ペルーティエと革命的サンディカリスム

まえがき

数年前、ベンヤミンの『暴力批判論』の予習のいっかんとして、ゼネストを論じた、ソレルの『暴力論』の部分訳をこのブログにのせました*1
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20080107/1199728699
ところで、ソレルは、19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスで展開された革命的サンディカリスムの代表的理論家、などと言われたりするようです。しかし、実際はソレルは、サンディカリスム運動の外にいたいち思想家であるにすぎませんでした。そして、ゼネスト論は、革命的サンディカリスムの活動家たちが運動の中でつむぎだしたものなのですが、ソレルはその影響を受け、それに、ベルクソンニーチェの思想を混ぜて『暴力論』を書いたわけです。逆に、ソレルから革命的サンディカリスムの運動への影響はほとんどなかったわけで、にもかかわらず、「代表的理論家」とされるのはおかしい。
革命的サンディカリスム運動の初期の中心人物が、フェルナン・ペルーティエ(1868-1901)です。しかし彼は、ソレルにくらべて日本ではあまり知られていません。noizさんは、労働争議が暴力であるときで、こう書いています。

さいわい、ソレルやベンヤミンの暴力論の翻訳は日本にもある。だが、そもそもの提議をしたひとりであるペルーティエの翻訳はない。活動家のつたないプロパガンダであるからだろうか。

というわけで、上でリンクがはられている、ペルーティエの重要なゼネスト論「Qu’est-ce que la Grève générale ?(ゼネストとは何か?)」の日本語訳を作ってみました。
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20100312/

↑ペルーティエ

ペルーティエと革命的サンディカリスム

さて、フェルナン・ペルーティエは、「ゼネストとは何か?」というこのパンフレットを書いた1895年に、28歳で労働取引所連盟の書記長となり、革命的サンディカリスムの指導的人物として活躍しますが、1901年に33歳で死亡します。このへんのところについて、大澤正道の『アナキズム思想史』(現代思潮社、1967年)での簡潔な説明を引用しておきます。

1884年に公布された法律(……)によって〔フランスで〕労働団体ははじめて合法的地位を獲得し、パリをはじめおもな都市に労働取引所(ブルス・デュ・トラヴァーユ)がつくられた(……)。この労働取引所というのは日本でいえば職業紹介所のような組織で、職をもとめる労働者に仕事や賃金に関する情報を収集し、職場をあっせんし、そのために旅費や宿泊の施設を提供、あるいは職業教育を施すなど、労働市場の周旋機関、教育機関である。
 労働取引所は各都市の援助をうけて活動したのだが、日本のようにお役所化せず、労働者の溜りとなり、また地域的な労働者の組織の中核体となっていった。そして、1892年には各地の取引所の連合体、ブルス連盟〔=労働取引所連盟〕がつくられ、政党に従属する建前のゲード派労組にたいする、労働者自身の組合としてサンジカリズム的色彩をつよめてゆく。1895年、フェルナン・ペルチエが同盟の書記になるに及んで、この傾向はますますつのるのである。
 ペルチエは1868年の生まれだから、コンミューヌ当時は三才の幼児だったわけだが、フランスにおける労働運動復活の波にのって頭角をあらわした新人で、はじめブルース派の組合に属していたが、ゼネラルストライキの思想に共鳴し、1893年にパリに移って以後はジャン・ブラーヴらアナキストとの交友をふかめ、熱心なゼネスト論者となった。かれはブルス連盟の発展に全力をかたむけ、1901年、33才の若さで死んでいる。(249-250ページ)

上の「政党に従属する建前のゲード派労組」のゲードとは、フランス労働党をひきいるジュール・ゲードJules Guesde(1845-1922)のことです。
↓ゲード

