十年一日

10年前、呉智英氏の『はだしのゲン』解説について書きました。

(呉)氏は「長年、『はだしのゲン』を愛読し、そのすばらしさをあちこちに書き、大学でマンガ論の講義のテキストとして使っている」そうなのですが、同時に、『はだしのゲン』の評価がある「定説」に支配されていることを憂えています。その「定説」とは、「『はだしのゲン』は反戦反核を訴えたマンガであり、反戦反核を訴えたマンガはそれ故に良いマンガであり、反戦反核の思想は正しい思想である」というものだ、と呉氏は言います。しかし、氏は、この定説の前提となっている「反戦反核の思想は正しい」ということに対して疑問をなげかけ、反戦反核という思想は「正しいとは言えず、かといってまちがっているとも言えない」と言います

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/comics/hadashi.html

6年前、産経新聞にのった、呉氏の小田実追悼文について書きました。問題の追悼文はこのようなものでした。

日露戦争でアジアの新興国日本が大国ロシヤを破ったことはトルコなどを力づけた。太平洋戦争(大東亜戦争)も、結果的には敗北であったが、日本の奮闘はアジア・アフリカ諸国の励みになった。この事実を、戦後わずか20年の当時「人々はまったく無視して語らない」。
この本は『日本の知識人』(筑摩書房)である。「断」に拙文が載ると、著者から礼状が届いた。自分を単純な “反戦派”として批判する輩が多くて困る、自分の本を読んだ上での批判なら歓迎だ、というようなことが書かれていた。著者は、小田実である。
7月30日未明、小田が亡くなった。自民党参院選大敗が決まった頃だ。朝日新聞は追悼記事で、これと関連づけるかのように小田の市民運動の“偉業”を讃えた。来月の保守系論壇誌には小田の“単純な反戦派ぶり”を皮肉ったものが並ぶだろう。だが、大東亜戦争の二面性を40年前に強調した小田の二面性も忘れてはならない。私が同旨の文章を本欄に再び書く第2の理由は、死者の業績を正しく伝えたいからだ。(強調引用者)

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20070812/1186947317

さて、今日、たまたま朝日新聞をみたら、呉氏が『はだしのゲン』の中沢啓治に対する追悼文が載ってました。それが、6年前の小田追悼文と、まったく同じだったので、逆に感心してしまいました。ちょっと抜粋してみます。

(……)私は、二十数年前から、大学でマンガ論の講座のテキストに『ゲン』を使ってきた。それは、多くの学生たちが小中学校時代に「学校文化」の枠内で『ゲン』を読まされてきたからであるり、それを覆すことで、ややもすれば陳腐化する平和論への新しい視点を提示できると考えたからである。
ゲンの妹が誘拐され、被爆者たちのすむバラック村で「お姫様」として半ば振興の対象になっている話など、災害史研究者M・バークンや北原糸子の言う”災害ユートピア”世界、千年王国への期待であり、民衆の非合理な情念の表れだろう。被爆の悲劇の現実は、単純な反戦平和の図式で語り尽くせるものではない。
ゲンの健気なたくましさにも、市民主義的な優等生文化とは異質なものが感じられる。(……)
しかし、従来の平和論の文脈を外れた私の『ゲン』理解は、中沢さんが喜ばれないのではないか、との懸念もあった。ところが、中沢さんは『ゲン』の文庫本などの解説に何度も私を指名してくれた。(……)(強調引用者)

「「単純な反戦平和」と思われている小田/中沢は、実はそうではなかった。そう指摘した私を生前の小田/中沢本人は評価してくれた」というまったく同じ構造になっています。
呉氏の追悼の気持ち自体をどうこう言うつもりはもちろん全くないのですが、ただ、これらの追悼文を通して呉氏が主張しようとしている内容については、あいかわらずだな、という感想しか浮かびません。
大体、「市民主義的な優等生文化」=「単純な反戦平和」という等号が成り立つのって、いったい、いつどこの話でしょうか。もう何十年も前から、「脳内お花畑サヨク」だとかなんだとか言って「反戦平和」を「単純」「陳腐」とさんざん馬鹿にし、揶揄してきたのは、まさにその「市民主義的な優等生文化」そのものじゃないですか。ネット上はもとより、「論壇」だか「ゲンロン界」だか知りませんが、ちょっとでものぞいてみれば、どこを見回しても呉氏のエピゴーネンのような連中ばかり……に見えるのですが。「単純な反戦平和を唱える優等生的知識人」対「そうした枠ではとららえきれない非合理な民衆」というありもしない対立軸を勝手に作り上げた上で、前者を批判して後者を評価する少数派が自分である、と位置づける。しかしこの枠組み自体が、悲しいほど的外れです。
「優等生知識人より、民衆のほうがよほど賢いよ」などと「民衆」を持ち上げるようなふりをしながら、実際に言いたいのは「それをわかっている自分が一番賢い」ということだけ。そしてそれにたいして優等生たちが喝采する……なんともグロテスクな状況です。そして、どうやら彼らにとって、大量殺人に反対することは、そうした優等生のマウンティング・ゲームのいわば「ネタ」にすぎないようです。「民衆のしたたかな生命力」とかなんとかを盛んに持ち上げる彼らですが、そこには「生命」そのものに対する根本的な軽視があるのではないでしょうか。