最近、「音楽に政治を持ち込むな」論争というものがあったそうだが、サルトルは、1952年の「共産主義者と平和」という論文で「労働運動に政治を持ち込むな」という主張を批判している。それについて去年「革命的サンディカリスムとサルトルの思想」という論文を書いた。
この論文の前半部分は、革命的サンディカリスムの思想についてかつて書いたものを一部書き直したものだが、後半部分は、サルトルが「共産主義者と平和」の中で革命的サンディカリスムに言及している部分について論じた。というわけで、その部分を再録することにする。注にも書いたが、この論文は、『労働と思想』(堀之内出版、2015年)所収の拙論「サルトル──ストライキは無理くない!──」の補論なのである。『労働と思想』もよろしく。
サルトルによると、労働運動を「経済」に限定すべき、と主張することは、「雇用者たちに最高の贈り物をすること」つまり、ブルジョワジーを利するだけである。そもそも、「政治」と「経済」の二つの領域の分離は、ブルジョワジーが自らに都合のよいものとして作りだしたものでしかない。ブルジョワ経済学者は、労働者の賃金を決定する「賃金鉄則」を提唱したが、それは搾取者たちを免罪するものであった。(……)つまり、「経済」と「政治」の分割を認めることは、労働者にとって罠に陥ることであり、自らの手足をしばることになるのだ。しかしサルトルは、「労働者は経済の領域で自己の利益 intérêt を守ることに甘んずればよい」という主張に対して、「労働者の利益とは、もはや労働者ではなくなるということであるように思われる」と言う。つまり、労働者が搾取される階級社会の廃絶こそが労働者の「利益」だ、ということである。そもそも、サルトルも言うように、資本主義社会の労働法自体が、「経済」と「政治」との区別を前提として成り立っている。そこでは、賃上げ要求などの「経済的スト」は「良いスト」とされ(それを逸脱するスト(つまり政治的なスト)は「悪いスト」とされている。(……)しかし、ストライキの権利を職業上の権利要求に制限するという【ブルジョワジー】の決定は、自らの利益をみすえた、【すでに政治的なもの】である。また逆に言えば、労働者がブルジョワジーによる政治的決定を容認し、自らその行動を「基本的な権利要求」に限定したなら、それ自体もまた一つの政治的態度を取ったことになる。つまり、サルトルによると、労働者の行動は、政治的と標榜しようと非政治的と標榜しようと、【政治的でしかありえない】のである。その意味で、サルトルは「客観的には労働組合運動(サンディカリスム)は政治的である」と言う。
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20160822/p2