ジョルジュ・ソレル『暴力論』第5章 政治的ゼネスト 第3節(抄訳)

A. 政治屋に抱かれた妬み*1

いまや我々は、政治的ゼネストと結びついた諸観念の分析においてもっと先に進み、まずはじめに、階級の概念がどうなったかを調べてみることにしよう。

階級は、その成員が資本主義的生産において占めている位置によっては、もはや定義されない。人々は、富者の集団と貧者の集団、という古い区別に立ち戻っている。階級は、古い社会主義者たちの目にはそのように映っている。彼らは、現在の富の分配の不公正を改良する手段を探している。社会的カトリック信者たちは、同じ立場にたって、慈善によってだけでなく、資本主義経済によって生じた痛みを軽減するためのたくさんの仕組みによって、貧しいものたちの境遇を改善しようとしている。今日、ジョレスを預言者として賞賛しているような人々は、いまだにこのような観点から考察しているように見える。ジョレスは、ビュイッソン〔フェルディナン・ビュイッソン>WikiPedia〕を、その良心に訴えかけて社会主義に改宗させようとしたそうである。そして、この二人の占い師は、社会の誤りを正す方法について、まったく珍妙な議論を行ったそうである。大衆は、自分たちが苦しんでいるのは、暴力と無知と悪意に満ちた過去の結果として不公正をこうむっているからだと信じている。彼らは、彼らの不幸を減らしてくれる指導者の天分を信頼している。彼らは、もし自由であったなら、民主主義が、有害なヒエラルキーを有益なヒエラルキーに置き換えてくれると信じている。

そうした甘い幻想の中に民を眠らせておく指導者たちは、まったく違う観点から世界を見ている。彼らが現在の社会機構に反抗するのは、それが彼らの野望の障害となる場合である。彼らは、階級の存在に反抗するよりもむしろ、年長者が獲得した地位を得られそうにないということに反抗する。いつの日か、彼らが国家の聖域や、サロンや、悪所に十分入り込んだときには、たいてい彼らは革命派であることを止め、進化について訳知りがおに語りはじめるのだ。

2

貧者の階級において人々が遭遇する反抗の感情は、それ以来、醜い妬みによって彩られるのである。我々の民主的新聞は、さまざまな技術によって、その感情を彼らの思惟の中にとどめさせるようにする。彼らの顧客を愚民化し、自分たちの新聞につなぎとめておくためには、それがもっともよい手段だからである。彼らは、富者の社会に生じたスキャンダルを掘り起こす。彼らは、名門の家族に何か恥ずべきことが生じたのを見たとたんに、読者が残酷な喜びを感じるように火をくべる。その臆面のなさには驚かされざるをえないのだが、彼らは、そうすることで、最高の道徳に奉仕しているのだと主張している。彼らの言うところでは、その道徳は、貧者の階級の幸福と自由と同様、彼らの気にかかるというのだ!しかしおそらく、彼らの行動の唯一の動機は、自分たちの利益である。*2

妬みは、とりわけ受動的な存在に固有であるように思われる感情である。指導者たちは能動的な感情を持っている。彼らは、自分たちの歩みを阻むものたちを斥けるあらゆる手段を用いるが、彼らにおいて妬みは、最も羨まれる立場に是が非でも立ちたい、という渇望に変質する。政治においては、スポーツにおけるのと同様、仮借がない。あらゆるジャンルの競争において、競争者たちが、どんなに厚かましく都合の悪い運命を訂正しているか、ということは、毎日経験が教えてくれる。

3

指令を受けた大衆は、自らの境遇を改善するために役立ちうる手段について、非常にあいまいで、驚くほど素朴な概念しかもっていない。デマゴーグたちは彼らに、金持ちたちを困らせるためのもっともよい手段は、国家の力を用いることだ、とたやすく信じさせる。こうして、人々は妬みから復讐心に移行するのだが、彼らは、復讐心が、とりわけ弱者において途方もない力を持つ感情であることを知っている。古代ギリシアの都市と中世イタリアの共和国の歴史を見ると、富者にとってきわめて過酷な、そしてそれらの国の政府を転覆させることに少なからず貢献した、多くの税法があった。15世紀、アエネアス・シルヴィウス(後の教皇ピウス2世〔>WikiPedia〕)は、ドイツの商業都市の目覚しい繁栄と、そこでブルジョアたちが、迫害されてきたイタリアのブルジョアと違って大いに自由を享受していることを、驚きをもって記している。*3現代の社会政策について詳しく見てみるならば、そこに、いやそこにもまた、妬みと復讐心の諸観念が刻み込まれていることがわかるだろう。多くの規制は、労働者の状況を改善させるというよりも、むしろ雇用者たちをうんざりさせる手段を与えることを目的としている。社会法の適用は、少なくともフランスにおいては、非常に特異なかたちで不平等に扱われた。司法による訴追は、政治状況……あるいは財政状況に依存する。ある国で聖職者支持者たちが最も弱い立場にあるときでも、フリーメーソンの雇用者たちに復習するための厳しい規制を推奨する声は絶えないのである。

