非暴力的「緊張」

 忙しかったり、いろいろあったりして、ずいぶんと久しぶりの更新になってしまいました。
 捻挫したおかげでデモにいけなかったのだけど、そのおかげで逮捕されなかった??
http://awn.ath.cx/Free-J4/
 いまごろ取り上げても遅い!……ですよね。すいません。
 それにしても新聞等でほとんど報道されない。毎度のことながら、新聞、終わってるな、と思っちゃいます。
 ところで、WPN系の「ピースパレード」について、辺見庸が次のように言ったのが(一部で)話題になりました。

なぜそんなに平穏、従順、健全、秩序、陽気、慈しみ、無抵抗を衒わなくてはならないのだ。犬が仰向いて柔らかな腹を見せて、絶対に抗いません、どうぞご自由にしてください、と表明しているようではないか(『世界』3月号)

 これで言えば、今回のことは、仰向いて柔らかな腹を見せた犬が、水に蹴落とされて打たれた、て感じもあります……。いや、皮肉を言っている場合ではないことは分かってはいます。もちろん、警察の横暴には強く抗議しなければなりません。
 ところで、遅ればせながら、酒井隆史の『暴力の哲学』を一気に読了しました。
暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)
 いろいろな論点があり、大変刺激的な本でしたが、とりあえず今回の件に関係する箇所を少し引用しておきます。

 たとえば[マーティン・ルーサー]キングに即するならば、あるいはガンディーに即するならば、非暴力直接行動がそれ自体「ピースフル」なものであるとするイメージはまったくの誤りです。日本でイラク反戦のデモの際にしばしば見受けられた、たとえば非暴力であれば、デモ中に嫌がらせをする警察とも仲良くしなければならないというような、緊張を忌避することがなにか運動の発展に意味があるというような発想はキングとも、ガンディーともまったく無縁です。キングは非暴力直接行動を、決してただ「平和」的な手段とみなしてはいませんでした。ここには平和そのものについての捉え方の根本的な違いすらひそんでいるといっていい。つまり、平和とはたんに「波風の立たない」状態なのか、それともダイナミックな抗争状態さえはらんだ、たえざる力の行使によって維持、拡大、深化されるべき力に充ちた状態なのか。つまり、たんに「平和」を乞い願うだけなのか、それとも「平和にパワーを」(ECD)というスローガンでいくのか?次の引用は、キングのなかでもっとも重要なテキストからのものです。

「なぜ直接行動を、なぜ座り込みやデモ行進などを。交渉というもっと良い手段があるではないか」と、あなたがたが問われるのはもっともです。話し合いを要求されるという点では、あなたがたはまったく正しいのです。実に、話し合いこそが直接行動の目的とするところなのです。非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです。それは、もはや無視できないように、争点を劇的に盛り上げようというものです。緊張をつくりだすのが非暴力抵抗者の仕事の一部だといいましたが、これは、かなりショッキングに伝わるかもしれません。しかし、なにを隠しましょう、わたしは、この「緊張(tension)」ということばを怖れるものではないのです。わたしは、これまで暴力的緊張には真剣に反対してきました。しかし、ある種の建設的な非暴力的緊張は、事態の進展に必要とされています。

(38-40頁)

 少しといいつつ長々と引用してしまいましたが、現在「非暴力」の支持者と批判者が共通して持っている「非暴力」に対するイメージが、実は(本来の)「非暴力直接行動(活動)」とは全く違ったものだ、という上の指摘は重要なものだと思います。
 もっと波風を!もっと非暴力的「緊張」を!ということなのですが、もちろんこれは高見からお説教している、というのではなく、私自身まさに緊張を忌避しようとする傾向が強いだけに、自戒をこめて言うのであります。