無関心について

 今の国家の暴走は、ニヒリズムの暴走なんだよね。全部あきらめきった状態で、追認していく。小泉が何をやっても追認していく。だから、強要されてもいないのに、クールなファシズム状態が出来上がっている。
「勝手に決めていいですよ。ああ、そう決まったんですか。それならそうしてくださいな」……というくらいの、ニヒリズムの暴走になっちゃっているという状態なわけよね。
小林よしのり『ゴー外!! 1』(アスコム)95頁)

 無関心ということについて。たとえば

 一面にイラク人の体が散らばったモスク――じっと動かないのは、お祈りや瞑想をしているのではない。死んでいるのだ――膨張しているように見えるものも・・・若者に寄りかかられた老人・・・そこら中に脚、足、手、血・・・濁った日の光が窓から射しこんでいる・・・音もない、動きもない恐ろしいところ。と、突然静けさが破られる。死体に銃口を向けた警戒の姿勢で、海兵隊員が入ってきた。モスクに粗野なアメリカ兵の声がこだまする。ころがったイラク人についてやりあっている。死んでる? 生きてる? 私は彼らが何をするだろうかと緊張して見守った。いかにも海兵隊員らしいおなじみの仕打ちをするものと思っていた。ごつい軍靴で、うめくかどうか蹴っとばしてみるんだろう。が、そんなことではすまなかった。突然、モスクに、銃音が響き渡った。海兵隊員が、死んでいるように見えた男性を撃ったのだ。続いて、「こんどこそ死んだぞ」と声がした。
   「こんどこそ死んだぞ」。 海兵隊員は、歌でも歌っているような口調で、こともなげに言い捨てた。私は心底ぞっとした。回りの隊員たちは気にもとめなかった。モスクをそ知らぬふうに歩き回って、死体の数々をひきずり回し始めていた。彼らにとって、何ほどのことでもないということが見て取れた。ごくありふれた出来事だったのだろう。

 こうしたことを聞かされると、我々は、少し眉をひそめる。そして、すぐに忘れてしまうのだ。こうしたことに関する、(私も含めての)圧倒的な無関心の空気が支配している。これは、コヴァが言うように、「ニヒリズムの暴走」の一症状かもしれない。だが、このニヒリズムは、選択的なニヒリズムでもある。たとえば、「9.11の衝撃」というような言葉が私は嫌いだ。それは、911という符号を使えば誰もが何のことかわかる、ということ、つまり「911って何?肉まん?*1」などと言う人がいない、ということを前提にしているからだ。虐殺は、それがニューヨークであれば、「世界」が注目する。だがそれがファルージャであれば? 「118」と言っても誰も何のことだかわからない。つまり、現在進行形で続いている「11.8」は衝撃を与えない。それは言うまでもなく、事態の重大さではなく、感受性の大きさが左右するのだ。
 もちろん、無関心の暴走は日本だけではない。この記事によると、11月12日、米軍のジェット戦闘機がファルージャを9日連続で爆撃した日、アメリカの新聞の見出しを飾ったのは、カリフォルニア州レッドウッド・シティの陪審で、スコット・ピーターセンが妻と胎児殺害の罪で有罪判決を受けたニュースだったという。
 実のところ、こうした「無関心 indifference 」が示しているのは、圧倒的な「差異 difference 」なのである。もっと具体的な言葉でいえば、要するに人種「差別」だ。

「中東とかアラブとか、あの辺ではなんかいつも殺し合いをやってるね」「怖いね」

 「中東の人たち」「アラブ人」「イスラム教徒」「北朝鮮の人たち」……そういう存在は、十万人死んでも、「衝撃を引き起こす」価値はない、というわけだ。
 こうしたことは、改めて言うまでもないと思うのだが、少し確認しておきたくなった。というのは、イラクでの戦争に関して、たとえば、この戦争は石油利権の為に行われているとか、そうではないとか、あるいはアメリカ政府内部の勢力争いが影響しているとか、していないとか、そうした分析ばかりが聞こえてくるように思うからだ。そうした「政治学的な」分析は、イラクでの戦争の背後にある人種差別といういわば「心理学的」*2問題を覆い隠してしまう。仮にフランスに石油があって、アメリカがその利権を欲していたとしても、アメリカ人はそのためにフランス人を十万人殺しはしないだろう。*3
 そして、人種差別を覆い隠すのは、政治ゲームの言説ばかりではない。一見人種差別に反対しているかのような、ヒューマニズムの言説こそが、人種差別を覆い隠すイデオロギーなのである。

