「サルトルと革命的サンディカリスムの思想」

『人文学報』(504),2015年3月,首都大学東京人文科学研究科,pp65-88.

一 ペルーティエと革命的サンディカリスム

(省略)

二 サルトルと革命的サンディカリスム

一 「共産主義者と平和」と革命的サンディカリスムの思想

 一九五二年、朝鮮戦争で米軍を指揮したリッジウェイが、NATO(北大西洋条約機構)軍最高司令官に任命された。一九五二年五月二八日、リッジウェイの来仏に抗議して、フランス共産党がパリでデモを組織した。デモは激しいもので、労働者と警察の衝突が起こり、デモ隊側に多くの犠牲者が出た(死者一名、負傷者多数)。そして、共産党の書記長だったデュクロが、国家に対する反逆を企てたとして、議員の不逮捕特権があるにもかかわらず逮捕された。デュクロは、スパイ用の伝書鳩を車に隠していた、という容疑で逮捕されたのだが、実際はこの鳩は食用の死んだ鳩だった。共産党は、このスパイでっちあげ事件に抗議するゼネラル・ストライキの六月四日決行を労働者に呼びかけたのだが、労働者たちは立ち上がらず、わずかニパーセントしか動員できなかった。
 サルトルはこの事件の後、保守派だけではなく、反共産党系「左翼」が嬉々として共産党をバッシングしはじめたことに激しい憤りを感じ、かつては批判的立場にあったソ連フランス共産党を擁護する論文「共産主義者と平和」を書いた*1。当時のフランスでは、「労働者を煽動し、大衆を政治に巻き込み、暴動を起こさせた」と共産党を非難する声が、保守派はもちろんのこと、反共産党系左翼からも上がった。スターリニスト(共産党)は、「大衆の不満を煽り、それを利用して大衆を政治にまきこむ」のであり、「彼らの不誠実なことばに熱狂させられて、大衆は合法性から抜け出し、自らの暴力の最初の犠牲者になる」というわけである*2。つまり、反共産党系左翼たちは、労働者を「党」に従属させようとする共産党を批判し、共産党主導のゼネストの失敗を、労働者の「自発性」の現れとして称揚する。こうした見方をとるならば、ゼネストに参加しなかった労働者の中に、ゲード派の政治主義を批判し労働者の自発性を重視した革命的サンディカリスムの労働者たちの姿を重ね合わせることも可能であるように思える。では、「共産主義者と平和」というこの論文で共産党を擁護したサルトルは、この時点で、革命的サンディカリスムと対立する立場に立った、ということなのだろうか。
 しかし、事柄はそのように単純ではない。そもそもサルトルは、左翼にシンパシーを持ちながらも、後に「自分はアナキストだった」と何度も述懐しているとおり*3マルクス主義とも当初は距離をとっていたし、特に、ソ連共産党フランス共産党スターリン主義官僚主義に対しては批判的な立場だった。サルトルは、一九四六年には「唯物論と革命」を発表してマルクス主義唯物論を神話として批判しているし、一九四七年には、「われわれはまだ自由なのであるから、フランス共産党の番犬に加わろうとはしないだろう」などと言っている。むろん、その後メルロ=ポンティの『ヒューマニズムとテロル』(一九四七年)や一九五〇年の朝鮮戦争などをきっかけに、サルトルは「時代遅れのアナキスト*4」から立場を変え、共産党の「批判的同伴者」となった、とされている。サルトルの「共産主義者と平和」は、そうしたサルトルの変化を象徴する論文である。だが、まさにその論文の中で、サルトルが革命的サンディカリスムの思想についてしばしば肯定的に言及している、ということにわれわれは注目したい。

