サイボーグ

 今回発表した「サルトルとロボット」はいずれ論文にします。が、さしあたり、そのテーマに関していま突然思いついたことがあるので、忘れないうちに書いてみようという気になりました。
 サルトルは、サイボーグ肯定主義です。それは、「実存は本質に先立つ」というサルトルの哲学が徹底した反本質主義だからです。したがって、彼は「人間の本性」などというものを認めません。身体に関して言えば、サルトルの哲学は、「ホンモノの」身体とか、「自然な」身体を前提とするような考え方と対立します。彼はカフェのボーイはボーイであることを演じているのだ、と言いました。そこでサルトルはボーイをロボットにたとえています。また、例えば『聖ジュネ』には、「ニセモノ性」を称揚する思想が見られます(それは「想像的なもの」の称揚につながります)。その辺のことが、『猿と女とサイボーグ』をもじった「サルトルと女とアンドロイド」*1という論文で書いたことです。
 が同時に、サルトルは、例えば『弁証法的理性批判』では、人間がロボットに、あるいは機械になってしまうことを繰り返し批判しています。それだけみると、おそらく「やっぱりサルトルヒューマニズムだ」と言われてしまうかもしれないのですが、しかし、サルトルは何か「自然な身体に帰れ」だとかそんなことを言っていた訳ではない。ただ、人間は「作り物」でしかないのだが、それは、「作られる」危険を持っているということでもある。サルトルが批判するネガティブな意味での人間のロボット化とは、システムの中で人間が「作られ」「操られる」ことです。それをサルトルは実践的惰性態と呼びます*2。ではそこから脱出する線をどこに引くか。それは、先にも述べたように、「自然な」身体にもどる、というような反動的なことではない。簡単に言えば、サルトルによると「作られる」ことに対抗するのは「作るfaire」ことなのです。それは、「為すfaire」ことでもあります。われわれを既成の型(=本質)にあてはめて作り上げようとするシステムに対抗しそれを破壊する「実践」をとりもどすこと。しかも後期サルトルにとって、そのとりもどし自体が「共同の実践」*3であるととらえられていました。

*1:『岩波応用倫理学講座5性/愛』所収

*2:この辺のあたりが今回の発表で論じたことです。

*3:まあ革命ってことでもあるのですが