日吉の幽閉者 その一

ひみつきち探検

 「ひみつきち」ごっこ、というのは、ご存知のように子どもの遊びの定番の一つで、私も似たようなことはよくやっていたような気がする。子ども達にかかると、山の中や空き地の人目につかない狭い場所はどこでも「秘密基地」になってしまう。子どもはなぜ秘密基地が好きなのか。この遊びを盛んにする時期が、いわゆる「自我」の確立の時期、すなわち、大人には知られない「隠された」内面が形成される時期と重なっていることは、おそらく偶然ではあるまい。
 しかし、言うまでもなく、子どもたちの遊び場である「ひみつきち」は、本当の「秘密基地」であるはずはない。ところが、先日私は、本物の「秘密基地」を探索してきた。正確に言うと、「秘密基地」だったところ……だが。
 もったいつけた書き方はそろそろやめよう。この日は、中央大学の長谷川先生のお誘いで、長谷川ゼミの学生のみなさんと一緒に、日吉台地下壕保存の会主催の戦争遺跡見学会に参加して、慶應大学日吉キャンパスに行ったのである。慶應大のジャズ研とかつて交流があったので、日吉キャンパスにある音楽練習室には何回か遊びにいったことがあるだが、このキャンパスを訪れたのはその時以来ずいぶん久しぶりだ。ところで、日吉のキャンパス内には、地下にかなり広い範囲で掘られたトンネル状の施設がある。今回、今は使われていないこのトンネルを、地下壕保存の会の方々の案内で、懐中電灯を持って見学した(見学会は定期的に開かれている)。気分は「ひみつきちたんけん」である。では、この日吉キャンパス地下のトンネルが何だったかというと、旧日本海軍の文字通りの「秘密基地」、正確には連合艦隊の総司令部(1945年4月25日以降は海軍総司令部)の地下壕だったというわけである。なぜ慶應大学のキャンパスに海軍の司令部が作られたのか。

戦争と日吉キャンパス

 慶應大学日吉キャンパスは、福沢諭吉生誕百年にあたる1934年に開校し、現在も高校校舎として用いられている第一校舎で、まず文化系の予科生(大学一、二年生)が学び始めた(1936年から第二校舎に医学部予科が入った)。1936年は二二六事件の年であり、軍部の台頭の中、1939年からは慶應大学の学部でも軍事教練が必修となった。しかし、当時大学内はまだ比較的自由な雰囲気だったようであり、必修である教練も出席率は低く、特に文学部は極端に少なかった、と多くのOBは回想しているそうである。1941年11月には、陸上競技場で行われた運動会で、文学部Cクラスがルネ・クレール監督の映画「自由を我らに」の主題歌をフランス語で歌いながら行進する、というようなこともあったという。行進の中にいた一人である永戸多喜雄氏は、「われわれにとっては、ノンを表すギリギリの行動であった」と回想している。
 しかし、1943年10月には、文化系学生の徴兵猶予が解除され、11月には、2年前「自由を我らに」の歌声が響いた陸上競技場で、予科生500人の壮行会が催された。慶應義塾からはおよそ3000名の学生が学徒出陣し、2000名以上が帰らぬ人となった(中には特攻隊で戦士した者もいる)。
 1944年になると、学生の多くは軍需工場に行き、キャンパスの学生は激減した。文部省は海軍の要求を受け、「余裕教室貸与指示」を慶應義塾に認めさせ、それによって海軍が日吉キャンパスに入ることになった。電波状態のよい地勢だった、などの理由もあったようだが、要するに立派な建物がそのまま使用できるのが都合がよかったということらしい。44年3月、まず海軍軍令部が第一校舎を敵国の情報収集と分析のために使用し始めたという*1。その後、構内のチャペル*2短波ラジオによる米国放送の傍受などで使用され、さらには人事局も第一校舎に入り、敗戦近くには軍令部だけで300名近い陣容になった。