二 大衆の根本的平和主義

 一九五〇年の朝鮮戦争勃発後、フランスでは、ソ連共産主義の脅威がさかんに宣伝され、ソ連のヨーロッパ侵攻がまことしやかに噂された。そして、一九五二年五月二日の共産党主導の、反戦を訴えたデモについても、反共産主義者たちはそれが「戦争を準備するため」のものだということを自明なことと考えた*5。彼らの理屈では、デモに参加した市民が「まさに平和を大声で叫んでいる」ことこそ、反逆者の証拠である。「彼らが、我々に武装解除という意気消沈させるイメージを提供するために市民の衣装を選んだことは明らかだ。そして、和解への呼びかけはただ防衛力の解体以外に目的を持っていないのだ*6」というわけである。ちなみに、二〇〇三年のイラク戦争前夜、当時世界中で盛んに行われた反戦デモについて、日本でもまったく同じ論理で批判するものたちがいた(例えば自民党小泉純一郎による「(反戦デモによって)イラクが正しいという誤ったメッセージを送らないように注意しなければいけない」、公明党冬柴鉄三による「戦争反対といってアメリカの圧力を抜くようなことは利敵行為」など)。だがサルトルは、ソ連の軍事主義の脅威を訴える西側諸国の側の「平和主義」についてこそ、その欺瞞性を指摘する。

 君たち〔西側諸国〕もまた、平和を欲すると主張していなかっただろうか?さて、私は君たちのオリーブの枝を探してみたが、爆弾しか見つけられなかった。君たちは、力を見せつけるのはそれを使わないためだ、と言うのか?しかし、力を見せつけることは、すでに暴力の行使である。黒人の国の王を服従させるために、君たちはアフリカの空を君たちの爆撃機で覆う。この白い暴力はよりたちの悪いものだ(……)君たちは、原爆実験の結果を発表し、二四時間でモスクワを壊滅させることができると自慢する。もちろん、平和のために、そして侵略者となる可能性があるものの意をそぐために、だと。(……)意をそぐための侵略、の意をそぐための侵略によって、ギリシアで、ベルリンで、朝鮮で、パリでさえも、人々は毎日死んでいる。これが君たちの平和だ、恐怖による平和だ。*7

 とはいえ、共産党主導の反戦デモと、続いて計画されたゼネストは失敗した。反共産主義者たちは、そこに、共産党に動員されなかった労働者の自発性を認めて称賛した。しかしサルトルは、共産党による失敗した反戦デモは、それでもなお「大衆の根本的な平和主義 pacifisisme foncier des masses を【伝えていた】*8」のだと言う。この「大衆の根本的な平和主義」とは、軍事的威嚇に裏付けられた「平和主義」、恐怖による「平和主義」とは対極的なものであるが、それは、大衆=プロレタリアートの深い自己意識と切り離せないものだ、とサルトルは考える。それは、「国家」の外、さらに言えば「社会」の外の存在、サルトルが『嘔吐』などで「余計者」と呼ぶものとしての自意識である。

 プロレタリアートの最も深く最も単純な感情、その階級意識の直接与件、それは社会全体との連帯を欠いた、純粋な【現存在】としての自己把握である。彼は社会に統合されておらず、彼は、社会の【かたわらに】、人々が彼に課し、ついには彼がそれを要求することになる、半-人種隔離状態において存在し続ける。*9

 サルトルは、インターナショナリズムとは「最も単純で、最も自発性に近い態度、最も労働者階級の感情を表現している態度*10」だと言うが、この意味でのインターナショナリズムとは、すなわち、「社会」から追放された者たちの、いわば「連帯を欠いた者たちの連帯」、のことである。サルトルは、「大衆の根本的な平和主義」が、この余計者たちのインターナショナリズムと本質的な関係を持っている、と考える。

 〔大衆の〕平和主義は、まず、搾取の社会のただなかでの労働者の孤独の再確認であり、次に、【この確認の後でのみ】、敵国の労働者階級との連帯の宣言である。*11

 そしてサルトルは、革命的サンディカリスムの中に、まさにこの意味での平和主義があったのだと考える。サルトルは、CGTの委員会によって一九〇六年一月に発表された次のようなアピールを紹介している。

 【戦争に対する戦争を】。労働者たちよ、(……)戦争はささいな偶発時に左右される。報道機関はそれを知っているが(……)口をつぐんでいる。それは、国民の名誉を口実に、自衛戦争であるがゆえに不可避な戦争を人民に進めさせたいからである。ところが、人民は戦争を欲しない(……)。労働者階級は戦争にいかなる利害をも持っていない。労働者階級だけが、彼の労働と血を支払うことで、戦争のすべての費用を負担する。したがって、労働者階級にとって、【平和を是が非でも望む】、と高らかに言うことは義務なのである。*12

