 もちろん素子はその男を瞬殺。軍国主義を批判するものとは、バカでザコなのである。
 192ページ。バトーと素子が、同僚の矢野の墓を訪れる。矢野は、バトーが訓練した新人警官だったが、バトーがソ連の戦闘サイボーグの尾行をさせたことで殉職した。墓に花を手向ける二人。帰りぎわに振り返ると矢野の弟が墓に訪れるのが見える。弟は二人が手向けた花を床に投げ捨て踏みにじる。

(バトー)「こういう目には毎度あってもなれないな……やりきれんよ」

 市民のために命を張るものは報われない、というテーマは、無理な実験をさせて死なせた部下の慰霊式に出席して遺族に卵を投げられたり、遺族の妹に銃を向けられたりする『プラネテス』のロックスミス(『プラネテス』のポリティカ その2 - 猿虎日記)、リン・カイフンを救出したのに罵倒される美紗(アニメと反戦(5)『カウボーイ・ビバップ』 - 猿虎日記)、などもそうだ。
 第8話。「テロリスト」を射殺した後の素子のセリフ。

「バイバイテロリスト……この世の中が嫌いなら二度とあの世から出てくるな!」(232頁)

マンガ『攻殻機動隊』素子がテロリストを射殺し「バイバイテロリスト、この世の中が嫌いならあの世から出てくるな」と言っている。
 ちなみにこのコマは紙版からの引用だが、ネット上でいくつか見られる同じコマの画像はページ数が違っている。おそらく電子版はページ付が違っているのだろう。
 第10話。素子はテロリスト制圧の現場で、銃に手をかけた少年を射殺するが、その場面を密かに撮影され、テレビ放送されてしまう。結局それはイスラエルと外務省がからんだ陰謀だったという話にマンガ中ではなっていく。「テロ」というとすぐに中東の話にしたがるのも凡庸で不快だが、それはともかく、これが警察による少年射殺事件として問題となり、テレビて討論会が開かれる場面。その討論を聞いている素子と荒巻の会話。

(素子)「実に立派な 国際国家ね。あの平和運動家達がもっと効果的に現実に対応して活動してれば私達がヤバい思いをしなくてすむのに……。」
(荒巻)「彼らは暴力を嫌っとる……その点は我々と同じだ──」
(素子)「偽善よ。消費優先の生活こそが貧困国に対する暴力だわ」(305ページ)

マンガ『攻殻機動隊』平和運動家を批判する主人公たち
 「消費優先の生活こそが貧困国に対する暴力だわ」はそうだと思うが、「平和運動家」がそれを言っていないと思い込んでいるところが、素子さん(作者)の限界である。そもそも、その貧困国に対する暴力の構造を作り出しているのが、素子(や作者)がキラいな、手前の利益しか考えてない企業でありそれと癒着した国家である。素子は(勝手な行動をする「組織内の異端」としてではあれ)なんだかんだいってその国家の手先として直接的な暴力を行使している。「偽善」というならそれは素子の方ではないだろうか。
 309ページ。裁判に出廷した素子。

(検察)「先程のB氏の証言、また放送された問題の映像でも相手を見てから1秒近く空白がありますね。(……)それだけあれば、あなたなら彼を助けられたかもしれませんね。でも殺した! なぜですか??」
(素子)「唯一の現実は死で、私は現実主義的だからです。彼が彼自身であったのか又ヒトだったか、それは判りません。生命自体よりその可能性(プログラム)が意味を持ち、評価の対象となります。でも、 悪夢(プログラム)から醒めた事は確かです。彼の悪夢(プログラム)が生活廃水なら、私はそれにまみれる廃水処理機。真に彼を殺したのは彼を形成した人達(プログラマー)……。私は不本意にも彼を助けたんです。」

 まあ「ポア」みたいな思想にも思えるが、そのプログラムが「悪夢」なのかどうなのか「評価」していたのは誰なのか?それは、素子に殺人(廃水処理=デバッグ)を命じていた別のプログラマー(国家)である。その意味で、『攻殻機動隊』に影響を受けた映画『マトリックス』に当てはめれば、素子たちは、システムに反逆する主人公の「テロリスト」、ネオやモーフィアスではなく、国家テロを担う「エージェント」の方なのである。
 もちろんここで彼女は(結局は国家にハメめられた結果)法を逸脱したテロリストとして国家に裁かれようとしている(デバッグされようとしている)ので、開き直ってこんなことを言っているとも言える。しかし、素子が施設の子どもに言い放った「未来を創れ」という言葉は、彼女自身にも返ってくるのではないだろうか。
 最後に、前回のブログに載せた表に『カムイ伝』と『攻殻機動隊』を付け加えたものをあらためて載せておこう。

