ジョルジュ・ソレル『暴力論』第4章 プロレタリア・ストライキ 第1節

第4章 第1節

プロレタリア暴力に関わる思想を正確に説明しようとするたびに、われわれはゼネストという概念に連れ戻される。 しかし、この概念は、他の多くのことにも役立つし、社会主義のあいまいな部分について思わぬ光を与えてくれる。第一章の終わりで、私はゼネストを、敵を決定的に叩きのめすナポレオン戦争に比較した。この比較は、ゼネストイデオロギー的役割を理解するために役立つだろう。
現代の軍事専門家たちは、ナポレオンのころと桁違いに多数の兵士を擁し、当時に比べてきわめて完成された兵器を備えた軍隊の操縦に適した、新しい戦争の方法について論じる。それでも彼らは、やはり、戦争がナポレオンの時代と同じ様に決定されるはずだと想定している。提案された戦術は、ナポレオンが想定していたドラマ〔筋書き〕に適応しうるものでなければならない。たしかに、戦局の推移は当時とはまったく違った仕方で展開するだろう。しかし、終局は、常に敵の破局となるはずだ。軍事教育の方法とは、兵士が、この重大で恐るべき行動に対して準備することである。そのとき、各兵士は最初の合図を見逃さないように準備しなければならない。本当に堅固な軍隊の総員は、上級から下級にいたるまで、国際的な紛争における破局的な解決に対して、張り詰めた気持ちを保っているのである。
革命的組合は、社会主義の行動について、軍事専門家が戦争についてするのとまったく同じ仕方で議論する。彼らは、あらゆる社会主義ゼネストの中に包摂する。彼らは、あらゆる戦術がゼネストという事実に帰着すると変わらず考えている。彼らは、それぞれのストライキを、ゼネストという最終的な大波乱の小規模な模倣、試行、準備と見なす。
マルクス主義者、サンディカリスト、革命派を自称している新しい学派は、その学説の真の意味と、その活動の帰結やその真の起源を明確に意識して以来、ゼネストの観念を支持することを宣言した。この学派は、ゼネストを恐怖する官許的、ユートピア的、政治屋的な古い宗派と縁を切るに至った。そして逆に、革命的プロレタリアートの真の運動の中に入っていった。そこでは、はるか昔から、ゼネストへの同意が、労働者の社会主義とアマチュア革命家のそれとを分かつ試金石であったのだ。
混乱した言葉で語る議会派社会主義者たちは、まったくばらばらな集団を味方につけることでしか、大きな影響力を持つことはできなかった。彼らには、未来の集産主義についての大言壮語でだまされるナイーヴな労働者の有権者が必要だった。他方で彼らは、社会問題に理解があると見せたい愚かなブルジョアたちには、深遠な哲学者のふりをしなければならなかった。彼らにとって、社会主義的政治企業に出資することが人類〔ユマニテ〕のためになる〔訳注:後出のジョレスの主催する新聞『ユマニテ』への出資者を揶揄している〕と信じている金持ちたちを利用することが、どうしても必要だった。彼らの影響力はそのでたらめな話に基づいているのであり、彼ら偉大な議会派社会主義者諸君は(しばしば過大な成功を収めたりもしているのだが)自分たちの読者の思想を混乱させるために働いているのだ。彼らはゼネストを嫌悪する。というのも、ゼネストに関するプロパガンダはすべて、博愛家を喜ばせるにはあまりに社会主義的すぎるからである。
これらの自称プロレタリアートの代表者の手にかかると、すべての社会主義の公式が、現実的意味を失ってしまう。階級闘争は依然として重大な原理である。しかし、それは国民的連帯*1に従属しなければならない。インターナショナリズムは、最も穏健な党派もそれに対して敬意を払い、厳粛な誓いを立てずにはいない信条ではある。しかし、愛国主義パトリオティズム〕 もまた、彼らに神聖な義務*2を課すのである。人々が日々肝に銘じているように、労働者の解放は、労働者自身の仕事であるべきである。ところが、本当の解放は、職業的政治家のために投票し、結構な身分を得る手段を彼らに与え、自分の上に主人をおくことにある、というのだ。最終的に国家は消滅することになっており、人々はエンゲルスが書いたことに異を唱えないように気をつけてはいる。しかし、この消滅は、あまりに遠い未来においてしか実現しないので、人々は、それを待つ間、国家を暫定的に利用し、政治家たちにご馳走を食べさせてやるしかない、というのだ。そして、国家を消滅させるための最良の政治は、一時的に政府機構を強化することにある、というのだ。雨にぬれないように水に飛び込む愚か者でさえ、こんな風に考えはしないだろう。
わが偉大な〔議会派社会主義者〕諸君のたわごとの根本にある、矛盾した、こっけいな、まやかしの主張の簡単な報告を書くだけで、何ページもが全部埋まってしまうだろう。何ものにも邪魔されずに、彼らは、大げさで激しいけれど要を得ない言葉によって、最高に頑迷な非妥協主義と、最高に柔軟な日和見主義を結び付けることができる。ある社会主義の学者は、饒舌によって対立を解消する技術は、マルクスの著作の研究から引き出された最も明晰な帰結であると主張する*3。とはいえ私は、この困難な事柄について根本的に無知であることを告白する。さらに私は、政治屋たちに学者の資格を与えられている人々と肩を並べるつもりもさらさらない。しかし私は、マルクス主義哲学の基礎がそんなものであると簡単に認めるわけにはいかない。


