私と阪神

 大昔ジョークで作った「インターナショナル(六甲おろし風)」です。


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以前はmidiファイルをホームページに載せていたのですが、いつのまにかファイルが消えていました。というわけでしかたなく作り直しました。「六甲おろし」と「インターナショナル」は、まあ、どっちもある意味軍歌なわけで、似ているのも当然ではありますが、しかし結構似ている。
 私は30年来の阪神ファンです。ちょっと長い話になりますが、私はもともと野球を含めたスポーツ全般が苦手で、そのことに引け目を感じていました*1。私の子どもの頃、つまり1970年代は、まだ巨人大鵬卵焼きの時代が続いていましたが、少なくとも私が育った山梨では、野球人気は絶大なもので、野球の知識と能力は、「男子」の絶対的基礎教養のようなものでした。ところが、私はプロ野球選手の名前もよく知らないし、ルールも細かいところはよく分からないので、友達との間で野球の話に乗ることができず、コンプレックスを感じていました。能力についてはもっと壊滅的で、全般的にいわゆる「運動」が苦手だった私は、運動系の遊びではいつも「みそっかす」でした。当時は、公園でキャッチボールとか、野球の試合とか、盛んでしたが(今ではほとんど禁止されてるようですが)そういうものに混ざった記憶はほとんどありません。いわゆる「女投げ」や、バットがボールに当たらない、そういうことで笑われるのが嫌でした。しかし、学校で強制的に参加させられた「体育祭」というものが恐怖でした。たしか中学のとき、クラス対抗で野球をした(させられた)のです。その時、あまりに野球が下手な私を心配して、クラスメイトに個人的練習に連れ出されたことがあります。結果、キャッチボールしただけで、すべての指を突き指しました。また、その時友人に「お前……なんでそんなに肩が弱いの?」と言われたのを今でも覚えています。「なんで」って言われても……。彼は悪気はなかったのかもしれませんが、不思議な生き物を見るような表情で言われたので、いたく傷つきました。
 高校野球も興味がなかったです。これも前書きましたが、当時は強制的に自分の高校の野球の試合の応援に参加させられ、そのための「応援練習」というのにも強制的に参加させられ、嫌でした。屋上に全員集合させられ、前に並んだ長ランにボンタンの怖い応援団に、まず「団旗に対してぇ〜〜礼ッ!!」とお辞儀をさせられます。その後は「太鼓に対してぇ〜〜礼ッ!!」ドンドンドンドン、です。拳を突き上げるような型をやらされながら校歌を歌わされたりました。その間、怖い応援団員が風紀委員となり制服のチェックをします。引きずるような長いスカートを履いて紫のはちまきをした女性応援団員が、「グランドに、勝利の花を、咲かせましょう」と言いながら、舞をまったりもしていました。今思えば、笑えるのですが、当時は嫌で嫌でたまりませんでした。
 野球以外のスポーツも嫌いで、嫌いになった原因は明らかに体育の授業です。サッカーとかバレーボールが特に嫌いでした。バレーボールは、必ずサーブが回ってきます。すると当然私は一本も入らない。そうすると、味方の友人から非難のヤジが飛んでくるのです。高校のとき体育の授業で、「てめえ!人間か!」とか、「この、身体障害者!」と言われたことは決して忘れません。後者については、初めて書くのですが、当時「こう言われて嫌だと思うということは、私自身も障害者を差別しているということではないか」と思いました。
 さて、今では信じられませんが、当時は毎日テレビでプロ野球の中継があり、しかもほとんどすべて巨人戦でした(たしかNHKだけ他のもやってた)。どう考えてもおかしいですが、マスコミが特定の球団、特定の政党を贔屓する、というのは昔からです。そういうこともあって、山梨は巨人ファンが多く、学校でも子どもたちはほとんどみんな当然のように巨人ファンでした。一方父親は典型的なアンチ巨人で、自然と私もそうなりました。家でテレビで野球中継を見ることもありましたが、私も見ていました。それは、そんなに嫌ではありませんでした。もちろん巨人戦しかやらないわけですが、常に相手チームを応援していました。アンチ巨人あるあるですが、巨人の選手についてはある程度詳しくなってしまいました。憎たらしい江川が打たれて負けると大喜びしたりもしてました。今でいうと菅野ですね。というわけで、私は野球そのものが嫌い、というわけではなく、少なくとも観ることはそんなに嫌いではなかったのでした。しかし、当時の私は、自分が「野球音痴」である、という自覚を持ち、そのことに引け目を感じながら過ごしていました。
 大学に入ると、「周りのみんなが巨人ファンで野球話が男子の基礎教養」とか「スポーツができることが「人間」の条件」、みたいな環境からは解放されました。大学に入ったばかりのとき、たしか東京出身の先輩が、野球で打ったらどっちの方向に走るかも知らない、ということを平然と話しているのを聞いて、驚愕した覚えがあります。そして私が大学に入った年、1985年に、阪神が優勝しました。しかし、当時は、「野球音痴」であることが恥ずかしい、というような意識から解放された時期だったからか、社会現象ともなったこの優勝にもほとんど関心を持っていませんでした。優勝が決まったとき、たしかクラスの飲み会で、誰かがラジオを居酒屋に持ち込んで「阪神優勝決まったらしい」と言っていたことだけは覚えています(当然当時は携帯もスマホもありません)。
 その後、阪神は長い低迷期、いわゆる暗黒時代に入るのですが、一瞬だけちょっと強かった時期があります。1992年、それまで5年間で最下位4度と低迷していた阪神は、終盤まで優勝争いをしました。亀山努新庄剛志(当時は剛)が活躍したいわゆる「亀新フィーバー」の年ですね。このとき私は大学院生でしたが、大学のときなかったテレビが部屋にあった、ということも関係すると思いますが、今までしたことのない、特定のチームを応援しながら野球を見る、ということをはじめました。このころは、スポーツコンプレッスから更に癒えて、「こんな野球音痴の私でも別に野球ファンになってもいいのではないか」と意識が変わってきたような気がします。当時は単なるぼんやりとしたアンチ巨人から脱却し特定球団を応援することを、「アンガージュマン」だ、と思っていました(笑)。特定球団がなぜ阪神だったか、といえば、亀新フィーバーがきっかけというだけではなく、関東で生まれ育ちましたがルーツが和歌山なので、なんとなく自分のルーツである関西に対する憧れもあったかもしれません。和歌山なら南海だろ、というツッコミを受けそうですが(父親も子どものころは南海ファンだったらしいです)。当時の阪神の選手で私が特に好きだったのは新庄でした。体育会的なものと対極的なイメージ(実際はどうかわかりませんが)ということもありましたが、特に、捕殺が本当にかっこよかった。レーザービームといえば、私にとってはイチローではなく新庄です。
 ところが、その後、阪神は再び長い低迷期に入ります。このころになると、私にとって「阪神ファン」は自虐的な意味を持ってきます。でも、はっきりいって自虐を楽しんでいた面はありますね。このころ、たまたま本屋でみつけて、スポーツライター玉木正之の『タイガースへの鎮魂歌(レクイエム) 』という本を読みました(初版は1988年ですが私が買ったのは1991年刊の河出文庫版)この本は、私が捻くれ自虐観念的阪神ファンに自覚的になったきっかけの一つです。当時、フランス哲学の世界での「巨人大鵬卵焼き」は、「デリダドゥルーズフーコー焼き」でした。というわけで、優勝したのにその後長い暗黒期に陥った、という点で、阪神サルトルを重ね合わせていた面もあると思います。
 大型扇風機ディアー、神のお告げグリーンウェル、とか色々ありましたが、そんなこんなでしばらく阪神ファンを続けていたら、監督が野村になりました。これは違和感がありましたが、やっぱり阪神は最下位の連続。このころはじめたホームページでは、くだらない阪神のネタをしょっちゅう書いていたのですが、そのときのweb日記のタイトルは「猿虎日記」、そしていまでも使っているハンドルネーム、sarutoraは、サルトルと虎(タイガース)をくっつけたものです。

