ところで、「ニート」は、働きもせず、また学校にもいかないもの、とされているが、そもそも江戸時代には、近代的な「学校」自体がなかったわけで、「学びからの逃走」もなにもない。とはいえ、江戸時代にも、武士のための「藩校」、また平民のための「寺子屋」などはあった。しかし、寺子屋は、明治以降の学校とはまったく違ったものだった。小熊英二の『日本という国』(理論者よりみちパンセ)には、寺子屋が現代の学校といかに違ったものであるかが書かれている。
寺子屋は、いまの小学校みたいに、一斉授業方式でもなければ、教育課程がきちんときまっていたわけでもない。(……)寺子屋は、随時入学、随時退学の場合がおおかった。年齢も七歳ぐらいで入ってくる者もいれば、十七歳くらいで入ってくる者もいた。(……)地方の寺子屋などでは、農業がわりあいひまなとき、「この子も寺子屋に行かせるか」と親が考えたら、それが一月であろうと十一月であろうと、好きなときに寺子屋に入ってくる。(……)そして、各地の寺子屋は、それぞれの寺子屋の師匠が選んだテキスト(……)を使って教えていた。退学するのも、親が「もうこのくらい読み書きができるようになったらいいだろう」と考えたら、五年通おうが、三年だけだろうが、適当に退学する。政府公認の卒業証書なんて、もちろん存在しない。(『日本という国』p.54〜6.)
19世紀ヨーロッパのアナキストたちによる「新しい」学校の構想http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060521/p1は、現代のわれわれには夢想のように思えるが、なんのことはない、近代以前の「学校」とはだいたいそのようなものだったわけである。そして「行きたいときに行ってやめたいときにやめればいいし、行きたくない人ははじめから行かないでいい」というこうした「学校」においては、「「不登校」なんて問題は、おきようもない」わけである。しかし、小熊英二は続けてこう述べている。
しかしそれは、くりかえしになるけれど、「農民の子どもは農民」という身分制度と一体だった。そして福沢〔諭吉〕が述べたように、この状態をほうっておいたら、日本は「西洋」の国ぐにの植民地にされてしまうおそれがあった。
だから明治政府としては、このような教育のあり方をあらためて、義務(強迫)教育にきりかえる必要があった。つまり、六歳の四月になったら、どの子もみんな学校に行かされて、文部省がきめた教育内容をひとしなみに教わる、という形式にね。(同書p.57〜8)
つまり、明治における学校制度の改革は、身分制度にもとづいた機会不平等的前近代的システムの、競争社会的な近代的システムへの転換と対応していたわけである。(つづく)