暴力

 なんかしょっちゅう同じ話題でアレなんですが http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050108#p1 で引用した小林正弥氏のように(『非戦の哲学』)「旧世紀」の「マルクス主義的運動」は、「暴力的・闘争的側面を持っていた」とか「暗く闘争に彩られ」ていた、というような意見は、ほんとうによく聞かれます。ほんのちょっとでも「左翼」や「マルクス主義」や「運動」について肯定的に語ったとたん、「でも結局そういう人たちは内ゲバで殺し合いしてたんでしょ?」とか、「連合赤軍はどうなの?」とか、「そういうのがあったからサヨク運動はイッパン市民の支持を失ったんでしょう?」云々……といった言葉がすぐさま返ってくる。そうしたいわゆる「運動の負の側面」については私と同世代以下の、「運動」を実際には知らない世代の人間も、みんなやけによく知っている
 しかし、かつての「運動」の側の「暴力」についてあまりにしばしば語られるのに比して、「警察、機動隊、国家の暴力」のことがあまりに語られ無さ過ぎると思う。というか、おそらく私も含めて、ほとんど知らないのだと思う。が、それは現にあったわけで、たとえばその証言が以下にある。
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2005/08/post_a5ba.html
をお読み下さい(via:id:kamayan*1

警察、機動隊、国家の暴力
 三里塚闘争を始め、多くの闘争は最初から武装闘争であったわけではない。(……)最初は、空港公団の測量に対して三里塚の農民は道路に座り込みをすることで抵抗した。共産党は「道路交通法違反だから」農民に立ち退くように呼びかけた。その後で機動隊が農民に暴行を加えて排除した。第一次と第二次の強制代執行の際には、農民が立木伐採を止めさせるために木に登り鎖で体をくくりつけているのを、そのまま伐採した。多くの農民が負傷した。地下壕に立てこもる農民の頭上を農民が生き埋めになるのも気にせず、重機で走り回った。大木よねさんというおばあさんが農機具にしがみついて抵抗するところに、殴る蹴るの暴行を加えて住居を取り壊し、家財道具を放り出した。
 全学連の学生に対しては、反対集会が終了して、たき火をして暖を取っているところに襲いかかり、女子学生の口に警棒をつっこみ顎を外した。野次馬が見かねて、農民や学生と一緒に抗議すると、子連れのお母さんの目の前で、乗ってきた乗用車を破壊した。後には野次馬が見物することすら出来ないように、厳重な検問を敷いて反対行動が一般市民の目に触れないようにした。東山薫さんという方は、負傷者の治療を行っている野戦病院に機動隊が乱入するのを止めるためにピケを張っていて、後ろから射殺された。数千数万の労働者学生が重軽傷を負った。
 60代の老人を2メートルの崖から突き落とし、田んぼに油をまいて火を放った。報道のカメラマンが警察にとって都合の悪い映像を映していたら、襲いかかってカメラを破壊した。小学生の登下校を十数人の機動隊が盾を持って取り囲み脅している。反対同盟農民の家を訪ねる者は誰彼構わず検問して顔写真を撮る。一晩中投光器で家を照らして真昼のような状態にする。現在の暫定滑走路から離発着するジェット機は、農家の頭上40メートルの高さを飛んでいる。40年近く三里塚で行われ続けている警察、機動隊、国家の暴力がこれだ。

 というわけで、これが、「旧世紀」の(今世紀も変わらないけど)「警察、機動隊、国家」の持っていた暗い「暴力的側面」です。が、そうした「暴力」は、当時から不当に軽視されていて、マスコミや共産党はそれに「抵抗する」側の暴力のみを非難した。今日ではますます国家の暴力が隠蔽され、抵抗運動の歴史が暴力の歴史としてのみ定着させられ、新たな抵抗や運動の成立を阻む格好の宣伝材料となっている。

 農民や労働者学生がたまりかねてささやかな武装をして抵抗する。マスコミや共産党は「暴力学生」と言って全学連反戦青年委員会の労働者を非難する。警察に抗議することはない。民衆が暴力を持って国家権力に抵抗することを非難する人の殆どは、国家権力の暴力に対しては何も言わない。支配する者だけが暴力を欲しいままにする現実。この事を批判しないで暴力一般に反対することの欺瞞を考えて欲しい。労働者人民が国家権力打倒のために暴力をふるうことに反対するなら、国家体制維持のための暴力にも反対すべきではないだろうか。ダブルスタンダードは許されない。(強調引用者)

 近頃の若い人は過去の日本人の行いに寛容な人が多くて、「かつての日本人は中国人を虐殺していた」というと、すぐ「でもいいこともした」と弁護する人がいるんだけど、昔の左翼運動をしていたのも「かつての日本人」なんだけど、そういう「日本人」については、特に若い世代の人は、しばしば、徹底的に、愚かで暴力的だった、という否定的イメージで語る。たまに、旧全共闘闘士がノスタルジックに昔を肯定的に語ると、即座に揶揄される。「全共闘だったとうちゃんの誇りを守れ」なんていう若者は、まずいない。いや、それ自体は別にいいんだけど、もっと上の世代の旧日本兵が戦争についてノスタルジックに語ることに対しては、寛容な人も増えつつある。「じっちゃんの誇りを守れ」とか言ってくれる人もいる。やっぱりそれはおかしいんじゃないか。
 あと、「共産党は「道路交通法違反だから」農民に立ち退くように呼びかけた」ていうの、最近の法ボケな保守派の人々の口振りとまったく同じで笑えるね。

