「壁の時代」の後で/中で

今から20年前の1989年11月、東西ベルリンを隔てていた「ベルリンの壁」が崩壊しました。実際にこれが歴史的な事件であったことは事実ですが、「西」側のメディアは、この「壁の崩壊」という事件を、「社会主義の崩壊」を象徴する出来事として宣伝しました。「壁」というのは、東西ベルリンの人々の行き来をへだてる物理的なものであると同時に、「東」側の社会主義体制の「不自由」を象徴するものとみなされました。壁が崩壊した、ということは、「自由」と「民主主義」を求める民衆によって自由を抑圧する社会主義体制が打ち倒された、ということとほぼイコールの出来事として理解され、ベルリンの壁崩壊の映像は、その後もテレビなどでしつこく繰り返して使われました。
というわけで、「社会主義崩壊以後」の世界、とは「壁崩壊以後の世界」であり、すなわちそれは「自由と民主主義の勝利した後の世界」であるかのようにみなされたわけです。しかし、実際のところ、38度線をはじめ、ベルリンの壁崩壊以後も残り、現在にいたるまで存在し続けている「壁」もあるわけですが、ベルリンの壁崩壊のお祭りさわぎに便乗して浮かれていた人々が、自分たちの近くにある「壁」を崩すために積極的に行動する、ということはほとんどありませんでした。またたとえば、悪名高い非人道的な入管政策に示される、日本国家が作りあげている「壁」は、ベルリンの壁崩壊以後むしろますます高くなっているといえます。
さらに、ベルリンの壁崩壊以後、西側諸国の政府や企業によって新たに建設された物理的な「壁」も、ずいぶんとたくさんあるのです。壁崩壊を喜んでいるふりをしていた「西側」体制ですが、とんでもない、実は壁大好きなのではないか、と思えたくなるほど、あちこちで壁が建設されています。
これらの「壁」は、サルトル的にむずかしい言葉でいえば、まさしく「実践的-惰性態」としての「加工された物質」というやつで、つまり、人々を分断する「暴力」が物質化されたものにほかなりません。たしかに、分断する暴力の物質化としての「壁」の存在は、スターリニズム社会主義の体制にとって本質的なものだったといえるでしょう。しかしそれは、みかけは新しいグローバル資本主義にとっても同じなのです。

パレスチナ三里塚の壁


まず想起されるのは、パレスチナ占領地に、イスラエル政府によって建設された分離壁アパルトヘイトウォールとも呼ばれます)でしょうが、アパルトヘイトウォールは、パレスチナ以外でもあちこちで建設されています。ブログ旗旗では、日本の三里塚で空港会社によって建設されている分離壁のことが、パレスチナ分離壁と対比して紹介されています。右はブログ旗旗に掲載されている写真です。草加さんはこのようにおっしゃっています。

周辺の農家や田畑など、そこに普通に人が生活しているにもかかわらず、あらゆる場所が巨大な鉄板で囲い込まれています。空港会社が空港の本体のみならず、使用していない空き地なども含めてすべて鉄板で囲いこんでいるのです。どちらをむいても壁・壁・壁!写真などでは知っていましたが、農家を分断して屹立している高い塀がどこまでも続く光景には、驚きよりも怒りを感じました。農家によっては「壁建設」のため、自分の畑に行くために細い迷路のような壁のすきまを歩き、谷底のようになってしまった空間で耕作を強いられている人もいるそうです。そしてその壁の向こうの空き地には、高い「物見やぐら」がそびえたって、警察が住民を四六時中監視しているのです。
この状況はまさにパレスチナと一緒だなと思います。(……)
まさにパレスチナも、口先では「和平」を約束して世界に歓迎されたイスラエルですが、先住のパレスチナ人社会やコミュニティ、農民の生活を壁で分断して破壊し、暴力を駆使しながら、ただひたすら痛めつけ、「手足をもいで首が落ちるのを待つ」ような非人道的なことを続けています。

