マスク、身体、自由(1)

ポストモダンと身体論の流行

 『現代思想』2023年4月号の「特集=カルト化する教育新教科「公共」・子どもの貧困・学校外教育』

冒頭の、大内裕和と三宅芳夫の対談、「新自由主義再編下の宗教とイデオロギー」で、大内は、80年代以降の日本における、新自由主義ポストモダンの流行の関係について指摘している。

ポストモダンがヨーロッパやアメリカの近代を批判することを通じて、それらに依拠してきた戦後民主主義を相対化すると同時に、「近代的主体の解体」を唱え、「価値の分散化・多元化」を称揚することで、個性と多様性、消費者主権と協調する新自由主義と接続するコノテーションを強く持っていました。アナーキズムに基づく管理社会批判を行っていたジル・ドゥルーズの著作が、消費社会論の文脈で読まれていたことはその証左です。*1

 三宅はこれを受けて、日本における、ポストモダン的「近代的主体批判」の流れの中での「身体論」の流行に言及している。

七〇年代後半から八〇年代前半にかけては近代的「主体」・「理性」・「意識」を批判すると称して、メルロー゠ポンティなどを引用してむやみやたらと「身体論」が語られました。ドゥルーズガタリの「器官なき身体」やフーコー『監獄の誕生』冒頭の「華々しき身体刑」の箇所なども、元来の文脈から全く切り離して受容されたと言えます。「身体の所作」をレイシズム的に語る三浦さんの議論などは、八〇年代「身体論」が行きついた果て、とも言えるでしょう。また、サントリー財団副理事長の鷲田さんの論理もメルロー゠ポンティの「身体」論と「間主観性」を手掛かりに「近代的主体」を超えるという単純極まる話ですから、これは和辻哲郎の「間柄的存在」とほとんど変わりません。*2

適度な新自由主義

 ところで、同誌掲載の「「新自由主義」批判を超えて「教育と市場、ときどき身体」において、筆者の矢野利裕は、大内裕和の新自由主義教育改革批判「を批判」している。矢野は「大内が「新自由主義」的と捉える「公教育の縮小」は、大枠として管理教育の反省という文脈を持ってもいる*3」のであり、「「新自由主義」批判の名のもとにおこなわれる議論は、論理的に、イリイチが批判した教員の過剰な権威的な態度、あるいは教員の過剰労働を引き寄せてしまう余地がある*4」と言う。
 新自由主義批判が教員の「過度な権威主義」の肯定に帰着する例として、矢野は、内田樹をあげている。教育における「市場原理の導入」を批判しながら、その反動として「教育現場」における現場知のようなものを称揚する*5内田の主張は「あからさまに理不尽な「ブラック校則」をも正当化してしまう」*6 と矢野は批判する。
 このように、管理教育、教員の権威主義を容認する方向に向かう危険性を根拠に「新自由主義批判を批判する」矢野は、では、徹底して管理教育や教員の権威主義を批判する立場に立つのかというと、そうでもない。矢野が大内と内田を一緒くたにしてその新自由主義批判を批判するのは、それがあくまで「【過度な】権威主義」を肯定してしまうから、であるらしい。矢野は権威主義そのものを否定するのではなく、「【適度な】権威主義」はむしろ肯定する立場にたつ。矢野は「ほどほどに学校の消費空間化を認め、ほどほどに権威主義性を維持すること*7」が重要だと言う。つまり、矢野としては、新自由主義批判に反論するからといって新自由主義を全肯定するわけではなく、むしろ、「適度な権威主義」を重視するからこそ、「適度な新自由主義(?)」を容認するべきだ、と、どうやらそんなことを言いたいようだ。
 そして、この適度な権威主義と関連して出てくるのが、「身体性」である。矢野によると「消費空間化する学校と権威主義的なありかたとの引き裂かれを乗り越える教育のモデル」が、「身体性」という観点から示されるのだという。矢野は、山口昌男柄谷行人を引きながら、教師の「芸人的な「教える/売る」身体」と「市場」を結びつける。それによって、「教育を市場の手に売り渡してはならない」と警鐘をならす大内を批判するのである。
 しかし、「身体性」とは、(矢野によると「過度な権威主義」の肯定に陥っているはずの)内田樹の得意とするテーマである。内田は、『私の身体は頭がいい』をはじめ、「身体」という言葉をタイトルに含む著書を、共著も含めると9冊も出している。実際、矢野自身も「身体性の重視は、教員の「権威」を強めることにつながる*8」と言っているのだが、結局は「最終的には押し売りするくらいの身体性によって、やっと教育はなされうる*9」と結論するのであり、これが、教育における身体や現場知を称揚する内田樹の立場とどう違うのかは正直よくわからない。
 このように、矢野はこの論文で、身体を重視する自身の立場を、従来の新自由主義批判を「乗り越えた」、学校の消費空間化と権威主義性のバランスをとった何やら新しい立場のように打ち出すのであるが、冒頭で引用した対談で大内と三宅が言っていたように、消費社会論と身体論の結びつきは、80年代に流行したポストモダン的言説において見慣れたものである。