ゲードの労働党は、1880年代は、「マルクス主義をきわめて図式的に理解した階級闘争の理論を主張し*2」武力によるブルジョワ国家の転覆、権力奪取を説いていましたが、1890年代に入ると、一転して議会主義にむかいました。いずれにせよ、彼らにとって狭義の「政治」が重要であり、労働運動、労働組合は、党がおこなう政治活動の「道具」「手段」としかみなされなかったわけです。『ゼネストとは何か?』でも、ゲード派はなんども批判されています。
革命的サンディカリスムは、ゲード派の権威主義・政治主義に反発した、アナキスト、ブランキスト、アルマニスト*3などの党派、また無党派の活動家(ミリタン)が、ゼネストという共通の行動目標をみいだすことによってひとつの運動として生成したものだ、と考えられています。
ペルーティエは父親が郵便局につとめる保守的な風土のサン=ナゼールのコレージュ(高等中学校)を出、バカロレア(大学入学資格試験)に失敗したあと、19歳でジャーナリストをこころざします。ペルーティエは1889年、急進共和派から議会選挙に出たアリスティード・ブリアンAristide Briandを応援してかっぱつな選挙活動をおこないますがブリアンは敗北(ちなみにブリアンはその後社会党の代議士となり政界を上昇します。ペルーティエやゲードとちがってwikipedia日本版にものっています。1909年に首相、内相を兼ね、1910年には鉄道の大ストライキを鎮圧したということです*4)。
↓(後年の)ブリアン

1892年9月、ペルーティエは、ブルース派(ゲードの労働党から分裂してできた、ポール・ブルースPaul brousseを中心とする改良主義的なポシビリストの組織)が主催して、トゥールでおこなわれた社会主義者の地方大会に、サン=ナゼールとナントの労働取引所からの代表として参加し、そこで、ゼネラル・ストライキを提唱しました。この大会にペルーティエは実は労働党員として参加していたのですが、同年翌月激しくゲードを批判し、労働党を脱党します。
1893年初頭、ペルーティエはパリに移住し(これは、サン=ナゼールの副知事が、めざわりだったペルーティエを追放するために、ペルーティエの父親の転勤を画策した結果だということです*5アナキストの影響をうけます。1893年7月6日、政府は、1884年労働組合法をみとめない労働組合が存在することを理由に、パリの労働取引所を閉鎖するという挙に出ました。7月3日から5日にかけて、労働者は労働取引所にたてこもり、軍隊を出動させた政府との間に衝突がおこりました*6
1893年7月14日、パリで、労働取引所連盟が主催する第一回労働組合大会が開催されます。この大会は、それまでの労働党(ゲード派)系の全国労働組合連盟主催ではない、労働取引所連盟独自開催の大会であり、そのいみで、労働取引所連盟が「労働党に公然と対立する道にふみ出す、決定的な第一歩」となった、ということです*7。また、谷川稔によると、この大会開催は、とくにアルマニストがおおきな役割をはたしたということです*8。この大会では、直前のパリ労働取引所閉鎖に抗議して「即時抗議ゼネストを!」という声があがりますが、ゼネスト即時実施という方針は少数にとどまり、大会は、ゼネストを原則として支持するということを満場一致で採決し、ゼネスト組織委員会(のちにゼネスト宣伝委員会に改称)が設立されました。
1894年9月、ナントで、労働取引所連盟が主催する第二回労働組合大会が開催されます。これは、おなじ年にナントで開催する予定だった労働党(ゲード派)系の労働組合大会に場所と日程をぶつけて予定され、ゲード派が押しきられるかたちで、この大会は、ゲード派系の全国労働組合連盟と、労働取引所連盟の合同主催で開催されます。ここで、ペルーティエ、ブリアン、ジラールらがゼネスト論を展開しゲード派を論破。ゲード派は会場から退場したということです。ゼネスト原則は65対37、棄権9で可決されました。

1895年、ナント大会の翌年、ペルーティエは労働取引所連盟の書記長となります。『ゼネストとは何か?』もこのころかかれました。そのわずか6年後の1901年、ペルーティエは長年くるしんだ結核のため33才のわかさで死にました。

*1:そのご、岩波文庫から新訳が出たので、あまり意味がなくなってしまいましたが。

*2:喜安43ページ

*3:「元コミュナールのジャン・アルマーヌ(1843-135)やJ・B・クレマン(1836-1903)を指導者とするPOSR(革命的社会主義労働者党)に結集する社会主義者たち。1890年に労働者自身による革命(労働者主義)を旗印に、P・ブルースの率いるポシビリストから分離、連合主義にもとづく分権的社会主義者を、労働組合運動を機軸としたゼネスト自治体革新運動によって実現しようとした。労働取引所連盟とCGTの結成に多大な貢献をなした、サンディカリスムの先駆的潮流であると同時に、1905年のフランス社会党の結成にも与っているという、90年代のきわめてユニークな党派である。」(谷川稔『フランス社会運動史──アソシアシオンとサンディカリスム──』山川出版社、1983年、32-3ページ)

*4:喜安36ページ

*5:喜安80ページ

*6:喜安93ページ

*7:喜安98ページ

*8:谷川193ページ