「じゃあどうすればいいか」について

mojimojiさんが、「対案を出せ」論法について書かれていらっしゃいます。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070922/p2
これは、まず「対案を出せ論法批判」が書かれ、最後に、いわば「単純な『対案を出せ論法批判』批判」が書かれる、という構成になっているわけですが、ところが、この記事についたはてなブックマークを見るとhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070922/p2
*1、前半の「対案を出せ論法批判」に対する反発が噴出しています。これを見ても、いかに「対案を出せ論法」が人々の間で強い勢力をもっているかがわかるような気もします。
で、ちょうど昨日、電車に乗っていたらこんなことがありました。私の隣に、20代ぐらいの男女のカップルと思われる人が座っていたのですが、女性が何かのビラを手にして読んでいます。ちらっと見ると「保坂展人」の名前があったので、どうやらオムライス党、じゃない社民党のビラのようです。しばらくして女性が、男性にこのように言いました(正確な表現は忘れてしまったのですが)。

それでどうするのかっていうのがわからないから、この人たちには投票できないんだよね。

まあ、この女性は、政党のビラを受け取り、さらにそれを捨てず、さらにちゃんと読み、さらにそれについての感想を他人に言う、という段階で超超少数派の人ではあるのですが、それにしてもちょっと象徴的な出来事だったので書いてみました。
それから、今たまたま読んでいる、横塚晃一の『母よ!殺すな』の最初の方に、まさに「対案を出せ論法批判」が書かれていたので(mojimojiさんはそれをふまえていたのかもしれませんが)引用します。

 我々がこのように、あるいは特集号で掲げたような問題提起をした場合、まだ討議もされないうちに「じゃあどうすればいいのか」という言葉が返ってきます。この場合私は「そんなに簡単に『じゃあどうすればいいのか』などと言うな」と撥ね付けます。なぜなら相手の「じゃあどうすればいいのか」という言葉は、真にどうすべきかということではなく、我々の問題提起をはぐらかし、圧殺することが目的だからです。私はあの時、我々の目的は、第一は問題提起であると言いました。それは自己の立場を踏まえた現状分析であり、社会と人間との分析であると思います。あるいは最底辺からの、人間各々のもつエゴイズムの暴露であり、人間的、社会的罪の告発ともいえるでしょう。貴君はこのような暴露・告発が果たして何になるのかと言われるかもしれませんが、このことがはっきりしていない限り土台の腐った家の屋根に新しい瓦をどんどん積み上げるようなものなのです。例えば施設の問題一つをとっても、施設を必要とし、それを作ることを要求しているのは、殆どの場合、障害児(者)をもつ(知恵遅れ、精神病者も含め)父兄なのです。にも拘わらずそれが障害者福祉といわれ、障害者の為とされているところにごまかしがあり、いろいろな問題が起きる原因があるのです。先日、青い芝と府中療育センター労組三役との話し合いの席上、労組側から「施設は必要と考えるか否か」という問いが出されました。その時私は「そういう設問の仕方はまちがっている。施設は本来、人間の生活形態としては不自然なものだ。にもかかわらず、施設がないと困る人がいるということは施設そのものが必要悪だということである。悪であるならば、それをいかに少なくするか、その弊害をいかにカバーするかという問題につき当たる筈である。設問のように必要かどうかということで必要という答えが出た場合には、施設そのものが正義とされ、正義の名において人権蹂躙が行われる危険が生まれてくる」と答えました。
 このような我々の問題提起を人々ががっちり受け止めた時、その時が即ち「じゃあどうすればいいのか」と言える時なのです。我々の運動はこの原点にもどすことなのだと思います。(横塚晃一『母よ!殺すな』生活書院、31〜3頁)

長くなってしまいましたが、横塚氏はこのように、「じゃあどうすればいいか」という問いは、「問題提起をはぐらかし、圧殺することが目的」だと言い、そして、「問題提起を人々ががっちり受け止めた時、その時が即ち『じゃあどうすればいいのか』と言える時」だ、と言って、「対案論法」を痛烈に批判します。
しかし、上の文章は、「学校」の問題と直接かかわらせて読むこともできるように思いました。上であげられている横塚氏らの「問題提起」とは、「施設」の問題です。この「施設」を「学校」置き換えると、ひょっとすると学校廃棄論の主張につながるのではないか、と思ったのです。
すなわち、「学校を必要とし、それを作ることを要求している」のは親なのである、ということ。それなのに、「子供の為とされているところにごまかしがあり、いろいろな問題が起きる原因がある」ということ。また、「学校は必要と考えるか否か」という問いは間違っているということ。「学校は本来、人間の生活形態としては不自然なものだ」ということ。「学校そのものが必要悪」だということ。だとすると、悪としての学校を「いかに少なくするか」という問題、あるいは「その弊害をいかにカバーするか」という問題に突き当たる、ということ。「学校が必要だ」という答えが出てしまったら「学校そのものが正義とされ、正義の名において人権蹂躙が行われる危険が生まれてくる」ということ、などです。そうした問いを受け止めずに検討される「改良」とは、「土台の腐った家の屋根に新しい瓦をどんどん積み上げるようなもの」だ、ということです。

母よ!殺すな

母よ!殺すな

*1:ブックマークに何が書かれたかをあまり問題にすること自体問題だとは思うのですが