ジョレス〔→Wikipedia〕とクレマンソー〔→Wikipedia〕の論争は、わが議会派社会主義者諸君が、その饒舌によってしか大衆に自分たちを認めさせることができなかったということ、また、読者をあざむき続けたことによって、彼らがついにまじめな議論に対する感覚を失ってしまった、ということをまったく異論の余地のない仕方で示した。『オーロール』誌の1905年9月4日号で、クレマンソーは、ジョレスが「同志たちがついていけないような形而上学的な煩雑な言葉で」彼らの頭を混乱させた、と言って非難している。この非難には、形而上学という言葉を用いたところ以外、反論すべきところはなにもない。ジョレスは、法律家や天文学者ではないのと同じぐらい、形而上学者ではない。10月26日号で、クレマンソーは、論敵〔ジョレス〕が「文章を都合よく解釈する技術」を持っていると言い、最後にこう述べている。「彼がある種の論争的策略をさらけ出しているのは、興味深かった。われわれは、そうした策略がイエズス会の独占物だと思い込んでいるが、そうでもないのである。」
野心家たちに利用され、何人かの冗談好きを楽しませ、デカダンス派によって賞賛された、この、騒々しく、饒舌で、嘘つきの社会主義の前に、彼らとは反対に、何事をも不決断のうちにとどめまいと努力している革命的サンディカリスムが立ちはだかっている。そこでは、思想は、いかなる欺瞞もいかなる底意もなしに正直に表明される。学説を大量の煩雑な注釈で薄めようとするものはもはやいない。サンディカリスムは、ものごとを白日の下にさらし、しかるべき場所にきちんと位置づけ、活動中の諸勢力の価値を十分際立たせるような表現方法を用いようと努力する。サンディカリスムの方向を進むためには、対立を和らげるかわりに、それを浮き上がらせなければならない。お互い争っている集団に、できるだけ確固たる様相を与えなければならない。最後に、反抗した大衆の運動が、反抗者の魂に十分圧倒的な印象を与えるような仕方で表現されるだろう。

こうした結果を確実に生み出すためには、言語は十分ではないだろう。社会主義によって現代社会に仕掛けられた戦争の、さまざまな表れと呼応する感情の全体を、いかなる反省的分析にも先立って、いっぺんに、唯一の直観によって呼び起こすようなイマージュの総体に訴える必要がある。サンディカリストは、あらゆる社会主義ゼネストというドラマに集中させることによって、この問題を完全に解決する。官許学者たちの饒舌の中で対立が調停されてしまうということはもはやない。すべてがよく描き出されている。ここでは、社会主義についての唯一の解釈しかありえない。ベルクソン〔→Wikipedia〕の説によると、こうした方法は、全体的認識が分析的認識に対して持っている利点を余すところなく備えている。この著名な教授〔ベルクソン〕の学説の価値をこれほど完全なしかたで示している例はおそらくそうないだろう*4
ゼネストが実現する可能性については長年議論されてきた。社会主義の戦争は、一回だけの戦いで解決することはできないと言われてきた。実行力と知識豊富な学者諸氏にとっては、プロレタリアートの大集団をいっせいに動かすことはとてつもなく困難と見えるらしい。巨大化した闘争によって現れるさまざまな困難が細部にわたって分析されてきた。政治屋が言うのと同じように、社会主義社会学者の言うところでは、ゼネストは、労働運動の初期によく見られる、大衆の夢である。「ゼネストは、若き日の幻想*5にすぎなかったのであり、イギリスの労働者たちは──誠実な科学において、労働運動の真の概念の保管者としてあれほどしばしば示されたあのプロレタリアたちは──それにさっさと見切りをつけた」と言ったシドニー・ウェッブ〔→Wikipedia〕の権威がよく引き合いに出される。


