もう、ほんとはみんな好きなんでしょ?

 ピピさんのプログで、上村忠夫氏の『歴史的理性の批判のために』が紹介されていました。ちょうど、高橋哲哉氏が、上村忠夫氏の高橋批判に反論した文章が収録されている、『証言のポリティクス』(未来社)を読んだばかりだったので、タイムリーでした(『歴史的理性の批判のために』も言及されています)。高橋氏の反論は、大変わかりやすく、それを読む限り高橋氏の主張は納得できる、と思ったのですが、その内容についてはそのうち書きたいと思います(てホントか?) ただ、議論の本筋とは直接関係ないところで面白い記述がありましたので引用します。

 数年前に『週刊読書人』紙上でサイードの邦訳『知識人とは何か』についての上村の書評を読んだとき、意外な印象を受けたことを覚えている。サイードのこの知識人論を読んで「全然おもしろくない。いまさらサルトルはないんじゃないか」という若い友人に対して、上村が思わず「サルトルでどうしていけないんだ」と、声を荒げて問い返したというエピソードが冒頭に書かれ、その背景として、六〇年安保の年に大学に入った上村が、この「アンガージュマン」の哲学者を自分たちの「同時代人」と受け止め、「みずからが状況のうちにあるということの倫理=政治的な意味を確認してきた」という事情が紹介されていたからである。
 そのとき、サイードの知識人論に「アンガージュマン」の哲学者の面影を認め、「みずからが状況のうちにあるということの倫理=政治的な意味」を再考していたであろう上村が、今日の歴史物語の抗争の中で、正当性をめぐる「判断」については「局外中立」を宣言し、「成りゆきにゆだねたい」と表明することになろうとは、これまた以外なことだった。状況のうちにありながら、抗争しあう語りの正当性の判断を「成りゆきまかせ」にすることが、どうして可能なのか? 可能だとすれば、それはすでに状況のうちにいないからではないのか?」(高橋哲哉『証言のポリティクス』155-6ページ)

 私も、サイードの知識人論を読んだとき、「まんまサルトルやん」と思いはしたのですが*1、それにしても、上村さんも、高橋さんも、みんなどうしちゃったんですか、恥ずかしげもなくまるでサルトルみたいなこと言い出しちゃって……こっちが赤面してしまいます。なんて。

 ちなみに、サルトルとサイードの関係については、「哲学クロニクル」のこちらの記事(サイードが晩年のサルトルと遭遇した時のことを書いた文章の翻訳)も、これはこれで大変面白いです。
その1http://www.melma.com/mag/58/m00026258/a00000116.html
その2http://www.melma.com/mag/58/m00026258/a00000117.html
その3http://www.melma.com/mag/58/m00026258/a00000120.html
その4http://www.melma.com/mag/58/m00026258/a00000123.html

*1:ちなみに、邦訳解説では、姜尚中氏はサルトルのサの字も出していません。ま、別にいいんですけどね……。なんて。

サルトルとサイード

 ただ、上の文章を全体的に見ると、もうろくしたサルトルに失望するサイード、としか読めないのですが、「その1」にも書いているように、サイードにとってサルトルは非常に重要な存在だったことも事実です。

わたしの世代にとってはサルトルはつねに二十世紀の偉大なインテリの一人であり、サルトルの洞察と知的な才能は、その当時のすべての進歩的な主張に役立ったものである。

それでもサルトルの理論は無謬であるとも、予言的な性格のものとも思われなかった。反対にサルトルが状況を理解しようとした努力と、必要であれば政治的な主張に連帯を表明しようとした態度が称えられたのである。サルトルはときにあやまちをおかしたり、誇張したりする傾向があることが指摘されたが、韜晦したり、はぐらかしたりするようなことはなかった。わたしはサルトルの書いたほとんどどの文章にもみられる大胆さ、闊達さ、寛容さにうたれる。

 そのことは、「現代思想」03年11月臨時増刊「総特集・サイード」での姜尚中鵜飼哲の対談でも話題になっています。手元に本がないので、かつて私のbbsでTKDさんが引用してくれたものを再録させていただきます。

鵜飼「サイードの教養が、クラッシック音楽も含めたヨーロッパのハイ・カルチャーにその根底があることは事実です。サイードの最初の知識人のモデルはサルトルでした。」
姜「僕もそう思います。」
鵜飼「選択する知識人像という定式にはサルトル的響きがありますが、しかしそこから亡命、故郷喪失ということを単に自分の思想基盤とするだけではなくて、自分とは違う、もっとすさまじい形で故郷喪失を強いられた人々とつながる可能性の問題を追及していった時に出てくる知識人像とは必ずしも古典的なものではありません。」
姜「同感です。サイードの位置づけは確かに難しくて、根底にはやはりまずサルトルがあると思います。」