「負け組」は「社会の解体」の凝縮的表現である。この階級ないし人間群は、社会生活の枠の外へ追放されているから、社会のメンバーの資格を剥奪されている。
「負け組」は、一種の産業廃棄物のごとき存在なのである。くずやぼろといった廃棄物のなかに、生産過程と本来の生産物の負の側面が表現されているように、「負け組」のなかには「市民社会」の負の側面が凝縮的に表現されている。これをマルクスは「社会の解体」のしるしと見た。市民社会は、自分の内部から「もはや社会でないもの」を分泌する。同時に、社会はこの「非社会的なもの」に依存して存続する。
「負け組」は現存の社会構造から排除された存在者であり、社会の内部から見れば、社会構造の内部にはその場所がない非存在である。「負け組」は、社会的非存在であることによって、その現存在(ダーザイン)においてすでに社会的世界の解体であり、社会の変革ないし揚棄(アウフヘーベン)である。しかし事実において社会の解体であり世界の崩壊であるとはいえ、その事実にとどまるだけでは本当の世界の変更にはならないし、なりえない。「負け組」的存在が自己を社会構造から排除された社会的非存在として自覚することが、単なる世界解釈としての哲学を越えて、世界を変えるなかで「哲学を実現する」のである。
(今村仁司「ヘーゲルとマルクス」(『ヘーゲル』講談社2004、100頁 ※ただし「プロレタリアート」の語を「負け組」に置き換えてあります。)