ゼネストが現代のイギリスにおいて人気がないということは、ゼネストの観念の歴史的射程に反論するにはあまりに乏しい論拠である。というのも、イギリス人は、階級闘争について途方もなく無理解であるという点で際立っているのだから。彼らの思想は、いまだに中世の強い影響力のもとにある。法律によって特権を与えられ、保護されている同業組合corporationは、彼らの目には常に労働者の組織の理想として見えるようだ。イギリスにおいて、労働組合員のことをさすために労働貴族なる語が発明されたのは、そのためである。そして実際、労働組合主義trade-unionismeは、法的な恩恵の獲得を追及している*6。したがって、われわれは次のように言うことができる。イギリスがゼネストに対して嫌悪感を抱いているということなど、階級闘争社会主義の本質であると考えるすべての人にとっては、むしろ誇りに思ってもいいぐらいである、と。
他方、シドニー・ウェッブは、その能力が大げさに評価されている。彼は、あまり面白くもない書類を調査した、という功績があり、労働組合主義の歴史についてのきわめて読みにくい論集を編纂するという忍耐力を持っていた。しかし、そうした偏狭な精神は、深く考える習慣があまりない人々の目をくらませることができるだけである*7。彼の名声をフランスに紹介した人々は、社会主義について一言も理解していない。翻訳者たちの言うように、もしほんとうに彼が現代の経済史家の第一人者だというならば*8、経済史家たちの知的水準とはずいぶん低いということになる。ほかの多くの例は、さらに、凡人以下の精神でも経済史の有名な教授になれるということを示している。
実際的な見地からするゼネストに対する反論を、私はもはや重視しない。歴史的物語をモデルにして、未来の闘争や、資本主義を廃止する方法に関する仮定を作り上げるのは、古いユートピアにたちもどることである。科学的に未来を予見できる方法に関してはいかなる進歩もなかった。また、ある仮定が、ほかの仮定に対して持っている優位性についての議論についても同じである。あまりに多くの忘れがたい実例が示しているように、きわめて偉大な人物でさえ、遠い未来についての、さらには近い未来についての預言者になりたいと望んだために重大な誤りを犯した*9
しかしながら、現在の外に出なければ、また、未来(それはわれわれの理性を常に逃れる運命にあるようにみえるのだが)について推論しなければ、われわれは行動することができないだろう。これは経験によって明らかなのだが、時間において未定である未来を構成することは、それがある性質を持つときは、大きな有効性を持ちうるのであり、ほとんど不都合はおこらないのである。神話に関して、そうしたことが起こる。神話においては、ある人民の、ある党の、ある階級の、最も強い傾向が再び現れる。この傾向は、生命のあらゆる状況において、本能の迫力をもって精神に現れる。またこの傾向は、未来の行動へのさまざまな希望に対して、まったく現実的な様相をあたえる。意志の改革は、これらの希望に基づいている。われわれは、これらの社会的神話が、人間が、人生において必要なあらゆる観察から利益を引き出すことをなんら妨げはしないし、人間が通常の用事を行うことの障害とはまったくならないことを知っている*10
そのことは数多くの例によって示すことができる。


