デモ以外のなにものデモない

 乙幡啓子先生のDPZ特集、今回は「@nifty:デイリーポータルZ:知らない町の祭りに参加」。「凧揚げ合戦で有名な浜松まつり。部外者だけど関係者のふりをして参加した」ということなのだが、浜松まつりは凧揚げ合戦のほかに「御殿屋台引き回し」というのが目玉で、この中に「練り」と呼ばれるものが含まれているのだという。で、2ページ目にこの「練り」の写真が載っている(中段あたり)。これ、どう見てもデモにしか見えない。参加者がはっぴを着ていることを除けば。乙幡先生は「街中に近づくに従い、ざわざわと空気が震えてきた気がした」と書いている。いまさら言うまでもないわけだが、デモって祭りなわけだ。そして、ニポン人には祭りの血が、つまりデモの血が流れている。私は映像でしか見たことがないが、かつてはジグザグ・デモというようなものがあって、そういうものの掛け声は「わっしょいわっしょい」だったような気がする。
 さて、この浜松デモは、機動隊のものものしい警備があるわけでもなさそうだ。そして、相当な見物客もいる。さらには、祭りの交通規制に「迷惑だ」と言う人はあまりいないだろう。これらのこともいまさら言うまでもないわけだが。
 もちろん、広島の「えびす講まつり」のように、祭り参加者が「市民」に糾弾され、当局に取り締まられる、ということもある。wikipediaの「暴走族」にはこうある。

広島市では、暴走族が「えびす講祭り」を幹部卒業式と位置づけて、集団で練り歩くなどの示威活動を行って来た背景があり、祭り自体の治安悪化が問題となっていた。

 集団で練り歩くなどの示威活動!(笑) あと、このwikipediaで面白かったのは「暴走族の文化」の項目の以下の記述。

北海道等の豪雪地帯の暴走族は雪で暴走することが叶わない冬期に、特攻服を着て地下街で待ちあわせ、徒歩族と自称して地下街を集団でぐるぐる練り歩き周り一般の買い物客や店員を威圧する、傍迷惑な行為を行う者も居る。

 というところ。いろいろ工夫があるんだ。面白い。しかし、暴れ走るから暴走族なんだったら、むしろ「暴歩族」と言うべきなんじゃないだろうか。逆に言うと、デモというのは「暴歩行為」なんだ。こんどからそう言おうか。
 さて、「政治的な祭り*1」である「デモ」の文化の方だが、暴走族の文化と同様に衰退しつつある、というのはしつこく書いていることである。だが、「非政治的な祭り」の文化の方は、(これも確実に衰退しつつあることは明らかだが)浜松の例を見ても、まだ地方にはかろうじて残っているようだ。
 ところが、考えてみれば、「政治的な行為」としてのデモが批判されるときには、しばしば「あんなのは祭りでしかない」とか「騒ぐだけで何の意味もないじゃないか」などと言われる。要するに、デモは、政治であるがゆえに祭りから排除され、祭りであるがゆえに政治から排除される、というわけだ。あるいは、意味があるからと祭りから排除され、意味がないからと政治から排除される。つまり、政りが祭りから切り離された、ということか。いやむしろ、「政り」が「祭り」ではなくて「見世物」(スペクタクル)化した、と?*2
 「祭りとデモ」については、もう少し書きたいことがあるのだが、それは次回に回す。

*1:政り=祭りなのだから、これはある意味冗語なのだが。

*2:なんかありがちな話ですいません。