指導者たちはそうした策略の中にあらゆる種類の利点を見出す。彼らは富者たちを恐れさせ、自分たちの個人的利益のために富者たちから搾取する。彼らは財産の特権に対して誰よりも大きな声でわめきたて、しかも財産の特権から得られるあらゆる喜びを得ることができる。人々の邪悪な本能と愚かさを利用することによって、彼らは奇妙なパラドクスを実現する。つまり、人民に、民主主義的平等という名目で条件の不平等に拍手喝さいさせるのである。復習の観念が持っている、あらゆる理性を消し去ってしまう途方もない力のことを考慮しないかぎり、アテネの時代から、現代のニューヨークに至るまで、デマゴーグがなぜ成功したかを理解することは不可能だろう。こうしたデマゴーグたちのおそるべき影響力を消滅させるために、社会主義がプロレタリア・ゼネストの概念を普及させるために用いる方法よりもよい方法があるとは、私には思えない。この方法は、人々の魂の奥底に、巨大な闘争の条件とつりあった崇高sublimeの感情を目覚めさせる。悪意によって妬みを満足させるという欲求は、最低のものとされる。自由な人間の誇りは最高のものとなり、労働者は、野心的で享楽を渇望する指導者たちのペテンから守られるのである。

B. ヒロイズムの源泉としての戦争と略奪としての戦争

二つのゼネスト(あるいは二つの社会主義)の間にある大きな違いは、社会闘争と戦争を比較することによってさらに明確なものとなる。実際、戦争は、対立する二つのシステムを生むことができる。その結果、戦争については、同じく明白な事実に依拠しながら、まったく矛盾したことが言えるのである。戦争は、高貴な側面から考察することができる。すなわち、詩人たちが行ったように考察することができる。詩人たちは、特に名高い軍隊を賞賛しながら、戦争について考察した。その方法で考察を進めることによって、我々は以下のことを見出す。

1

軍人の職業が他のいかなる職業とも比較できない、という考え──その職業が、それに従事する人間を、生の共通の条件において優越するカテゴリーに置くということ。歴史が、軍人の冒険の上に全面的に立脚し、その結果、経済が軍人を養うためだけに存在するようになるということ。

2

栄光gloireの感情。ルナン〔エルネスト・ルナン>WikiPedia〕はこれを、人間の才能が作り出した最も特異で最も力強いものと正当にもみなした。またそれは、歴史上で比類のない価値を持つとみなされていた。*4

3

大戦争のなかで力試しをし、試練(これによって軍職は優越性を与えられる)を自らに課し、生命を賭けて栄光を獲得したいという、熱烈な欲望。

戦争のこの概念が古代ギリシアで持っていた役割を読者に理解してもらうためには、これらの性格についての注意を読者に長々と促すには及ばないだろう。古代の歴史は、英雄主義的に考えられた戦争によって完全に支配されていた。ギリシアの共和国の諸制度は、もともとは、市民軍の組織に基礎をおいていた。ギリシアの技術は、城砦建設において絶頂をむかえた。哲学者たちは、若者のうちに英雄の伝統を保つことができる教育以外、考えなかった。彼らが音楽の規制に熱心だったのは、彼らが、英雄の訓育にふさわしくない感情を発展させることを望んでいなかったからだ。さまざまな社会的ユートピアは、ホメロス風軍人の中核を諸都市において維持するという観点から作られた。現代でも、自由の戦争は、古代ギリシアの戦争よりも観念において劣っているということはほとんどない。

戦争にはもう一つの別の側面があるが、それはもはやいかなる高貴な性格をももたず、また、平和主義者が強調するのは常に戦争のこの側面である。 *5 戦争はもはやその目的を自らのうちに持たない。戦争の目的は、政治家たちの野心を満足させてやることとなる。外国を征服しなければならないのは、物質的で直接的な大きな利益を獲得するためである。また、戦勝の期間国を導いた政党には勝利の際に優位性が与えられ、その党員たちが恩恵を受けられる、ということでなくてはならない。最後に、大勝利の栄光が市民を陶酔させ、彼らが、自分たちに要求された犠牲の価値を十分に評価することをやめ、未来に対する熱狂的な構想に向かう、ということが期待される。こうした精神状態の影響によって、人民は、政府がその組織を不当な仕方で発展させることを簡単に許してしまう。したがって、国外の征服はすべて、権力を保持する政党によってなされた国内の征服を必然的帰結として伴うとみなしうるのである。