*1:抜粋しようと思ったんだけどほとんど全文引用になってしまいました……。

非対称性

http://d.hatena.ne.jp/ssugi/20050805/p2

■対称性

「今日の長期不況下において首を切られ路頭に迷い一家離散や一家心中を始めとする自殺に苦しむ労働者には抵抗の暴力を振るう権利があると思います」
猿虎日記 : 暴力 〜 コメント欄

とすれば、倫理の要請する対称性から、その労働者たちに暴力を振るわれた人たちは、彼らに抵抗の暴力を振るう権利があるということが導けてしまう。それは単に血で血を洗うということにしかならないだろう。
善悪は相対的なものだが、特定の価値観の中では整合性をもっているべきで、たとえばある場合には暴力が悪なら、いつでも悪でなくてはいけない。ある場合に暴力が善ならどんな場合でも善だ。ぼくが死刑に反対なのもそれが理由だったりする。

 というような反応が来ることはなんとなく予想していた部分もありました。ある意味核心的な問題だと思います。

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 まず、そもそも出発点が圧倒的な「対称性のなさ」「整合性のなさ」であること(例えば死ぬのは首を切られた労働者ばかりであって、首を切る側でない)を確認しておきたいです。つまり現時点では、「血で血を洗う」どころか、一方の血が一方的に流れている状態。だから、まさにその非対称的なあり方をしている暴力を批判することが出発点であること。
 したがって、その労働者がふるう抵抗の暴力は、そうした非対称的暴力「に抵抗する(対抗する)」暴力だということ*1
 というわけで、「労働者たちに暴力を振るわれた人たちは、彼らに抵抗の暴力を振るう権利があるということが導けてしまう」ということですが、もともと「労働者に暴力を振るっているもの」が、抵抗にあったから暴力を振るい返す、というのは、そもそも「抵抗」の暴力ではない、と思います。たとえば労働者が無関係な人に暴力を振るったのなら、振るわれた人が労働者に(その場で直接)振るい返す暴力は抵抗の暴力とあるいは言いうるかもしれませんが……。
 では、暴力に対する「抵抗」は暴力でなければいけないのか、という問題ですが、暴力以外の手段を使って、暴力に抵抗できるのであれば、それに越したことはないかもしれません。しかし、ここで問題になっているのは、「抵抗暴力以外に、暴力に抵抗する手段がない場合」だと思います。
 簡単に言うと、例えば誰かが一方的に殴ってきた時に、その暴力を止めさせることが、なんらかの暴力を振るうことでしかできない場合どうだろうか。さらには、誰かが一方的に殺そうとして来た時に、それをやめさせるために暴力しか手段がない場合どうだろうか。それでも暴力は使うな、殴られろ、殺されろ、というのかどうか、という問題です。

ある場合には暴力が悪なら、いつでも悪でなくてはいけない。ある場合に暴力が善ならどんな場合でも善だ。

 私は、これは悪しき抽象化だと思うのです。ある暴力、例えばある労働者の抵抗の暴力と、別の暴力、例えばそれを弾圧する国家の暴力、という具体的であって相容れない二つのものを、「同じ」暴力として一般的にとらえ、それが「悪か善か」と抽象的に判定することは、結局どの暴力を防ぐことも、どの悪を防ぐこともできないと思う。
 「一般的な暴力反対」の論理をあてはめて、抵抗の暴力に反対することは、抽象的・一般的な対称性・整合性しか守ることは出来ず、事実上、具体的な非対称性・非整合性を保存することにつながりうると思うのです。
 そもそも「われわれ」がたとえばこの日本社会の中で生きていることは、「この暴力(たとえば労働者に自殺させる暴力)」を事実上肯定していることだとも言える。さっき「無関係な人」と言う言い方をしましたが、これは難しいところで、例えば自殺する労働者にまったく無関係な人などいないとも言えるわけです。
 問題は「この暴力」「この悪」だと思うのです。
 酒井隆史風に言えば、「暴力批判」=「暴力の中に線を引く」であって、それは「暴力に一般的に反対すること」への批判をも含むと思うのです。
 向井孝風に言えば、(抵抗暴力を含む)「個人的暴力」と、「社会暴力」(組織暴力)を分けて考えるべきだ、と思うのです。

*1:あるいは、そうした「非対称性」こそが「暴力」なのだ、という観点もあると思います。

さらに追記

 例えば「では、例えばロンドンのテロも、対抗暴力だから肯定するというのか」という人がいるならば、そうではない、ということです。ロンドンの市民がいかなる暴力にも荷担していない無垢な存在である、とはいわない。しかしだからといって、彼らを殺戮する無差別テロは、直接的な対抗暴力とはやはり言い難い。

このようなテロ行為と「本当に困難な状況にある人々」とは切り離して考えるべきだろう。勿論、抑圧された人々の対抗的〈暴力〉は断乎として擁護されなければならない。そのような人々に向かって〈暴力反対!〉などと喚くのは、結局そのような人々を殺すことに荷担するのと同じだからだ。ただし、そのような〈暴力〉はこのような〈無差別テロ〉ではないだろうし、またあってはならない。しかし、「本当に困難な状況にある人々」は、テロはおろかささやかな対抗的〈暴力〉さえふるう元気さえない。密かに溜飲を下げるということはあるかも知れないが(それを直接の〈被害者〉でない私たちが道徳的に非難することなんてできるのか)。

 暴力を振るわれている「本当に困難な状況にある人々」人が、テロに「密かに溜飲を下げる」ということを、「直接の〈被害者〉でない私たちが道徳的に非難することなんてできるのか」と問うことと、「無差別テロを支持する」ということは言うまでもないがまったく別のことです。