初期のキリスト教徒たちは、最初の世代が終わるまでに、キリストが復活し、異教徒の世界が全滅し、聖者の王国が作り上げられると期待していた。破滅は生じなかったが、キリスト教徒の思想は、こうした黙示録的神話を大いに利用したので、現代の学者たちの中には、イエスのすべての福音は、〔黙示という〕この唯一の主題について語られたと考えるものもいるだろう*11
ルターとカルヴァンがヨーロッパの宗教的熱狂の上にかけていたさまざまな希望は、一つも実現されなかった。彼ら宗教改革の教父たちは、あっというまに、別世界の人間と見えるようになってしまった。現代のプロテスタントたちにとって、彼らは同時代というよりもむしろ中世に属する人間である。また、彼らが強く関心を持っていたさまざまな問題は、現代のプロテスタンティズムにおいてはほとんど問題となっていない。だからといって、彼らのキリスト教改新の夢から生じた巨大な結果を否定するべきだろうか? 容易に認められることだが、フランス革命の真の発展は、最初の党員たちを熱狂させた魅惑的な絵tableauとは似ても似つかない。 しかし、フランス革命はそうした絵なしに勝利しただろうか? 神話は、実にしばしば、ユートピアと混じり合ってきた*12。というのも、そうした神話は、イマジネーションの文学に熱中し、 通俗科学petite scienceを信頼し、過去の経済の歴史にはまったく通じていないような社会が作り出したからだ。そうしたユートピアは空虚だった。しかしわれわれは、フランス革命は、18世紀に社会的ユートピアを作り出した人々が夢見たよりもずっと深い変革ではなかったか、と問うことができる。もっと最近では、マッツィーニ〔→Wikipedia〕は、当時の学者たちに狂った妄想と言われたことを追求した。しかし、今日では、マッツィーニなくしてイタリアが一大強国となることはなかったということ、また、彼が、イタリアの統一のために、カヴール〔→Wikipedia〕やその一派の政治家たちと比べてはるかに多くのことを行ったということは疑い得ない。

したがって、神話に含まれる、未来の歴史上に現実に現れる運命の細部を知ることは、ほとんど重要ではない。神話は、占星術の暦ではないのだ。初期のキリスト教徒たちが期待していた破局の場合がそうであったように*13、神話に含まれることが何も生じないということさえおこりうる。普段の生活において、現実が、行動する前に描いていた観念と大いに異なっているとわかるのはよくあることではないだろうか? だからといってわれわれは解決を企てることをやめはしない。心理学者は、実現された目的と立てられた目的の間に異質性があると言う。生活のちょっとした経験が、この法則をわれわれに示している。スペンサー〔→Wikipedia〕はこの法則を自然の中に移植し、そこから、効果の増殖の理論を引き出した*14

神話は、現在に対して働きかける手段として判断するべきである。神話を、歴史の流れに実際に当てはめる方法についての議論は、全て無意味である。神話の総体だけが重要なのである。神話の諸部分が興味をひくのは、それらが神話の構成に含まれる観念に起伏を与えるからでしかない。したがって、社会的戦争のさなかで生じうるさまざまな事件について、また、プロレタリアートに勝利をもたらすさまざまな決定的闘争について議論しても、役に立たない。革命派が、ゼネストについて空想的な絵を作り上げて、たとえそれがまったく間違っていたとしても、もしその絵が、社会主義への熱望を完全な仕方で取り入れているならば、またそれが、他の思考法とは違って、革命的思想全体に正確さと厳格さを与えるならば、この絵は、革命の準備のさなかに、最も重要な要素であり得るのである。したがって、ゼネストの観念の射程を測るためには、政治家や、社会学者や、 実際的科学に対してうぬぼれを持っている人々の間で通用しているあらゆる議論の過程を捨てなければならない。彼らが示そうと努力していることを全て認めてもよい。ただし、それによって、彼らが論駁できると思っていたテーゼの価値は、いかなる仕方にせよ、減ずることはないだろう。ゼネストが部分的な現実性を持っているか、あるいは人民の想像力の産物でしかないかということはほとんど重要ではない。すべての問題は、ゼネストが、革命的プロレタリアートについての社会主義の学説が期待しうるすべてのものを持っているかどうかを知ることである。

同じような問題を解決するために、われわれはもはや未来についてさかしらに議論したりはしない。われわれは、哲学や歴史学や経済学についての高尚な考察に身をゆだねたりしない。われわれはイデオロギーの領域にはいないのであり、観察可能な事実の領域に留まり得るのである。われわれは、プロレタリアートのもとで、真に革命的な運動に積極的に参加する人々に問いかけるべきなのである。彼らは、ブルジョアジーにのし上がろうとなどけっしてせず、その精神は団体的corporatifな偏見に支配されてはいない。こうした人々も、政治学や経済学や倫理学の無数の問題については誤るかもしれない。しかし、彼らと彼らの同志において最も効果的な仕方で働く表現、彼らの社会主義的概念と最も高度に一致しうる表現、そして、理性や希望や個別の事実の認識を分かちがたい統一*15としか見えないものにする表現、そうした表現が何かを知るのが問題であるときには、彼らの証言は、決定的であり、至高であり、不変なのである。
彼らのおかげで、ゼネストが、私が述べてきたとおりのものだということがわかる。それは、社会主義を完全に包含する神話なのであり、すなわち、近代社会に対して社会主義が仕掛けた戦争のさまざまな発現と対応するあらゆる感情を本能的に呼び起こす能力をもった、イマージュの組織なのである。

