かつてここ*1でとりあげたように、齋藤孝は、ゲームのモノポリーについてのコラムにおいて、「運と勘と交渉術で一等地にホテルを建てることもできるし、一歩間違えば即退場」というこのゲームが「共産主義にケンカを売っているようなゲーム」であり、「だからおもしろいし、熱狂する」と言っている。
考えてみれば、共産主義ではこうはいかない。全員が平等で、計画どおりに働き、時々ストライキやデモを起こしてみるといった程度では、ゲームにならない。あったとしても退屈で、労多くして幸すくなそうだ。つまりゲームの世界においても、資本主義は共産主義を凌駕しているのである。
「共産主義」は「平等社会」であるが、そうした社会は「面白く」なく、人々は労働意欲を失って社会は停滞する(旧ソ連のように)……こうした「俗流共産主義批判」は、かつてしばしば聞かれたものだ。
それに関しては、まず第一に、ソ連が「平等社会」であった、という前提がそもそも間違っている、と指摘することができる。そのことにかんして、江口幹は、『新・共産党宣言』(三一新書)においてこう言っている。
ソ連には自由がないが平等はある、働いても働かなくても同じ賃金がもらえる、とトボけたことをいう人びとがいる。(……)ソ連においては報酬の平等があるどころではない。研究者によっていろいろ数字の違いはあるにしても、勤労者の平均収入とノーメンクラツーラの平均収入の間には、一対十よりもむしろ、一対二十、一対三十といった大幅な格差があることを、誰もが認めている。一方が月収三十万円なら、他方は六百万円、九百万円、というわけである。
(『新・共産党宣言』187-9頁)
したがって、ソ連の経済が停滞したのは、それが平等社会だったからではない。むしろ逆である。そして、平等であるがゆえの労働意欲の減退、などと言われることも、別の見方ができるのである。
社会から一切の自発性を追放した〔ソ連の〕管理方式は、いわれたことだけを適当に渋々やる、それもできるだけしない、という冷笑的な無関心、無言の抵抗を一般化させる。この基本的な矛盾が、ソ連の経済を泥沼的なものにした。下からの的確な情報が伝えられないので、上からの計画はつねに虚構のものとなり、表向きの計画経済とは別に、混乱した現実の経済、闇の経済が存在することになった。(……)
無言の抵抗をしたのは、企業の管理者たちだけではない。労働者たちもまた、サボタージュ、欠勤、欠損品作り、製品や原材料の盗み、副業に精を出す、等々の反撃の手段をあみだしていた。(同書p.191-192)
つまり、労働者のサボり、怠惰とは、「平等社会」(としての社会主義)が生み出したのではない。それは、「不平等社会」にして「不自由社会」であったソ連社会が生み出したものであり、同時に、そうした「面白くない不平等社会」に対する抵抗であった。それは、創意に満ちた不作為という行為、いわれたことを「しない」という行為だった、といえるのではないか。
翻って、「資本主義社会」はどうだろうか。「平等はないが自由はある」とでも言うのだろうか。
*抵抗としての怠惰、ということに関しては、matsuiismさんの優れた論考
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20060216
をあわせてご参照ください。
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*コメント欄のaomushiさんとのやりとりをめぐる追記
id:opemuさん
http://d.hatena.ne.jp/opemu/20060411/1144701808
「『ゲーム脳』が出てきたから親御さんが不安になった」というよりは、「元々ゲームばかりする子供に不安を感じていた親御さんが、その不安を科学的に説明してくれそうな『ゲーム脳』に飛びついた」のだろうから、いくらゲーム脳の非科学性を主張したところで、根本である彼らの「ゲームばかりする子供に対する不安」を取り除くことは出来ないのではないかと思う。