何という饒舌だろう――自由、平等、友愛、愛情、名誉、祖国、その他なにやかやだ。だがそれも、われわれが同時に、黒んぼめ、ユダヤ人め、アルジェリアのねずみめ、と人種差別的言辞を弄するのを妨げはしなかった。リベラルで親切な良識ある人びと――要するに新植民地主義者――は、こうした矛盾にショックを受けたと公言していた。だがこんな言葉は、錯誤でなければ自己欺瞞である。われわれヨーロッパ人にとって、人種差別的ヒューマニズム以上に筋道の通った話はない。なぜならヨーロッパ人は、奴隷と怪物を拵えあげることによってしか、自分を人間にすることができなかったからだ。原住民が存在する限り、この偽善は仮面をかぶっていた。われわれは人類という名で抽象的な普遍性を主張したのだが、この主張は現実的な人種差別を覆いかくすのに役立っていた。つまり海の向こうには半人間の種族がいて、われわれのおかげで、多分千年もたてば人間になるだろう、というのである。ひと口に言えば、人類とエリートを混同していたのだ。
(ジャン=ポール・サルトル、1961年*4

 武田徹氏のサイト経由で、西森豊氏の「インターネット掲示板におけるイラク人質事件の投稿分析:Yahoo!掲示板の場合」を興味深く読んだ。(pdfファイルによる電子出版。無料。)
http://www.kinokopress.com/shiryo/iraq.htm
 その結論はこうである。

掲示板の多数派の意思を端的に言えば、「国内に敵がいる」である。イラク日本人人質事件とは「獅子身中の虫」がイラクまで出かけていって起こした日本国内向けのパフォーマンス、というのが、多数派の見解であった。「イラクの人々」が日本に向けてメッセージを送っている、あるいは「アラブの」テロリストが日本を脅迫・攻撃している、という理解は、頑として受け付けなかったのである。(……)イラクイラク人(または、アラブ人)が起こした事件を、まるで日本人が日本国内向けに起こした事件のように議論するために、10日間で10万件の投稿が費やされたのだと言える。

 3人の「不届きな」「日本人」に対するあれほどの饒舌、あれほどの「関心」は、イラクの人々に対する圧倒的な「無関心」と表裏であったのだ。*5(この項続く……かも)

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 少し話しがずれるのだが、アメリカによるイラク侵略、占領に反対して精力的に活動している人々、つまりイラクに並々ならぬ関心を持っているはずの人々の中で、少なからぬ人々がイラクの首都を「バグダード」ではなく「バグダッド」と表記している、ということも、こうした「無関心」と無関係ではないように思える*6。私は、かの街を「バグダッド」と呼ぶのは、東京を「トッキョ」と呼ぶようなもので、アラビア語軽視のあらわれだ、という意見を何度も聞いたことがあるのだが……。たとえば
http://www2.ncc.u-tokai.ac.jp/suzuki/Hyouki/Hyouki.htm
 もちろん、このことで揚げ足を取って彼らの主張や行動に難癖をつけるつもりは毛頭ないのだが……。

*1:それは551

*2:この言葉は適切ではないかもしれないが

*3:アメリカ人は「戦争を終結させるため」にドイツやイタリアには原子爆弾を投下しはしなかった、ということもやはり考えてしまう。

*4:フランツ・ファノン『地に呪われたる者』への序文 邦訳27頁

*5:この結論で問題となっているのは、彼らの「無関心」というより、むしろ「無関心であろうとする意志」であるが、それもまた重要な問題であると思われる。

*6:例えば、シ○○○も、ヤ○○もさ……。