「もってのほか(笑)」的な「柔軟さ」?

へー知らなかった。食用菊の品種に「もってのほか」というのがあって、それは、「菊のご紋を食べるなんてもってのほか」てところからついた名前だという説があるとか。
しかし、「もってのほか」とかいいながらつまり結局食べちゃっているわけで、つまりこれは「もってのほか!(怒)」とうより、「もってのほか(笑)」的なネーミングだ、ということなんですかね?
ちょっとアブナいユーモア、みたいな?どうなんでしょうか。
で、そうだとして、それについて「いやそれは面白い!庶民が天皇のことを陰でテンちゃんとか呼んでバカにしてたのと同じで、そのネーミングも、〈もってのほかのものを食べちゃう〉ていう庶民の遊び心というか、ひそかな反抗心をあらわしているのですねー」的なこと言う人が、なんか居そうですよね。
しかしそれってどうなんだろう。そのはなしって、まさに、つねのさんがここでしているジジェクのニワトリ話そのままなんじゃないか、とも思うわけです。

 ジジェクという哲学者が年末の一発芸人のような頻度でリサイクルし続けている小話に、「ニワトリの無知」というのがある。

 あるところに、自分が米粒だと信じ込んでいる男がいる。彼は今にもニワトリに食べられてしまうのではないかという恐怖に怯えている。精神科医の治療により、彼は完全に治癒し、退院する。ところが男はすぐに医者の所に逃げ帰ってくる。「ニワトリに襲われる」と叫んでいる。

 医者いわく、「あなたはもう完治したじゃないですか。あなたは自分が米粒じゃなくて人間だということはわかっているでしょ」。

 男が答えて、「もちろん俺は人間だ。俺はわかっているよ。だがニワトリはそれをわかっているだろうか?」。←オチ

 ジジェクは東欧出身である。彼によれば、旧東側の全体主義社会もこの小話のように維持されていたのだそうだ。多くの人は、共産党なんか信じていなかった。本当に信頼できる身内同士では、独裁者の悪口ばっか言い合っていた。ところが一たび公の場に出ると、誰もがまるで共産党のことを信じている「かのように」振舞っていた。そうしないと制裁を受けるからだ。秩序はそうして維持されていた。むしろ本気で独裁者を信奉しているような人がパージされやすかった。そういう人は融通がきかないので、オモテとウラを使い分ける共産党支配にとってはむしろ扱いにくいからだ。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20080407/1207494000

つまり、天皇制も、この小話のように維持されていた/いるわけです。「もちろんほんとは現人神なんかじゃないってわかってるよ、けどまあそゆことにしとかないと面倒なんで」的なあれですね。
もうちょっといいかえてみます。
つまり「神様を信じている人」なんて実は誰もいなくて、「神様システムを信じている人」だけがいる、と。で、「神様を本気で信じている人」というのは、「神様システム」にとってはむしろ危険なものとして排除されちゃったりする。もちろん、「神様システムを信じない人」も同様です。
しかし、もういっかいひっくりかえすと、でも、「神様を信じること」と「神様システムを信じること」って、いったいどのような違いがあるのかしら?て話です。
未発表のサルトル論で使ったことがあるのですが、『徒然草』(下85段)に、こんな言葉があります。

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。

つまり、「狂人の真似してます」といいながら、日曜日のひるま表参道をフリチンで疾走したりしたら、つまり、それこそが「狂人」だ、ということになってしまう*1。「いや、おれは狂ってない、狂ってる真似をしてるだけなんだ」って言っても意味はないわけです。
それとちょっと似ているのですが、つまり「○○を信じているふりをする」ことと、「○○を信じている」ことって、実質上違いがなかったりする。いやむしろ、「○○を信じているふりをする」ことこそが「○○を信じている」ことであったりする。
で、このへんの話って、私が昔書いた記事では、ここhttp://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050407/p1にも関係しているような気がする。ただ、ここで私は

国民全員が、「本当は国家なんか幻想なんだけどこれはあった方がいいから信じておこう」と思っている、などという事態は、私には異様に思える。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050407/p1

て書いたけど、いまおもえばむしろ、その「異様な」事態、つまり「国民全員が、「本当は国家なんか幻想なんだけどこれはあった方がいいから信じておこう」と思っている、などという事態」、それこそが、むしろ国家というもののありかたなんじゃないか、という気がしますね。
あとは、ここも関係してそうですね。http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20040526

生徒や親の、この教師に対する反応はどうだったのでしょう。「ケシカラン反日的分子だ!非国民だ!」などと言う人は……もちろん少数でしょう。おそらく、大多数の生徒や親の反応は、こんなところではないでしょうか。「卒業式は生徒のものなのに、ほんとに迷惑な先生だね。君が代反対?そんなの、口パクでもなんでも、てきとうに歌っとけばいいじゃん。たかが歌なんだから。」

 多くの人が、君が代や日の丸に敬意の念を抱いているか、というと全然そんなことはないと思います。昔は祝日というと日の丸を玄関先に出している家がたくさんありましたが、今はそんなの見たことありません。カラオケで君が代を歌っている人も見たことない。つまり、みんな君が代なんてどうでもいいと思っている。そんな風潮を憂いているウヨや戦前オヤジの方々は多いでしょう。そうした焦りが、君が代日の丸強制、という時代錯誤的な動きにつながっている面もある。逆に言えば、「強制されなきゃ歌われないほど、君が代の権威が失墜している」ともいえる。というわけで、私の知り合いの中には「強制されればされるほどますますうっとおしがられて嫌われていくのだから、君が代強制の動きなど放っておけばいいのだ」と楽観視(?)している人もいます。

 が、どうも私はそこまで楽観的にもなれないのです。たしかにみんな、君が代なんて「たかが」歌、と思っているかもしれない。そこはウヨや戦前オヤジにとってはがゆいところなんだろう。が、それは逆に、どんなものでも「たかが」と思えてしまう人が多い、ということを示してもいる。てことは、どんなものでもやれと言われたらやる、という人が多いことでもある。「熱心に」やる人は、少ないかもしれない。それは、安心材料かもしれない(戦前オヤジにとっては不満材料)。しかし、「やらない人」は、圧倒的少数となり、しかもそれだけでなく、その少数者が、ヒステリックなまでに否定され、排除される。結局、圧倒的多数の人が、「そんなに嫌な顔もせずやる」。そしてこれ、まさにイラク人質の問題とリンクしているんじゃないだろうか。「ダサイことすんなよ、たかが歌なんだからどうだっていいじゃんかよ」と言う人は、君が代を「重視」しているわけではない。それどころかどっちかというとバカにしている。それと同じで、人質とその家族を非難した人々も、必ずしも自衛隊イラク派兵を「重視」しているわけではない。おそらく、実質的にはそんなに意味のあることをしているのではない、というのは分かっている人も多いだろう。ところが、いや、だからこそ、彼らはイラク派兵に反対しないのです。「いいじゃん、たかが自衛隊、たかが水くみに行くだけでしょう。アメリカがやれっていうんだったら、適当にやっとけばいいじゃん。」そして、その「たかが水くみ」に目くじらをたてて、キーキー言うダサい人たちは、たまらなく目障りなんでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20040526

前回言った「やわらかさ」って、こういうことなんじゃないか、と思います。
というわけで「実は庶民はしたたかです」オチ、「実は庶民は柔軟です」オチ、の話って、もういいよ、て思うのです。

*1:たしか高校の授業でこの話を聞いたときひどく面白く感じたおぼえがあります。