学生寮

 1944年7月にサイパン島が陥落、8月中旬までにマリアナ諸島の島々が米軍に占領され、日本の防衛線は小笠原・沖縄・フィリピンまで後退した。連合艦隊司令部は、9月29日に日吉の慶應大学学生寮に入って作戦を立てることにした。それまで連合海軍司令部は最前線の軍艦に置かれるのが日本海軍の伝統だったが、軍艦がなくなり、サイパン島玉砕などで敗色が濃くなり、連合艦隊司令部は、海軍創設以来初めて恒常的に陸上に上がった。
 日吉にある慶應大学学生寮は、老朽化のため現在は一部を除いて用いられていないが、慶應大学が新進の建築家谷口吉郎*3に設計を依頼した、当時としては最先端の、コンクリート三階立て三棟からなる豪華な設備だった。
 見学会当日、学生寮は遠くから見るだけだったのだが、地下壕保存の会の方に見せていただいた当時の学生寮室内の写真を見て、私は驚愕した。まるでホテルの一室のような、シンプルでモダンな洋風の個室である。およそ「戦前の大学の学生寮」というイメージとはかけ離れた、逆向きの時代錯誤な感じ。というより私が大学生の時住んでいた四畳半の下宿の方が、よほど「戦前的」である。今日の大学生には当たり前の、プライベートな、「閉じた」空間でいとなまれるブルジョア的学生生活というものが、50年前にも有るところには有ったという当たり前の事実に、なぜか眩暈がするような気持ちがした。

地下壕

 この豪華な学生寮には、豊田副武司令長官以下のエリート軍人たちが入った。下士官や兵は付近に立てられたカマボコ兵舎に入ったらしい。寮の食堂は作戦室となり、レイテ決戦、特攻隊出撃、沖縄作戦、戦艦大和の出撃命令もここで決められた。
 さらに海軍は、この学生寮の地下に述べ2600メートルにも及ぶ地下壕を建設した。敗戦のちょうど一年前、1944年8月15日から突貫工事がはじまり、完成した部分から使用されたこの地下壕は、物資がない時代に、40センチの厚さのコンクリートを使用した頑丈なものだった。百数十段の階段で地上とつなげられ、寮と一体化していた地下壕には、長官室、作戦室、電信室、暗号室、バッテリー室、倉庫など中枢施設があった。電力は第一校舎の変電設備から配線され、一般家庭では灯火管制がしかれている時代に、照明は、当時としては最先端テクノロジーである蛍光灯を使っていた。連合艦隊の作戦は、空襲時には地下で立てられた。電信室には40台ほどの電信機が置かれ、さまざまな戦地の情報を24時間体制で把握していたという。*4

戦後

 地下壕建設にあたっては、地元の住民も大きな被害を被った。建設地の農地は強制買収され、さらには、地下壕を掘るために邪魔だからと家を移動させられた農家もある。そのため家はガタガタになってしまったという。田畑は地下壕を掘った土砂で埋め立てられて荒れ果てた。地下壕については、住民にはまったく説明されなかったというが、その秘密は米軍には知られていたと考えられ、民家と畑しかない日吉一帯は1945年4月から繰り返し空襲を受け、大きな被害を被った(将校たちは安全な地下壕に入っていたわけだが)。爆弾が直撃して4人が即死した家もあったという。衝撃で跳ね上がったとみられる遺体の一部が、数日後、木の枝にぶら下がっているのが見つかった。
 戦後、これらの施設はアメリカ軍に接収され、キャンパスは今度は米軍将校たちに使用されることになる。日吉キャンパスが慶應義塾に返還され、その軍人による使用が終わるのは、4年後の1949年である。(つづく)

*1:校舎西側では7月15日から待避壕の建設がはじまった。当時国民にはいわゆる大本営発表で戦況は隠されていたが、軍部は、サイパン陥落から一週間もしないうちに、空襲を予想していち早く自分たちのためだけの待避壕を作っていたということになる。

*2:キリスト教系大学でチャペルがあるのはめずらしかったという。

*3:後に東宮御所藤村記念館東京国立博物館東洋舘などを設計。

*4:戦艦大和が刻一刻と沈んでいく様子もほぼリアルタイムで伝えられ、送られてくる傾斜報告を受け取りながら電信兵は涙を流したそうである。たしかに、その無電を送っている側の電信兵のことを考えると、何とも言えない気分になる。しかも、この多くの命が奪われた大和出撃自体が、あまりにも愚かな思いつきのような作戦だった。