http://bund.jp/modules/wordpress/?p=442

メキシコ国境の壁

もう一つの「壁」は、アメリカ政府がメキシコ国境に建設している「壁」です。それについての記事が『THE BIG ISSUE JAPAN』の105号に掲載されています(Tim Geynor氏の記事の日本語訳です。原文はこちらなど)。90年代以降、アメリカ政府は、「不法」移民の流入抑止のためと称して、メキシコ国境に鋼板製の高い壁を張りめぐらすようになり、昨年(2008年)も大規模な増設が進められたそうです。

 しかし、この壁は、国境地帯に昔から暮らしてきた先住民の生活を破壊するものです。記事では、その中の一つ、クミアイ族について書かれています。「過去数十年もの間、メキシコとカリフォルニアに分かれて住むクミアイ族は、パスポートやビザなしで、しばしば国境の検問所を避け、サンディエゴ東部の山中、オーク林の中にある牧場の柵をとびこえて、互いの親族を訪問しあっていた」そうなのですが、壁の建設によってそれは物理的に不可能になります。しかし、クミアイの人々は、メキシコとサンディエゴの当局と交渉し、人口調査対象となった1300人限定ということのようですが、メキシコ側クミアイの人々が合法的にカリフォルニアに入り、最長で6ヵ月間滞在する「権利」を獲得したのだそうです。記事では、危機を逆手にとって権利を勝ち取った、というような書き方がされています。しかしそもそも、彼らが、人工的に引かれた国境などと無関係に土地を行き来するという当然の「権利」は、「法」によって与えられるようなものではないはずです。

イラクの壁

最後に紹介するのは、イラクの首都バグダードの一地区サドル・シティーの中に、アメリカ軍によって建設された「壁」のことです。私はその壁のことを、1月15日にTBSで放送された『CBSドキュメント』で知りました。
2008年3月、アメリカ軍は、シーア派の「反米武装勢力」が支配していたサドル・シティーを激しい戦闘のすえ制圧し、「治安が回復した」ということです。番組では、この戦闘でアメリカ軍がとった作戦について伝えていますが、それが、「壁」の建設だったのです。

2007年3月、サドル・シティーを拠点としていたシーア派民兵組織は、ここからイラク政府の官庁やアメリカ大使館が集中する地域(グリーン・ゾーン)にロケット弾を打ち込み始めた。アメリカ軍はサドル・シティーに突入したが苦戦。そこでアメリカ軍は、サドル・シティーを分断する巨大なコンクリートの壁を建設し、民兵の援軍が街に入ることを防ぐと同時に、ロケット弾のグリーンゾーンへの着弾を防ごうとしたのだそうです。壁で封じ込めた後に、アメリカ軍は高性能偵察機を使って民兵の行動を上空から監視して爆撃。8週間の戦闘で700人を殺害(アメリカ軍の死者は6人)。ビデオでは、民兵組織に壊滅的な打撃を与えた、と、まるで「部屋を閉め切ってバルサンを炊いてやった」というような表情の(実際ほとんどその程度の感覚なのでしょうが)アメリカ軍士官たちが得々として語っていました。

戦闘終了後も、サドルシティーを分断する4000メートルにもおよぶ壁は残されました。この壁には、アメリカ軍の「承認」を得て、イラク人アーティストが壁画を描いたのだそうですが、それが「幸福と平和を願うもの」だ、というナレーションは、ブラックジョークにしか聞こえませんでした。実際、壁を通過するとき住民たちは検問所を通らねばならず、この壁は住民たちにはすこぶる評判が悪いそうです(もちろん、「治安の回復」を喜ぶ市民の姿も映し出されるわけですが)。
番組の最後、日本側のコメンテーターであるピーター・バラカンは、「この壁はパレスチナ分離壁と同じだ」と、さすがに適確なコメントを残していました。