さまざまなストライキは、プロレタリアートの中に、彼らがもつ、最も高貴で、最も深遠で、最も躍動的な感情を生み出した。ゼネストは、それらのすべての感情を全体的な絵の中に集約するのであり、またそれらの感情を相互に近づけることによって、一つ一つの感情に最大の強度を与えるのである。またゼネストは、個々の闘争の非常に痛ましい記憶を呼び起こしながら、意識に現れた構成を、強度を持った生として、細部にわたって彩る。こうしてわれわれは、そうした社会主義の直観を獲得するのだが、それは言語によっては完全に明晰な仕方で与えられないようなものである。われわれはその直観を、瞬間的に知覚された全体において*16獲得するのである。

ゼネストの観念がもつ力を示す、別の証拠もある。しばしば言われるように、もしゼネストの観念が単なる妄想にすぎないのだったら、議会派社会主義者たちはそれと戦うためにあれほど熱心になりはしないだろう。ユートピア主義者はきちがいじみた希望で人々の目をくらませ続けているというのに、彼らがそれに対して論争をしかけたという話を聞いたことがない*17。実現可能な社会変革に関する論争において、クレマンソーは、人民の幻想を前にしたジョレスの態度が、マキャベリズム的〔にそれを容認するもの〕であることを浮き彫りにした。ジョレスは、「巧妙にバランスをとった物言い」の陰に自分の良心を隠した。しかし、彼の物言いはあまりに巧妙だったために、「まさにその実体を見破る必要がある人々がそれを漫然と受け入れてしまい、来たるべき世界についてのまやかしのレトリックを喜んで浴びるようになった。」(『オーロール』1905年12月28日)ところが、ことゼネストとなると、彼らの態度はまったく違う。政治屋諸君は、込み入った留保をつけて容認する態度とは打って変わって、彼らの聴衆に荒々しい声で語り掛け、ゼネストの構想を捨てさせるように努力するのである。

彼らがこうした態度をとる理由はわかりやすい。政治家たちは、ユートピアを恐れることは決してない。ユートピアは未来の蜃気楼を人々に見せ、「人々を、間近に迫った至福の楽園の実現へと導く。科学的にみれば、その実現があるとすればきわめて長期間の努力の結果でしかありえないにもかかわらず。」(クレマンソーによると、これが社会党の政治家たちがおこなっていることである)。有権者国家の魔術的な力をたやすく信じれば信じるほど、彼らは、すばらしい物を約束する候補者に喜んで投票するだろう。選挙的闘争においては、いつでも公約のせり上げがおこる。社会主義の候補者が、急進的な団体に勝利するためには、有権者があらゆる希望を受け入れる必要がある*18。こうして、わが社会党政治家諸君は、お手軽な幸福を示すユートピアと本気で戦うのを手控えるのだ。

彼らがゼネストと戦うということは、プロパガンダをしてまわっている彼らが、以下のことを認めているということだ。ゼネストの観念は、労働者の魂にこれほどまでに適合しているのだから、それは労働者の魂を絶対的に支配する力をもっているのであり、議会派が満たすことができる欲求など、決して割り込むことができない、ということである。ゼネストの観念は、これほどまでに人を動かすので、ひとたび精神に入り込んだならば、精神はあらゆる主人の支配を逃れ、議員の権力など無に帰する、ということを彼らは知っているのだ。結局、あらゆる社会主義ゼネストによって完全に吸収されるということ、また、ゼネストは、議会派体制がそのために作られている政治家集団の間のすべての妥協をまったく無用なものとする、ということを彼らはうすうす気づいているのだ。したがって、官許社会主義者ゼネストに反対している、ということは、ゼネストの射程についてのわれわれの最初の研究〔の正しさ〕を確証するのである。

*1:専門家、社会主義者として労働者の諸問題を論ずると称する『プティ・パリジャン』は、1907年3月31日号で、ストライキ主義者に対して、「社会的連帯の義務をかえりみなくてもいいと自惚れては決してならない」と警告している。

