道路は交通の為の場所か? 2

 しかし、ちょっと逆の言い方を考えてみたいのです。「デモは交通の邪魔」と言うけど、そもそも「交通はデモの邪魔」という言い方だってできるわけです。道路というのは、交通の為の場所であって、主張の場所ではない、というのは当たり前のことなのだろうか。
 それに関して、森達也*1の「酒井隆志『自由論』を読む――自由の実践の規定に向けて――」という文章に以下のような記述がありました。ちょっと長くなってしまいますが、引用させていただきます。

■ 政治の私事化
話は変わりますが、今年はイラク戦争の影響で、あちこちで反戦デモ(最近はピース・ウォークなどと呼ばれている)が行われました。先日私もちょっと参加してみたが、そこで思ったことがあります。
デモは、大抵の場合、どこかの公園を集合場所とします。そこで演説だの声明文だのをひとしきり聞いた(聞き流した)後で、いよいよ街路に繰り出す、というのが一般的なパターンなのですが、しかし、この公道の行進というのが何とも不思議な感じなのです。デモなどの政治活動は、事前に届け出をすれば公道の使用が許可されることになっています。そこで連想されるのは、デモ=街路の占拠というイメージです。しかし、都心のデモというのは、いかに人数が多くても、歩いてよいのは一車線だけです。おかげで長い長い、そして細―い行列が、延々と続く格好になる。こうも細長いと、集団に取り巻かれて歩く、という感覚は全くなく、非常に心細い感じがします。
ここで気づかされるのは、事実上、デモ行進は完全に私事化(privatize)されているということです。政治学の常識的な見解では、政治的な意見は多元的であって、多様であることが政治、つまり利害や主義主張を戦わせたり、擦り合せていく営みを成り立たせているとされます。デモは、政党の街頭演説などと同じく、党派的な性格を持ち、それゆえ部分の利益や意見であり、反戦はひとつの政治的立場とされます。この≪反戦はひとつの政治的立場である≫という命題とリバタリアンの権原論を結びつけると、「特定の信念を持った人々がデモによって、それ以外の人々以上に政治に影響力をもつのも不当である」(森村 2001 : 124)という結論が導かれます。つまり、ものすごく単純化すれば、「叫ぶならカラオケボックスで」ということです。しかし、閉ざされた個室の中でのデモ行進の意味はないも同然です。もちろん、参加者各人の満足もあるでしょうが。いずれにせよ、この図式の中で、デモは明らかに私的なものの扱いを受けています。
他方、国や地方自治体の催しなどは、それが「みんなの」催しであるという理由で、いとも簡単に大掛かりな道路封鎖が正当化されています。市町村主催のお祭りはどこでもそうですが、必ずと言ってよいほど「パレード」があります。別にパレードなんか見たくない、交通規制は不当だ、などと言っても無駄です。パレードは「市民みんなのもの」だから、「市民」の誰も迷惑などこうむるはずがない……そんな想定がなされているかのようです。
また、この「みんなのもの」感を代表するもうひとつのものが、スポーツです。「みんなの」ヒーローであるスポーツ選手は「政治的」であってはならないし、特定の立場にコミットしてはならない(サッカー選手が試合中に反戦を訴えることは、Jリーグでは厳しく禁止されたそうです)。そして、「みんなの」ものであるスポーツのためには、公共のものを惜しみなく提供します。箱根駅伝のために鉄道会社が電車を止めたりすると、美談になります。しかし、駅伝は本当に「みんなのもの」なのでしょうか?デモ行進においては「迷惑をこうむる人の潜在的な存在」がデモ規制を正当化するのに対して、駅伝においてはそうした「迷惑をこうむる人」がなかなか視界に入ってこないのは不思議です。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8075/ukk030514.html
(3に続く)

*1:ドキュメンタリー作家とは同姓同名の方です。