たぶん天啓

 コンビニに行く途中、ガソリンスタンドのそばを通っていくのだが、そこに妙なものがあることに気が付いた。入口わきに古タイヤが重ねてあって、その中にポールが立っている。で、そのタイヤの中に何かが転がっていたのだが、よく見るとそれは囓りかけの林檎であった。ガソリンスタンドとタイヤ、というのは有契性を持った関係であるが、タイヤと林檎の関係は全く謎である。ガソリンスタンドの前でのタイヤと囓りかけの林檎の出会い。
 ところで、考えてみると、「囓りかけの林檎」というのは、林檎の記号表現としては非常にポピュラーなものであるのに、われわれは現実に「囓りかけの林檎」と出会うことは滅多にないのである。それはまあ、われわれが現実に「ソフトクリーム状にとぐろをまいたう○こ」と出会うことが滅多にない、というのと同じ様なものである。或る世代以上には、「林檎を囓ると歯茎から血が出ませんか?」というCMは有名だが、「林檎を皮のまま直接囓る人」って、古い映画やテレビ、マンガぐらいでしか見たことはない(そういうシーンではなぜか囓る前に服の袖や裾で林檎を拭くというパターンも多い)。今は、あまりそういう食べ方をする人はいないような気がする*1。農薬も怖いしね。
 で、なぜ林檎の記号表現が「囓りかけの林檎」となったか、というのは、「直接囓る」という食べ方が、林檎に特徴的なものだったからだろう。そもそも、果物というのは丸い形をしたものが多いので、形だけで林檎を表現するのは難しい。というわけで、林檎の記号表現においては、「食べ方」が示差的特徴として採用されたのである。
 しかし、さらに言えば、一部分が欠けた丸い形、というのは、直接的にはまさに「食べかけ」の果物をしか表現していない。つまりそれは、果物を「食べる」という一連の過程の一瞬を切り取ったものでしかない。この場合「食べかけ」という部分によって「食べ方」の全体を表現しているのである(メトニミー)。これはつまり、前傾姿勢をして手足を振り上げている人物の絵が、「走って逃げる」という過程の全体を示し、それが「非常口」の記号となるのと同じである。さて、われわれは非常口の記号のような形で手足を振り上げて静止している人物を実際には見たことがない。同じように、仮に林檎を直接囓るという食べ方が現在でもポピュラーだったとしても、「ほんのちょっと囓っただけで止まっている林檎」を見ることはさらに困難なのである。ほんのちょっとだけ囓って止める、ということはあまりないからである。
 で、いったい私は何がいいたいのか。要するに、記号においてはポピュラーな「囓りかけの林檎」と、リアルに出会う、というのは、非常にめずらしい、ということである。





記号的林檎の例






リアルな食べかけの林檎

















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*1:そうでもないのかもしれないけど、少なくとも私はそういう食べ方をしたことはほとんどない。