*2:軍国主義者が大衆の心をとらえはじめていた当時、『プティ・パリジャン』はその愛国主義によって抜きん出ていた。 1905年10月8日には、「神聖な義務」についての記事と「我々の栄光と自由とともに世界を駆け巡る三色旗の崇拝」についての論文が掲載された。1906年1月1日には、セーヌの陪審員に対する賛辞の記事が掲載された。「この高貴な紋章を中傷するものたちによって侮辱された旗の仇が討たれた。旗が救われた。陪審員たちは、お辞儀をする以上のことを行った。彼らは敬意を表して旗の周りに並んだのである。」これは、なんとも賢い社会主義だ。

*3:社会党〕全国評議会において、人々は二つの動議について長々と議論した。一つは、各県の連盟に対して、それが可能ないたるところでの選挙闘争への参加を呼びかけるという提案である。もう一つは、全選挙区で候補者を立てるという決定である。一委員が立ち上がってこう言った。少し注意していただきたい。私が支持しようとしているテーゼは、最初は奇妙で矛盾したものに見えます。しかし、あらゆる矛盾を解決する自然でマルクス主義的な方法に従ってこの矛盾を解決しようとするならば、[この二つの動議は]互いに相容れないものでは決してないのです。」(『ソシアリスト』1905年10月7日)誰も意味がわからなかったようだ。そして実際、それはわけのわからないものだったのだ。

*4:本論の性質からして、この主題について長々と展開することはできない。しかし、ベルクソンの思想の、ゼネストの理論へのより完璧な応用がなされうると私は信じている。ベルクソン哲学において、運動は、不可分の全体とみなされている。まさにここから、我々は社会主義破局的な概念に導かれる。

*5:ブルドー「社会主義の進化」232ページ。

*6:これは例えば、彼らの行動を民事責任から逃れさせる法律の獲得のために、労働組合が払った努力から伺える。

*7:タルドは、シドニー・ウェッブが博していた人気をついに理解しなかった。彼にはウェッブは三文文士としか見えなかった。

*8:メタン『ドイツにおける社会主義』210ページ。この著者は政府から社会主義特権を受け取った。1904年の7月26日、セントルイス万国博覧会のフランス総合委員はこう言った。「メタン氏は民主主義の最良の精神に動かされている。彼はすばらしい共和主義者だ。労働者のアソシアシオンが友人として迎えるべき社会主義者でさえある。」(『アソシアシオン・ウヴリエール』1904年7月30日)政府によって与えられたものであれ、社会博物館によるものであれ、情報網の整ったマスコミによるものであれ、同じような特権をもっている人々についての研究がなされれば、興味深いものとなるだろう。

*9:マルクスがおかした誤謬は数多く、ときには重大なものもある。

*10:その宗教的熱狂を黙示的神話によって保っているイギリスやアメリカの諸宗派が、しばしば、きわめて実際的な人間であったことはたびたび指摘されている。

*11:この学説は、現在では、ドイツの聖書解釈において大きな力を持っている。それはロワジー神父によってフランスにもたらされた。

*12:Cf.「ダニエル・アレヴィへの手紙四」

*13:私は、消え去ってしまったこの社会的神話につづいて、カトリックの生活において重要性を保ち続けているある信仰が現れたのかを示そうとした。こうした、社会から個人への進化は、宗教においてはまったく自然なことであると私には見える。(『ルナンの歴史体系』374−382ページ)

*14:さらに、スペンサーの全進化論は、もっとも通俗的な心理学の物理学への移植ということで説明できるはずだと私は思う。

*15:これもやはりベルクソンのテーゼの応用である。

*16:これはベルクソン哲学の「完全な認識」である。

*17:あれほどの成功をおさめたベラミー〔訳注:エドワード・ベラミー。社会主義ユートピアを描いた予言的SF小説『顧みれば:2000-1887』(1888年)は、アメリカでベストセラーとなった〕の小説だが、私の記憶する限り、官許社会主義者たちがその馬鹿馬鹿しさを人々に示したことはない。それらの小説は、まったくブルジョア的な生活を人々に理想として示したのであり、批判される必要が大いにあった。それらが、階級闘争を知らないアメリカで生まれたのは当然だが、しかし、ヨーロッパにおいて、階級闘争の理論家たちはそれらの小説を理解しなかったのだろうか?

*18:すでに引用した論文の中で、クレマンソーは、ジョレスがベジエにおいて行った大演説で、こうしたせり上げを実行したことを想起している。