 また彼は、一九〇八年、マルセイユで開催されたCGTの大会で、メライム(Alphonse Merrheim 一八七一〜一九二五)らが提起した次のような反軍国主義的、反愛国主義的決議を招介している。

 大会は、純粋に経済的な領域の内にとどまるものであるが、しかし、若者たちが軍服を身に付ける日が来たときには、彼らがなおも労働者家族の一員でありつづけるということ、また、資本家と労働者の衝突の際には、自分たちの兄弟や労働者たちに向けて武器を使ってはならないということを伝える教育は奨励する。地理的な境界は、持てる者たちによって恣意的に変更可能であり、労働者は、労働者階級と資本家階級という敵対する二つの階級を切り離す経済的な境界しか認めない。以上をかんがみて、本大会は、インターナショナルの公式を喚起する。
 労働者は祖国を持たない!*13従ってあらゆる戦争は労働者階級に対する加害行為でしかない。それは、労働者の要求から目をそらせるための、血まみれの恐ろしい手段である。本大会は列強の開戦の際には、労働者が、宣戦布告に対して革命的ゼネストの宣言をもって答えるように、インターナショナルな視点に立って労働者を教育する必要があることを宣言する。*14

 しかし、二〇世紀初頭のサンディカリスム運動の中にはあった以上のような「インターナショナリズム」や「平和主義」は、一九五二年の共産党主導の反戦デモにおいては消滅してしまったように見える。そこでは、たとえば著名なサンディカリスト、グリフュール*15(Victor Griffuelhes 一八七四〜一九二二)が一九〇五年に言った「祖国の土地を防衛するだって?いいだろう。ただそれは防衛者がこの土地の所有者であるという条件でなら*16」というような言葉は禁じられ、「平和主義」が「祖国patrieの防衛」や「ナショナリズム」と結びつけられてしまっている。サルトルはこう言う。

 共産党は、ソ連を労働者の社会主義的祖国とし、労働者をソ連の戦線に加わって戦う兵士にしてしまった。同時に、反戦闘争の技法も見直され、軍事主義化されてしまった。(……)盛大だがあいまいな「ゼネスト」を、サボタージュや、敗北主義*17による非合法のプロパガンダなどに置きかえた。*18

 たしかに、言語のレベルでは、共産党のメッセージはナショナリズムと軍事主義の性格を持っている。しかし、サルトルは、「ナショナリズムプロパガンダから借りられた言語の背後」で、「根本的平和主義」にとどまっていたプロレタリアートと、「イデオロギー的で言語的な呼びかけの背後で彼らもまた平和主義にとどまっていた」共産党の活動家との間で「一種の密かな対話 sous-conversation」が続いていた、と言う*19共産党の活動家は、言語によって伝達しながら「言語に逆らって」、古いサンディカリストたちがかつて(第一次大戦以前に)聞いていた「根本的な平和主義」のメッセージを伝えている、というのだ。
 このように、サルトルは、一九五二年の共産党反戦デモを評価するが、それは彼が、革命的サンディカリスムの思想を否定し、共産党の思想に乗り換えた、ということではないのである。サルトル共産党を擁護することで、言語化された共産党の思想そのものを肯定しているのではない。むしろ、その背後にこだましている、言語化以前の革命的サンディカリスムの思想をこそ、肯定しているのである。