サンディカリスムのゼネストは、戦争の第一のシステムとのきわめて大きな類似性を示す。プロレタリアートは、国民の他の部分と自らをはっきり分離し、自らを歴史の偉大な動力とみなし、あらゆる社会的構想を闘争の構想に従属させることによって、戦争のために組織される。彼らは、自らの歴史的役割に結びついた栄光、また、戦闘的態度の英雄主義についてのきわめて明確な感情を持つ。彼らは、自らの価値がそこで完全に測られるような決定的経験を熱望する。彼らはいかなる征服をも追及せず、自分たちの勝利を利用するための計画を作ることもまったくない。彼らは生産の領域から資本主義者たちを追放し、次いで、資本主義によって作られた作業所の中に居場所を取り戻すことを考える。

国家の廃止の意志を表明することによって、この〔プロレタリア〕ゼネストは、征服の物質的利益に無関心であることを、きわめて明白に示している。実際、国家は、征服戦争の組織者であり、戦果の分配者であり、支配的集団(社会全体によって支えられている企業の総体から利益を得ている集団)にとっての存在理由なのである。

政治屋たちは、別の観点に立っている。彼らは、外交官たちが国際問題について議論するのとまったく同じ仕方で、社会的紛争について議論する。紛争における文字通り軍事的な機関には、彼らはほとんど関心をもたない。彼らは戦闘員を道具としか見ない。プロレタリアートは彼らの軍隊である。彼らはこの軍隊を愛するが、その愛は、植民地の行政官が、多くの黒人を好き勝手にさせてくれる集団を愛するのと同じ愛である。彼らはこの軍隊を訓練することに専念する。というのも、彼らは、自分たちに国家をゆだねてくれる大戦争において一刻も早く勝利したいとあせっているからだ。人々は、次の略奪に期待を持たせることによって、憎しみの感情に訴えることによって、そしてまた、ささやかな恩寵(彼らには何らかの政治的位置の分け前が与えられる)によって、傭兵たちの情熱を煽ったものだが、政治屋たちは、それと同じ仕方で、プロレタリアートの情熱を煽るのである。

しかし、マルクス1873年に言ったように、彼らにとってプロレタリアート大砲の餌食以外の何者でもないのである。*6

彼らのあらゆる構想の基礎には、国家の強化ということがある。政治屋たちは、彼らの現在の組織のうちに、強大な、集中された、規律化された権力をすでに準備している。その権力は、反対派の批判にわずらわされることもなく、人々に沈黙を強いることができ、自分たちの嘘を法令として布告するようになるだろう。

C プロレタリア独裁とその歴史的先行者

(前略)
これらすべてのことはまったく単純なことである。政治的ゼネストはまったく似たような出来事を生み出しながら発展していくだろう。このストライキ〔政治的ゼネスト〕が成功するためには、プロレタリアートが、政治委員の指導を受けた組合の中に大挙して入ってくること、そうして、統治権を得ようとする人々に支配された完全に従属的な組織が存在すること、さらに、国家の人員のちょっとした人事異動をすること、が必要である。作り物の国家の組織は、革命の時期よりももっと完全なものでなければならない。というのも、強制力forceによる国家の征服は、かつてのようにたやすいものとは思えないからである。しかし、その原理は同じである。議会体制がもたらす新しい手段によって、権威の移譲は今日ではより完全な仕方で行われるのであり、プロレタリアートは公的組合の中に完全に組み込まれているのだから、社会革命によってすばらしい隷属の到来が見られる、とさえ考えられる。

*1:訳注:第1節「ヒロイズムの源泉としての戦争と略奪としての戦争」、第2節「プロレタリア独裁とその歴史的先行者」は省略。

*2:ついでにここで、社会改良派政策の機関紙としてきわめて大きな役割を果たしている『プティ・パリジャン』紙が、ザクセン皇女と魅力的な家庭教師ジロンのスキャンダル報道に情熱を燃やした、ということも記しておこう。この新聞は、人民の徳育ということに非常に気を配っていたのだが、裏切られた夫が妻を受け入れることをかたくなに拒む、ということが理解できなかったようだ。1906年の9月14日、同紙は、皇女が「世俗的道徳と手を切った」のだと言った。このことから、『プティ・パリジャン』の道徳とはありふれたものではありえない、と結論できる。

*3:ジャンセン『ドイツと改革』フランス語訳、第一巻、361ページ。

*4:ルナン『イスラエルの民の歴史』第4巻、199-200ページ

*5:戦争の二つの側面の区別は、プルードンの『戦争と平和』について書物の基礎である。

*6:社会民主同盟』15ページ。マルクスは論敵がボナパルティストの実践からアイデアを得ていることを論難している。