デモに対する「叫ぶならカラオケボックスで」という感覚と、「主張はご自分のブログでどうぞ」という感覚は、もちろん共通しています。つまり、政治的主張に相応しい場所というのは、「公道」ではなく、カラオケボックスに象徴されるような、閉鎖された「私的」な場所である、という感覚です。森氏が言うような、この「デモの私事化」という問題は、このブログでしつこく話題にしていたデモの「衰退」ということ以上に重要な問題なのだと思います。
政治の「私事化」ということについては、私も以前少し書きましたので、それを再掲します。
しかし、「迷惑な人」に対する非難が、人ごとのような、高みから諭すような、冷笑するような口調を持つ原因は、次のようにも考えられるのではないか。まず、例えばビラをまくというような行為が、取るに足らない、趣味的な、いわば「私的な」ものと見なされているということ。行為そのものに関しては、冷淡、あるいは無関心な態度がとられる。「すきにすれば」「勝手にすれば」というわけです。非難されるのは、そうした「私的な」行為が「公的な」場所に持ち込まれた(と見なされた)時です。「そういうのはお仲間同士で勝手にやっててよ、みんなが興味あるわけじゃないんだから」。これは、まあ結局「そういうのはチラシの裏にでも書いてろ」というあれですね。
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060120/p1
さて、ここで問題なのは、「叫ぶならカラオケボックスで」と主張する人々は、叫ぶことを「禁止」しようとしているのではない、ということです。彼らは、叫ぶな、と言っているのではない。彼らは、「叫ぶのはご自由に」と喜んで言うでしょう。ただし、「迷惑がかからないようにカラオケボックスでやってね。」と付け加えることも忘れないでしょう。それは、公的な空間におけるデモ隊らの主張行為は、むしろ彼らにとっては自分たちの「自由」を侵害するもののように思われるからです。彼らにとっての「自由」においては、「見たくないものを見ない自由、聞きたくないものを聞かない自由」は非常に重要な要素を占めるわけです。
私的な領域における「自由」は守られねばならない、ということを彼らは認めるでしょう。その意味で彼らは「強制」や「押しつけ」に反対です。しかし彼らは、「私的な」領域を確保し、そこでの「自由」を確保するためにこそ、公的な領域ではあらゆる「私的な」ものが排除され、「中立」が保たれねばならない、と考えるのです。彼らにとっては、「自由」とは、お互い「干渉」されないこと、です。
例えば、卒業式での日の丸君が代問題について考えてみましょう。「強制」や「押しつけ」に反対、という立場が、日の丸君が代の強制・押しつけに反対するか、というと必ずしもそうでもないところが、問題なわけです。むしろ日の丸君が代に反対して主張したり行動したりする教師の方が、「特定のイデオロギーを生徒に押しつけようとしている」などと非難されたりする。「趣味」は、勝手にすればいいけど、「主義」(や宗教)は他人を巻き込もうとするから迷惑だ、ということです。
靖国問題もそうです。かつて知人が、小泉首相の靖国参拝について「たかが神社に行くぐらいのことになんであんなに(中国韓国などに)文句つけられなきゃならないんだ」と言っていました。首相自身が「心の問題」とか「私的参拝」などといって(実際はどう考えても公的なものでしかあり得ない)参拝という行為を「私事化」しています。「私事」であることを強調すればするほど、人々に支持されます*1。「神社ぐらい行かせてやれば良いじゃないか。誰に迷惑をかけるわけでもないし。」そして、私的な行為に「文句をつける」中国韓国などは、押しつけがましいものとしてイメージされる。内政「干渉」だ、というわけです。
(4に続く)
*1:しゃれじゃありませんが。