三 政治と経済

 ところで、革命的サンディカリスムの平和主義・反戦主義に対しては、サンディカリストたちの中にも常に異論があった。サルトルは、革命的サンディカリスム内部での反戦主義をめぐる論争についても、詳しく論じている。そして、そこで問題になるのは、革命的サンディカリスムの「反政治主義」である。前節で引用した、一九〇八年のCGTマルセイユ大会でメライムが提起した反軍国主義決議は、最終的に賛成六八一票、反対四位一一、保留四三で採決された*20。開戦に際してのゼネストをみすえた労働者教育を提起するこの反軍国主義決議には、しかし、ニエル(Louis Niel 一八七二〜一九五二)ら少数派が反対の動議を提出していた。サルトルによると、ニエルら反対派は「ミリタンたちを【政治的に】団結させる*21」ようなものとしての反愛国主義に反対していた。それは、労働組合が、純粋に経済的な領域の内にとどまるべきものだ、という考え方である。そもそも当の反軍国主義決議においても、引用箇所冒頭においてその考え方が確認されている(「大会は、純粋に経済的な領域の内にとどまるもの」)。そこでは、「経済」と「政治」は、相容れない二つの領域であるということが前提されている。反軍国主義決議に反対し、組合活動を経済的側面における活動に限定すべき、というこの反対派の立場とは、一見すると、いかなる党派の支配をも拒否し、ゲード派的な政治主義を否定する革命的サンディカリスムの本来の路線に沿っているようにも見える*22
 一九五二年の共産党主導の反戦デモを批判した反共産主義者たちも、経済に専念すべき労働組合を政治問題で引き回しているとして共産党を批判した。労働者が共産党の動員に応じなかったことについても、彼らは、「〔労働者たちは〕良識を示し、彼らが政治と経済の分離を維持していくことを『ロシア主義者』の扇動者たちに分からせた*23」と考える。その意味で、反共産主義者たちは、革命的サンディカリスムの時代の反政治主義という本来の立場に立ちかえったとして労働者を称賛するのである。しかし、サルトルはそうした見方を強く批判する。まず、サルトルは「政治」と「経済」を相容れないものだとする考え方自体を批判する。サルトルによると、労働運動を「経済」に限定すべき、と主張することは、「雇用者たちに最高の贈り物をすること*24」つまり、ブルジョワジーを利するだけである。そもそも、「政治」と「経済」の二つの領域の分離は、ブルジョワジーが自らに都合のよいものとして作りだしたものでしかない。ブルジョワ経済学者は、労働者の賃金を決定する「賃金鉄則」を提唱したが、それは搾取者たちを免罪するものであった。

〔需要と供給の〕法則は見事に雇用者と従業員についての関係に適用された。労働が商品であり、賃金がその価格であった。誰も雇用者を非難することはできなかった。賃金はいかなるときも【ありうるがまま】のものであり、自動的に調整されているものであるがゆえに、多すぎることも少なすぎることもありえなかった。それゆえ、経済の領域は必然性の領域となり、他方政治の領域は自由の領域としてとどまった。すべては非常にうまくいくので(二つの領域は切り離されたままにされた。経済が政治に影響を与えることは仕方がないものと容認されるが、経済の政治への侵入は人心をかき乱し、スキャンダルを引き起こす。*25

 そうなると、「労働組合は経済の永遠の法則を変化させることができない」ことになり、労働組合の活動がその法則の範囲内のものであればブルジョワはそれを黙認するが、労働者たちが、ブルジョワが打ち立てた「人間が人間に対して完全に非人間的であるような世界の法則*26」を否定し、そうした法則を「人間的にするhumaniser」ことをめざすとするならば、もはやそれは黙認されなくなる。つまり、「経済」と「政治」の分割を認めることは、労働者にとって罠に陥ることであり、自らの手足をしばることになるのだ。しかしサルトルは、「労働者は経済の領域で自己の利益 intérêt を守ることに甘んずればよい」という主張に対して、「労働者の利益とは、もはや労働者ではなくなるということであるように思われる*27」と言う。つまり、労働者が搾取される階級社会の廃絶こそが労働者の「利益」だ、ということである。そもそも、サルトルも言うように、資本主義社会の労働法自体が、「経済」と「政治」との区別を前提として成り立っている。そこでは、賃上げ要求などの「経済的スト」は「良いスト」とされ(それを逸脱するスト(つまり政治的なスト)は「悪いスト」とされている。サルトルは、「ストライキ権も含む権利の行使は決して無制限ではない」と釘を刺す一九四七年フランスの行政文書を紹介している*28。しかし、ストライキの権利を職業上の権利要求に制限するという【ブルジョワジー】の決定は、自らの利益をみすえた、【すでに政治的なもの】である*29。また逆に言えば、労働者がブルジョワジーによる政治的決定を容認し、自らその行動を「基本的な権利要求」に限定したなら、それ自体もまた一つの政治的態度を取ったことになる*30。つまり、サルトルによると、労働者の行動は、政治的と標榜しようと非政治的と標榜しようと、【政治的でしかありえない】のである。その意味で、サルトルは「客観的には労働組合運動(サンディカリスム)は政治的である」と言う*31
 その上でサルトルは、ゲード派を批判し反政治主義を標榜していた革命的サンディカリストたちでさえも、「労働組合の【政治的】重要性を常に自覚していた」と言う。確かに、「アナルコーサンディカリムの英雄的な時代」に、彼らは党に不信を示していた。たとえばグリフュールは、『サンディカリストの行動』(一九〇八年)のよく知られ謝た前書きの中で、党と政治活動をのみ重視するゲード派を批判している。

