昨日の話に関連していると思うので、去年まで私がフランス語の個人教授を受けていたフランス人の先生とした議論(?)の話を書いておこうと思います。この先生は30歳前後の男性で、当時日本の大学で生物学の研究員をしていたインテリで、ゲバラを大尊敬しているというサヨクです。ところが、彼はフェミニズムには反感を持っている。
さて、ある日の授業で、文法の問題文の中に以下のような例文があって、これはまた先生一言あるだろう、と思っていたのですが……とりあえず日本語で書きます。
今日では、女性はかつてより自由である。妻は夫にかつてほど依存していない……自分で車を運転するし、自分の銀行口座を持っている。彼女は夜一人で出歩くし、一人で映画にも行くし、一人で飛行機にも乗る。彼女はもはや洗い物をしない……生活を容易にするさまざまな機械を利用する。彼女は、自分が望んだあらゆる職業につくことができる。
このフランス語をまず読んだうえで、「それに対して昔の女性は……」という文章を半過去を使って書きなさい、というのが問題*1。先生は、最初の例文を私が音読しているときから、すでにいいたいことありありな顔をしていた。で、私の意見を聞く前に、まず自分の考えを言う、とまくしたてはじめた。まず「女性が運転をする?危ない!!」これには失笑するしかなかった。「フランスには、Femme au volant Mort au tournant(ハンドルを握った女性はカーブで死ぬ)という言葉がある」ですって(笑)
まあそれはあまり議論してもしょうがないからいいとして、次、「彼女は自分の銀行口座を持っている?なぜ!?おー!信じられない!どうしてそんな必要があるのですか?クパンセヴー?」というので、「いや、でも(少なくとも)一人暮らしの女性は口座が持てないと困るでしょう」と言ったら「おー!違う!この文章はコロンでつながっている。だから口座を持っているのは結婚している女性のことだ。私の考えでは、結婚している女性が個人の口座を持つ必要など、まったくない。夫と共同の口座でいいではないか??!」「いや、でも離婚したとき……」「それはちがーう!(かなり興奮)離婚したときは、裁判でもして分配率を考えればいいではないか?」「でも、それは面倒ではないか。個別口座があれば、離婚する時も便利だ」そう私が言うと「それはおかしい!それは、最初から離婚するかもしれないと思っているのと同じ事だ。しかし、結婚とはそういうものではない!結婚とは、死ぬまで一緒にいる、と宣誓することだ。約束するのであり、契約するのであり、責任が出てくる。別れるかもしれない、というのなら、同棲でいいじゃないか。結婚する必要はない。On veut être ensemble(一緒にいたい)というのが同棲で、結婚は、On doit être ensemble(一緒にいなければならない)だ。」
「うーん……なるほど(気おされている)し、しかし、かつては、結婚が強制されていた、つまり、『結婚しなければならない』だった。たとえば日本では独身者は銀行でお金がなかなか借りられなかった(いまでもそう?)」「おー、なぜ?」「良い歳して独身なものは信用できないと見なされる」「それはよくない。それは差別だ。もちろん、結婚しないという選択肢も尊重されるべきだ。そういう生き方も認めるべきではあろう。しかし、死ぬまで一人だなんて、淋しくはないか?家族をもち、後世に命や文化をつないでいくというのもいいことだし必要なことではないか?親だって孫の顔が見たいだろう」「うーむ(気圧されている)」
で、まあその話題はそんなとこで、次「彼女は夜一人で出歩くし、一人で映画にも行くし、一人で飛行機にも乗る」については、「オー!!!信じられない!!!なぜ??!なぜ一人で出歩く??そんな必要がどこにある??」というので、ちょっとびっくりして「え?だって、それこそ映画見に行くとか……」と言ったら「一緒に行けばいいじゃないか!!」ちょっと虚を突かれましたが、どうも彼は全て結婚している女性の話、として解釈したようだ。例文を書いた人がどういうつもりかはわからないが、その方が話が面白いのでそのまま話を続ける。「うーん、でも、夫が仕事で、その映画が今日までだったりとか?」「そんなのは、がまんするのだ!」「……ていうか、夫が映画が嫌いだったら?」「妥協だよ、そんなの!!夫だって、買い物に行きたくなくても、妻の買い物に一緒にいくではないか。そういうものだ。いいかい、結婚というのは、相手の人生に影響を与え、また相手によって自分の人生を変えることでもあるんだ。だから責任も出てくるが、だからこそ意味があるのではないか。そうやって自分の趣味をガマンしたり、相手の生き方を変えたり、それが結婚というものだ」「う……(気圧されている)」「飛行機に乗る???なぜ一人で飛行機に乗る?信じられない」「え???」「旅行に行くなら、二人で行けばいいではないか!」「ああ……じゃあ、妻が仕事で飛行機に乗って外国に行かねばならぬとかは?」「ああ、それは仕方ない」(しかしそもそも先生は、妻が仕事をする必要はない、という考えなんですけどね)。
で、この後が面白かった。彼は、「彼女は、自分が望んだあらゆる職業につくことができる。」という文章を、「プロパガンダだ」というのである。どうしてかというと、彼は、「あらゆる職業(職業はもちろん複数形)」となっていることに注目する。「この文章は、暗黙のうちに、人は何にでもなれるし、いろんな職業を渡りあるいて自由に転職する、というのを前提としている。しかし、そのようなことが常識になると、結局、次第に人々の生き方がそのようなものになっていくということだ。だがそれはいいことか?」というのです。これは、結構するどい。わりあいと、内田樹的なことを言う人だ。
彼の考えを言い直すと、こういう感じかもしれない。自由になる、というのは幸福なことではない。欲望が解放されるのが自由なのではなくて、自由によって欲望が作られるのだ。資本主義とは、近代とは、結局そうではないか。欲望とは結局模倣欲望なのだ。欲望とは、他人の欲しいものが欲しい、という構造をしているのだ。職業もそう。「他人がなりたいものになりたい」というパンドラの箱を開けたのが近代だ。「自由になんにでもなれる」と思うからこそ、「今の自分は『本当の』自分ではない」という気持ちが生まれる。つまり、「不自由でないことが自由」ではないのだ。むしろ、「自由が不自由を生む」のが近代だ。何の疑いもなく身分制にしばられているものは、「しばられている」という感覚、「不自由」という感覚がそもそもない。ある意味で、そのほうがシアワセかもしれないではないか。
結婚もそうだよね。近代的「自由恋愛」なるものが多大な不幸を生み出しているとも言えるわけだ。この考え方は、一見手強い。
……が、やはり、「近代以前の方がよかった」となってしまってはまずい。難しくても、第三の道を、(近代的な希望とは違うにせよ)やはり「希望」を提示していかなければならないのではないか。ナイーブと言われるかもしれませんが私はそう思うのです*2