マスクと身体

 一方、同誌掲載の、岡崎勝による「先生、わたしたちは主体的なのですか?自由なのですか?それとも 生権力に統治される学校と新自由主義的学校化」で、岡崎は、矢野とは違い、論旨の上では一貫して新自由主義に批判的である。同論文「3働き方「改悪」の時代――労働闘争の時代へ」では、岡崎は新自由主義的な「学校における働き方改革」の欺瞞性を激しく批判している。そこで岡崎が依拠するのは、「労働組合」や「労働基準法などの法理念」という、ある意味でオーソドックスな「近代的な」ものである。

新自由主義が学校教育に為した耐えがたい教育改革を厳しく批判するのは労働組合の役割の一つだったはずだ。*10

過酷な労働への対抗理念は労働基準法などの法理念であり、「労働法が是正しようと努めてきたのは、まずなによりも状況の不平等であり、なかでも第一に労働契約の当事者間の経済的不平等である。労働法はまた同じく、あらゆる処遇の不平等を差別の名のもとに禁じてきた」(アラン・シュピオ)(4)という原則に従えばよい。*11 

 これは、「教師の「芸人的な「教える/売る」身体」などというポストモダン的な?概念を持ち出して、学校における適度な新自由主義と適度な権威主義を擁護する、というような矢野の立場よりも、ずっと明快で納得がいくものだ。
 ところが岡崎は、別の部分では、「新自由主義的学校化」を批判するために、「生権力」、「生政治」、「身体」、「規律訓練型と環境管理型」といった、ポストモダン的な概念を持ち出してくる。しかし、そうした部分は、はたして新自由主義の批判となりえているだろうか。同論文「1新型コロナで感染症対策の残したものは何か?――定着する「マスク化社会」」では、岡崎は「感染防止というリスク回避に必要だというマスクの強制は、マスク着用問題が生政治の力学であることをはっきりさせた*12」という。「マスク化社会」が学校にどのような問題を引き起こしたか、というと、岡崎はまず「子どもの管理として、表情が読めない」ということをあげるのだが*13、岡崎によると、「マスク化社会」とは、「危険やリスクの排除のためならば人権や自由も制限可能という暗黙の了解」が広がった社会、ということらしい。

生政治の戦略として、「安心安全」が天下無敵のイデオロギーとなった。「安心安全」のためならば、非常識も常識になるし、話す前に「安心安全」という修飾をつけないと、みんなの不安を煽ることになるという新しい常識もできあがった。これは、危険やリスクの排除のためならば人権や自由も制限可能という暗黙の了解を子どもたちだけでなく大人にも教え込んだことに繋がる。ちょうど、「監視カメラの配備が個人の尊厳を犯したとしても、犯罪は防げるからOK!」という意識に近い。監視カメラと盗撮カメラの違いがはっきりしなくなっているのと同じなのだ。*14 

(「マスク、身体、自由(2)」に続く)

 

*1:現代思想』2023年4月号、Kindle版(以下誌名は省略)、位置No.521-526.

*2:位置No.571-577.

*3:同誌、位置No.1136-1137.

*4:位置No.1144-1146.

*5:矢野が引用する文章において、内田は、教育においては、「長い経験を通じて工夫された」「場合によってはなんの役に立つのか教育現場にいる人間にもよくわからない「取り決め」や「約束」が」あり、それを現代人の感覚で「よくわからない」から廃止するというようなことはしないほうがいい」と言っている(位置No.1148)

*6:位置No.1157.

*7:位置No.1223

*8:位置No.1271.

*9:位置No.1287.

*10:位置No.1661-1662

*11:位置No.1681-1685

*12:位置No.1366-1376

*13:位置No.1376

*14:位置No.1407-1412