 ゲード派は、組合を、党のための人員的かつ資金的な戦力となるような選挙委員会にすることを望んでいる。(……)政治活動をのみ導く社会主義者の構成員と、組合活動を第一に考える構成員の間で、綱領としてのゼネストの観念をめぐる闘争が続いている。しかし、前者が、知識人によって述べられた一般的観念によって導かれていた一方で、ほとんど労働者によってのみ構成されている後者は、労働者の態度の中に、考え方というより気質をもたらした。彼らにおいては、ブルジョワジーに対するむきだしの敵意があるが、あらかじめ構想された計画や全体的理論に起因する先入観はない。彼ら活動家たちは、労働者によって導かれることを激しく望んでいる。*32

 たしかにここで、グリフュールは、活動家たちが「労働者によって導かれることを激しく望んでいる」と言っている、しかしサルトルは、直前の箇所でグリフュールが、労働者の中に「ブルジョワジーに対するむきだしの敵意がある」と主張していることに注目する。そしてサルトルは、改良主義と革命派の入れ替わりがある程度あったにせよ、CGTの活動家たちが「その両端の立場のものであっても、あらゆる意味で組合活動を発展させるという点で同意していた」と言い、また彼らは「労働者が彼自身ブルジョワ社会の主要な矛盾である」こと、また「所有制度の否定である」ことを自覚していた、と述べる*33。したがって、サルトルに言わせれば、労働運動を「経済」に限定すべしと主張し、(政治的)反戦デモに反発することを、革命的サンディカリストに重ね合わせる反共産主義者たちは、悪質なすり替えを行っているのだ。サルトルは、先に言及したサンディカリストたたちが反軍国主義運動を盛んに行っていたことに言及し、「この種の空想には何の意味もないとはいえ、もし、グリフュールとメライムが〔一九五二年の〕我々のものと類似した状況に置かれた、と一瞬でも想像したなら、彼らがあらゆる反ソ十字軍を前もって糾弾するように〔CGTの〕大会を導いたことは、疑いない*34」と言う。そしてサルトルは、反共産主義的な新聞が、サンディカリスムを歪んだ形でとらえていることを指摘し、サンディカリスムの政治的本質を繰り返し肯定的に強調するのである。

 それゆえ、我々のご立派な新聞〔一九五二年の反共産主義的新聞〕どもが、組合が経営者にその要求を新年のあいさつのように申し出ていた黄金時代を郷愁とともに語るとき、彼らは夢を見ているのだ。彼らはサンディカリストの活動家が決して見失わなかった搾取の事実を覆い隠したいのである。彼らにとって、サンディカリスムは、議論が平等に行われるように雇用者が労働者に気前よく与えた武器なのである。しかし労働者たちは、彼らの組織が禁止され、追いたてられたことをよく知っている。労働者たちは、共産党の手助けがあろうとなかろうと、組合の本来の目的が「世界を変えること」だということを知っている。*35

 以上見てきたように、サルトルは、「共産主義者と平和」という共産党を擁護する論文の中で、共産党と対立するものと考えられている革命的サンディカリスムの思想を肯定している。しかし、サルトルは、革命的サンディカリスムの思想を全面的に肯定しているわけでも、またない。彼は、「共産主義者と平和」や、一九六〇年の『弁証法的理性批判』の中で、革命的サンディカリスムの活動家のエリート主義を批判している。また、「共産主義者と平和」でサルトルは、サンディカリストの時代には存在しなかったOS(特殊労働者)たちを論じる中で、サンディカリストの「労働のヒューマニズム」と対比される「欲求のヒューマニズム」について論じている。しかし、それらのテーマについての詳細な検討は、他日に期したい。