  • 『カムイ伝』
    • 1964年〜1971年
    • 作:白土三平、1932年生まれ
  • 『超時空要塞マクロス』
    • 1982年放送
    • 脚本:富田祐弘、1948年生まれ
  • 『攻殻機動隊』
    • 1989年発表
    • 作:士郎正宗、1961年生まれ
  • 『カウボーイ・ビバップ』
    • 1998年放送
    • 脚本:村井さだゆき、1964年生まれ
  • 『プラネテス』
    • 1999年発表
    • 作:幸村誠、1976年生まれ
  • ひろゆき
    • 1976年生まれ

※藤田直哉氏の『攻殻機動隊論』(作品社、2021年)は未読です。これから読もうかと思ってます。

追記 サリンジャー『ライ麦畑』におけるろう者の表象

 こちらのサイト「笑い男 コピペメモ保存|m29」には村上春樹訳、こちらのサイト「【日】適当な嘘をついてその場を切り抜けて誰も傷つけない日曜日よりの使者 - ツイートの3行目」には野崎孝訳の該当部分が抜粋されている。前者は「聾唖者」、後者は「唖でつんぼの人間」になっている。内容的にも聴覚障害者のことだ。そうなると、「自閉症」と同じで、聴覚障害者を「耳と目を閉じ、口を噤んだ人間」つまり社会との関係を絶とうとする人間、の例えとして用いるのはちょっと問題だということになる。『攻殻SAC』での日本語文ではそのことは気が付かなかったわけだが。あと、『ライ麦畑』の主人公ホールデンにとって手話というのは全く念頭にないんだな。
 そう思っていたらやはり『ライ麦畑』でのろう者の表象は批判されているようだ。https://jstor.org/stable/26359236ではマサチューセッツ州の聴覚障害者学習センターの教員のパネルディスカッションが紹介されているが「伝統的な文学作品における不適切なろう者キャラクター」として『ライ麦畑』が挙げられている。

サリンジャーの『ライ麦畑』に登場するホールデン・コールフィールドは、耳が聞こえないことを夢見て、世間から自分をさらに切り離そうとし、ろう学生たちが慣れ親しんでいる世界とはまったく異なるろうの世界を思い描いている。

その他挙げられているのは以下↓

・チョーサーの『カンタベリー物語』に登場するバースの妻は、夫とのけんかで耳が聞こえなくなる不快な女性。
・ユーゴーの『ノートルダムのせむし男』に登場するカジモドは、奇形であり、容姿も醜く、社会から拒絶されたろう者の男である。
・マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』に登場するジムの娘は、猩紅熱が原因で耳が聞こえなるが、そのことを知ったジムはひどく苦しむ。
・同小説に登場する(ペテン師の)「王様」と「公爵」は、ウィルクス家を騙そうとして、片方がろう者の兄弟のふりをし、偽の手話を使ってお互いに会話する。そのことに語り手は嫌悪感を抱いている。
• ハーパー・リーの『アラバマ物語』に登場する(姉妹の)トゥッティとフルッティは、沈黙の世界に生きているが、片方は大きなラッパ型補聴器を使ってなんとか音を聞こうとし、もう片方はろうであることを認めようとしない。また、地元の子供たちに耳が聞こえないことをからかわれている。
• ヘミングウェイの「清潔で明るい場所」に登場する老人は、自殺願望のあるろう者の酔っ払いで、世間から離れて自分の中に閉じこもろうとしている。

*1:これについて注に書いていたが長くなったので本文に移すことにする。

*2:ブログのコメント欄で教えていただいたが、ハリウッド実写版のストーリーには『攻殻SAC』の影響があるという。

*3:「世界観」は、この連載の前回の記事でサルトルを引用しながら使った言葉だが、「作品がもつ雰囲気や状況設定」という意味ではなく、世界とはどういうものか、という基本的な見方、というような意味で使っている。世界観(セカイカン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

*4:1989年のこのマンガでは2030年にもソ連が存続していることになっている。