↓昔のサイトのくだらない阪神ネタ

sarutora.g2.xrea.com


 ところが、実は2002年から、私は阪神ファンをやめてしまったのです。2001年、新庄が退団しメジャーリーグに行ってしまったのも大きいですが、決定的なのは2002年から星野仙一阪神の監督になったことでした。有名な暴力パワハラ男の星野って、私にとっては新庄の対極的存在、スポーツの嫌なところの象徴、あまりに嫌すぎて、もうこれは阪神ファンである理由はなくなったしまったと思って、この年から私は阪神の試合どころが野球の試合自体一切見なくなってしまいました*2。ただ今思えば、このころテレビの野球中継が減って、関東で阪神戦を見ることが難しくなった、というのもあるかもしれない。調べたら、G+で巨人戦をやるようになって日テレで巨人戦をやらなくなった2004年ごろからテレビの野球中継が減ったという説があるようで、そうかもしれない。というわけで、2003年、2005年の優勝も、1985年の優勝と同じく、私はほぼ無関心なままやりすごしたのです。
 それが、再び阪神戦を見るようになったのは、2014年か2015年ころ、和田監督時代の最後のほうです。このころなぜまた阪神に関心を持ちはじめたのかきっかけはおぼえていませんが、星野に「血の入れ替え(これも気持ちの悪い言葉ですが)」をされて「強くなってしまった」阪神への嫌悪感がそろそろ薄れて来た時期だったから、ということなのかもしれません。また、ネットで阪神戦が見られるサービス「虎テレ」で、関東でも比較的阪神戦を多く見られるようになったことも大きいかもしれない。当時は藤浪がかっこいいと思っていました。そして金本政権、矢野政権、再びけっこう普通の阪神ファンになってきました。いまは大山ファンですね。新庄と全然タイプが違いますが。

 はい、いつも通りオチはありません。

*1:この話、このブログでかつて何度もしたような気がする。

*2:当時「しろはた」というwebサイトをやっていた作家の本田透氏も同じようなことを言っていて、いたく共感しました。