*1:サルトルの論文「共産党と平和」については、『労働と思想』(堀之内出版、二〇一五年)所収の拙論「サルトル──ストライキは無理くない!──」においても論じたので参照されたい。本論後半部分は、この論文の補論という性格も持つ。

*2:Jean-Paul Sartre, « Les communists et la paix », dans Situations, VI, Gallimard, 1964, p.84.

*3:サルトルアナキズムの関係については、三宅芳夫『知識人と社会』(岩波書店、二〇〇〇年)で詳細に検討されている。

*4:Jean-Paul Sartre, « Merleau-Ponty », dans Situations, IV, Gallimard, 1964, p.217.

*5:Sartre, Situations, VI, Gallimard, 1964, p.95.

*6:Ibid.

*7:Ibid., p.96.

*8:Ibid., p.109.

*9:Ibid., pp.109-110.

*10:Ibid., p.110.

*11:Ibid., pp.109-110.

*12:Ibid. p.110. 原文(CGT第五回大会(パリ)議事録Compte rendu des travaux; Ve Congrès de la Confédération générale du travail à Paris, 1900, p.10.)から訳したが、引用箇所と中略箇所はサルトルに従った。サルトルの引用文は原文と微妙に違っている。なお、CGT大会の議事録は、CGT社会史研究所(L’Institut CGT d’histoire sociale)のサイトで、pdf形式で公開されている(http://www.ihs.cgt.fr/spip.php?rubrique70)。

*13:この言葉は、もともとはマルクス共産党宣言』の中の一節である。

*14:CGT第十回大会(マルセイユ)議事録Compte rendu des travaux; Xe Congrès de la C.G.T, à Marseille, 1908, p.10.

*15:論旨に影響するような事柄ではないが、この論文でサルトルは、何度も引用しているにもかかわらず、グリフュールGriffuelhesという人名をすべてグルフュールGreffuelheと誤表記している。引用文、引用箇所などの誤表記が多い(よく言えば大らか)、というサルトルの文章の特徴はしばしば(欠点として)指摘されるが、これもその一例であると思われる。

*16:Sartre, Op. cit., pp.111-112.

*17:「自国の敗北から革命へ」という、レーニントロツキーが主張した「革命的敗北主義」のこと。

*18:Ibid., pp.110-111.

*19:Ibid., p.112.

*20:谷川、前掲書、二五六ページ。

*21:Sartre, Op. cit., p.123.

*22:谷川稔は、ある意味でそのような見方にたっている。彼は、上で紹介した一九〇八年マルセイユ大会のものも含め、最盛期のCGT大会における反軍国主義・反愛国主義に関する行動提起は「いずれもその政治的性格を批判され(……)革命派ミリタンをも含めた広範な拒絶反応に出会っている」と言う(谷川、前掲書、二五〇〜二五一ページ)。また、採決されたマルセイユ大会の決議にしても、同大会での他の重要議題の議決に比して相当賛否が接近したものだった、と指摘する。谷川は「そもそも反軍国主義や反愛国主義は、本質的に政治的な命題であり、元来サンディカリスムの理論構造においてはやや異質な性格を帯びていたと考えるべきであろう。その意味では、理論的にも実践的にも大戦中のナショナリスムへの拝跪はむしろ当然の帰結とさえ思われるのである(同書、二五二ページ)」と述べている。

*23:Sartre, Op. cit., p.116.

*24:Ibid.

*25:Ibid., p.117.

*26:Ibid., p.118.

*27:Ibid., p.119.

*28:Ibid., p.120.

*29:Ibid., p.123.

*30:Ibid., p.128.

*31:Ibid.

*32:Victor Griffuelhes, L'action syndicaliste, M. Rivière, 1908, p.5.

*33:Sartre, Op. cit., p.129.

*34:Ibid., p.130.

*35:Ibid., p.131.