となり町戦争

となり町戦争
 やっと三崎亜記氏の『となり町戦争』を読みました。買おうと思ったときに限って本屋においてなかったりしたのですが、買った後はすぐ読んでしまいました。なるほど。なかなか面白かったです。id:t-b-s:20050212:p2 にもありますが、この物語は、となり町の戦争が描かれているから「シュール」な話、というわけではまったくない。むしろ、ここに描かれているのはまさに「私たちの生きている世界」なわけです。私たちは戦争の世界を生きている。戦争は今も私たちのまさに「となり」にある。ところが私たちはそのことを感じようとしない。著者はこのフィクションを書くことによって、「となり町戦争」を「ありえないこと」「フィクション」と思ってしまう私たちの感覚自体を、暗に批判しようとしている。虚構をリアルに描くのが優れたフィクションであるとすると、この物語は、戦争を虚構と思ってしまう私たちのリアルを、リアルに描いているという意味で、むしろノンフィクションといってもいいかもしれない。そう考えると、「となり町戦争」という設定は実に見事です。主人公と同じように、毎日となり町を通って通勤しているのに、となり町のことなど何も知らない、知ろうとしない、という人は多いと思います。そして、戦争とはまさに「そこ」にあるのに私たちが見ようとしない、感じようとしないものにほかなりません。したがって、『となり町戦争』というこの書名からは、「となり町戦争」という文字通りの意味ではなく、「戦争とはとなり町である*1」というメッセージを読みとるべきなのかもしれない。
 そういう意味では、著者は、(この言葉は使っていませんが)私たちの「平和ボケ」を批判しているわけです。しかし、「平和ボケ」とは、まさに「戦争ボケ」のことに他なりません。世界は常に戦争と殺戮に満ち、その上に日本の「平和」が成り立っているわけですが、私たちはそのことをまったく見ようとしていない。
 ところが、この「平和ボケ」という言葉は、これまで主に右派、というか反・反戦派によって用いられてきた訳です。彼らは、「戦争の現実を知らないがゆえに戦争に反対する平和ボケの日本人」というような言い方をする。つまり彼らは、「平和ボケ」をほとんど「反戦ボケ」と同義の言葉として用いるのです。しかし、さっきも言ったように「平和ボケ」とはむしろ「戦争ボケ」なのだから、これは明らかにおかしい。本当は、「平和ボケだから戦争に反対する」のではなく、逆に「平和ボケ(=戦争ボケ)を批判するからこそ戦争に反対する」となるはずです。戦争は「となり」だからこそ「戦争に慣れてはいけない」と訴える三崎氏と逆に、彼らは、戦争は「となり」だからこそ「戦争に慣れるべきだ」と言っているようなものです。それは、まさに戦争ボケ、しかも一番たちのわるい、開き直った戦争ボケ以外の何ものでもありません。
 しかし、では三崎氏のスタンスが、そうした開き直った戦争ボケに対するカウンターとなりえているのかというと、正直言って、いささか心許ないところもある。たとえば、先日引用した『ダ・ヴィンチ』誌上での三崎氏のインタビューから、前後の文脈を無視してフレーズだけをとりだしてみます。

「私たちの世代というのは、ほとんど刷り込みのように反戦教育を受けてきました。」
「あまりにあのころは、自分にとっての『戦争』というものを考えないままに戦争反対と唱えていたと思う。」
「それはただ植え付けられただけの『戦争は悪』という感覚で『戦争反対』と大声をあげている人への私なり意思表示でもあるんです。」

 上のフレーズだけを見ると、いわゆる反・反戦派による平和ボケ批判との違いは、かなり微妙にも思える。もちろん、前後の文章を読めば、三崎氏が「反戦は平和ボケだ>だから反戦はダメだ」というような短絡的な反・反戦の立場ではないことはわかります。が、結局、彼のためらいがちな誠実な声は、粗雑な平和ボケ批判=反戦ボケ批判の大声の中に埋もれてしまうおそれはないか?その辺が気になるところであり、難しいところだと思います。

*1:ただしこれは、多くの日本人にとって、「そうなってしまっている」という意味です。念のため。