非対称性

http://d.hatena.ne.jp/ssugi/20050805/p2

■対称性

「今日の長期不況下において首を切られ路頭に迷い一家離散や一家心中を始めとする自殺に苦しむ労働者には抵抗の暴力を振るう権利があると思います」
猿虎日記 : 暴力 〜 コメント欄

とすれば、倫理の要請する対称性から、その労働者たちに暴力を振るわれた人たちは、彼らに抵抗の暴力を振るう権利があるということが導けてしまう。それは単に血で血を洗うということにしかならないだろう。
善悪は相対的なものだが、特定の価値観の中では整合性をもっているべきで、たとえばある場合には暴力が悪なら、いつでも悪でなくてはいけない。ある場合に暴力が善ならどんな場合でも善だ。ぼくが死刑に反対なのもそれが理由だったりする。

 というような反応が来ることはなんとなく予想していた部分もありました。ある意味核心的な問題だと思います。

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 まず、そもそも出発点が圧倒的な「対称性のなさ」「整合性のなさ」であること(例えば死ぬのは首を切られた労働者ばかりであって、首を切る側でない)を確認しておきたいです。つまり現時点では、「血で血を洗う」どころか、一方の血が一方的に流れている状態。だから、まさにその非対称的なあり方をしている暴力を批判することが出発点であること。
 したがって、その労働者がふるう抵抗の暴力は、そうした非対称的暴力「に抵抗する(対抗する)」暴力だということ*1
 というわけで、「労働者たちに暴力を振るわれた人たちは、彼らに抵抗の暴力を振るう権利があるということが導けてしまう」ということですが、もともと「労働者に暴力を振るっているもの」が、抵抗にあったから暴力を振るい返す、というのは、そもそも「抵抗」の暴力ではない、と思います。たとえば労働者が無関係な人に暴力を振るったのなら、振るわれた人が労働者に(その場で直接)振るい返す暴力は抵抗の暴力とあるいは言いうるかもしれませんが……。
 では、暴力に対する「抵抗」は暴力でなければいけないのか、という問題ですが、暴力以外の手段を使って、暴力に抵抗できるのであれば、それに越したことはないかもしれません。しかし、ここで問題になっているのは、「抵抗暴力以外に、暴力に抵抗する手段がない場合」だと思います。
 簡単に言うと、例えば誰かが一方的に殴ってきた時に、その暴力を止めさせることが、なんらかの暴力を振るうことでしかできない場合どうだろうか。さらには、誰かが一方的に殺そうとして来た時に、それをやめさせるために暴力しか手段がない場合どうだろうか。それでも暴力は使うな、殴られろ、殺されろ、というのかどうか、という問題です。

ある場合には暴力が悪なら、いつでも悪でなくてはいけない。ある場合に暴力が善ならどんな場合でも善だ。

 私は、これは悪しき抽象化だと思うのです。ある暴力、例えばある労働者の抵抗の暴力と、別の暴力、例えばそれを弾圧する国家の暴力、という具体的であって相容れない二つのものを、「同じ」暴力として一般的にとらえ、それが「悪か善か」と抽象的に判定することは、結局どの暴力を防ぐことも、どの悪を防ぐこともできないと思う。
 「一般的な暴力反対」の論理をあてはめて、抵抗の暴力に反対することは、抽象的・一般的な対称性・整合性しか守ることは出来ず、事実上、具体的な非対称性・非整合性を保存することにつながりうると思うのです。
 そもそも「われわれ」がたとえばこの日本社会の中で生きていることは、「この暴力(たとえば労働者に自殺させる暴力)」を事実上肯定していることだとも言える。さっき「無関係な人」と言う言い方をしましたが、これは難しいところで、例えば自殺する労働者にまったく無関係な人などいないとも言えるわけです。
 問題は「この暴力」「この悪」だと思うのです。
 酒井隆史風に言えば、「暴力批判」=「暴力の中に線を引く」であって、それは「暴力に一般的に反対すること」への批判をも含むと思うのです。
 向井孝風に言えば、(抵抗暴力を含む)「個人的暴力」と、「社会暴力」(組織暴力)を分けて考えるべきだ、と思うのです。

*1:あるいは、そうした「非対称性」こそが「暴力」なのだ、という観点もあると思います。