贈与と労働

 kawakitaさんとaraikenさんの、内田さん批判をめぐるやりとり
資本主義社会における贈与とは反抗することである
内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?
 についてちょっと思ったことを書いてみたいと思います。
 kawakitaさんは、誤読に基づく内田バッシングのようなものが存在すると感じておられて、araiさんの一連の内田批判も、そのようなものとして捉えているようです。しかし、araiさんの内田さん批判は、kawakitaさんが言うように「誤読から仮想敵を導出して自分の批評性を確保するという振る舞い」ではまったくないと私は思います。araiさんの思想からすると、内田さんの主張はどうしても批判せざるを得ないものであり、だからこそaraiさんは批判しているのだと思います。むしろkawakitaさんの方が、araiさんの主張を誤読しているように思えるのです。
 kawakitaさんは最初の方で「贈与」「等価交換」「労働」の定義をされていますが、araiさん的に言うと、この定義自体が問題だということになるのではないでしょうか。

  • 贈与・・・生み出した価値に対して、見返りを求めないので、得られる対価は0。
  • 等価交換・・・生み出した価値に対して、等価の対価を得ること。
  • 労働・・・生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと。

 この定義によると、「贈与」「等価交換」「労働」は、あたかも、対価が「0か等価か低いか」ということ、言い換えれば対価の量の違いによってのみ区別される、ということになってしまっています。つまり、「贈与」はある意味で「交換」の一種としてとらえられています。そしてそのことは、内田さんの主張の問題点につながっていると思います。
 しかし、araiさんの考え方に従えば、「贈与」は「対価が0ということ」なのでは決してない、ということになるはずです。それは、そもそも「対価」や「交換」といったことと根本的に相容れないものです。贈与は、http://f.hatena.ne.jp/kwkt/20060314180005にあるように、「等価交換」や「労働」と並べられ、同じ空間でグラフ化されるようなものではないのです。araiさんの記事に

「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。

とあります。しかし、その後の箇所から明かなように、「贈与」は、「等価交換」だけではなく「非等価交換」とも明確に対立するものなのです。

もちろん、現実には労働者はつねに資本家によって「搾取」されているのであり、労働と賃金の「等価性」はいわば幻想的なものに過ぎません。しかし、これと「贈与」における<等価交換の不在>は根本的に異なります(例えば、詐欺にあって「金を騙し取られる」ことと「自発的な寄付」がまったく異なるように)

 つまり、「搾取(非等価交換)」と、「贈与(等価交換の不在)」は、どちらも「等価交換」と対立しているように思えるが、それらは根本的に異なるものです。いいかえると、「贈与」は、「等価交換」とも「非等価交換」とも異なった平面にあるものであり、そもそもそれらとはまったく違う原理だ、ということです*1


 kawakitaさんは、「内田さんは『労働は贈与である』などとは言っていない、内田さんは『労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である』と言っているにすぎない」、というようにおっしゃいます。であるとするなら、それはまさに、内田さんの思考が、この社会の外部に関わる「贈与」の契機に届いていないこと、結局は「交換」を基礎とするこの社会の枠組みの中でしか動いていないことこそを示していると思います。そして、内田さんは、「贈与」という概念をあらかじめ「非等価交換」(つまり結局は「搾取」)という概念に歪曲した上で、「労働とは贈与である」と主張している*2
 さて、kawakitaさんはこう言っています。

僕が書きたかったのは、「等価交換」の原理が浸透した社会における「贈与」の復活ではなく、「贈与」の契機*1の必要性でした。社会が成り立つためにはおそらく「贈与の契機」が必要であり、その「贈与の契機」の成立は合理的には説明できない、という問題意識です。

 kawakitaさんが、あるいは内田さんが、「『等価交換』の原理が浸透した社会における『贈与』の復活」を語っていないのだとすれば、そしてにもかかわらず、「贈与」と根本的に相容れない非等価交換の契機を、「贈与の契機」として、つまり「贈与」という言葉を用いて表現してしまっているとすれば、むしろそれこそが問題なのではないでしょうか。なぜならそれは、「贈与」という言葉を使いながら、「贈与」から目を逸らさせる効果、「贈与」から、この(資本主義)社会にとって危険な力を削ぐ効果を持つからです。araiさんの記事のタイトルにあるように、「資本主義社会における贈与とは反抗すること」であるはずなのです。ところが、内田さんは、「贈与」を逆に「従属すること」に歪曲してしまい、その上で歪曲された「贈与」を称揚する。つまり、一見資本主義社会と、等価交換原理を批判しているように見えながら、結局は、資本主義のシステムを肯定し、擁護しているのだ、ということです。
 内田さんは、労働しない若者を批判します。それに対して、内田さんの批判者は、労働しない若者を擁護するともいえます。しかし、労働しないものを擁護するからといって、労働しているものを批判するわけではない。批判の対象は諸個人ではなくシステムです。滅私奉公を批判することと、滅私奉公させられているサラリーマンを冷笑することとは違います。サラリーマンが滅私奉公「させられてしまう」のは、彼の中に、対価や交換を省みない「贈与の契機」があるからかもしれません。しかし問題は、彼らの中にある「贈与の契機」が、システムに回収されてしまうことです。それはいわば「贈与の搾取」のシステムです。そして、内田さんの主張は、結局のところそうしたシステムを補強するものではないのか、というのが、araiさん(たち)の内田批判なのだと思います。
 私の考えはaraiさんの考えと違うところもあるかもしれませんが、とりあえずアップします。

*1:上で、「自発的な」寄付、という例が用いられていますが、「贈与」においては「自発性」ということも重要な契機だと思います。ただしそれは、リベラリズムにおける経済行為の「自由」とはまったく異なったものです。

*2:kawakitaさんは、内田さんはそうは言っていないとおっしゃるわけですが、文字通りそういう表現をしないにしても、「労働とは贈与的なものである」と言っていることは明白だと思います