『嘔吐』新訳とSome of these days(追記あり)


上は、サルトルの『むかつき』という小説の主人公、ニートろかんタンです。
……というわけで、このたび、サルトルの有名な小説『むかつき』=『嘔吐』の新訳が人文書院から出たのです。

嘔吐 新訳
嘔吐 新訳
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J‐P・サルトル
人文書院
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『嘔吐』の原著が出版されたのは1938年です。1947年に白井浩司さんが最初の翻訳を出版し、その後その訳は1951年に人文書院の「サルトル全集」に入ったようです。1994年に、白井浩司さんによる改訳新装版が出ていますが、新たな訳者による新訳としては60年ぶり、というわけです。今回の新訳の訳者は鈴木道彦さんです(日本サルトル学会の会長さんもあります)。人文書院の商品説明によると、新訳は「若い読者にも長く読みつがれるように読みやすく訳した軽装版(人文書院の商品説明)」になっているということです。たとえばほんの一例ですが、前訳では、カフェのボーイの「ズボン吊り」となっていたのが、「サスペンダー」になっていたりします(笑)もちろん、読みやすいだけではなく、プレイヤード版にもとづき、60年前から今日までの研究成果もふまえた正確な訳であることも言うまでもありません。
ただし、タイトルに関しては、旧約、じゃない旧訳の『嘔吐』を踏襲しています。この本の原タイトル"La Naus〓e"は、「吐き気」という意味であって、「嘔吐」つまり「吐くこと」という意味はありません。この邦題のおかげで、『嘔吐』というのは主人公がマロニエの木の前でゲロをはく小説だ、と思い込んでいる人が日本にはけっこういるのではないでしょうか? 旧訳のタイトルが『嘔吐』になったのは、旧訳訳者白井さんが、書名としてのおさまりを考えて、あえてつけたタイトルだということです。というわけで、新訳あとがきによると、最初鈴木さんは、今回の新訳で、邦題をより原題に近い『吐き気』に変更する予定だったそうです。しかし、結局迷った末に旧訳と同じ『嘔吐』に決まったということです。鈴木さんもあげている『星の王子様』(これも原題とはズレている)と同様に、『嘔吐』も、なんというか邦題としてあまりに定着してしまっている、ということはあるかもしれません。これを変えるなら、合田正人さんがサルトル入門書『サルトル『むかつき』ニートという冒険』(理想の教室)でやったように、『むかつき』ぐらい大胆に変えないと、『吐き気』では、ちょっとインパクトが弱いでしょうね。
また、装丁についてですが、1994年に出た新装版はハードカバーだったのに対して、今回の新訳は、昔のサルトル全集を思わせるソフトカバーにもどっていて、とてもいいです。お値段も、1900円と手ごろになっています。表紙は、現在のfolio版の原書と同じく、アルブレヒト・デューラーの版画「メランコリア」です。これは、出版前の『嘔吐』のプロトタイトルのひとつが、サルトルがこの版画から発想してつけた『メランコリア』だったからです。

some of these daysについて

さて、『嘔吐』で登場するシーンで有名なのはなんといっても「マロニエの木」ですが、もう一つ、主人公がカフェで「Some of these days」という実在するジャズの曲のレコードを聴くシーンも、(すくなくともサルトルに関心を持つ人のあいだでは)結構有名です。

私はウェイトレスを呼ぶ。
「マドレーヌ、お願いだからレコードで、一曲かけてくれないか。ぼくの好きなやつを。ほら、Some of these days(いつか近いうちに)だよ」(……)

  Some of these days  (いつか近いうちに、いとしい人よ
  You'll miss me honey. 私の不在を寂しく思うでしょう)

 いったい何が起こったのか。〈吐き気〉が消えたのだ。
(新訳37,41ページ)

ところで、たとえば、映画やドラマの中で何かの曲が使われたらその曲のCDが売れるなんていうのはよく聞くはなしです。同じように、ある作家のファンで、その作家が小説のなかで登場させている絵を見てみたい、曲を聴いてみたい、という人もいるでしょう。実際、サルトルがインスピレーションを得たデューラーの版画は表紙にもなっています。ところが、サルトルが作品の中で非常に重要な役割を与えている曲である「Some of these days」を実際に聴いたことがある人って、なんとなくですが、あんまりいないような気がするんですよね。
で、これはまあ気のせいかもしれませんが……。これまで日本で出た、サルトルの『嘔吐』について書かれた研究書や解説書で、デューラーの「メランコリア」について触れたものはけっこうあると思いますが、その場合、著者はその版画を当然実際に見て、どんな版画なのか知っている、という雰囲気がなんとなくただよっているような気がします。一方、Some of these daysについては、もちろんそれに触れた本はたくさんあるはずですが、その中で、実在するその曲がいったいどんな曲なのか、ということを書いているものを、すくなくとも私は見たことがありません。こんなに重要な曲なのに、「そもそもその曲を実際に聴いたことはありませんがそれが何か?」という雰囲気が文面からただよっているような気がします。これが、ジャズの曲ではなくベートーベンとかモーツァルトとか、クラシックの曲だったらまた違うような。しかし、サルトルは、あえてクラシックではなく(当時の)ポピュラー音楽であるジャズの、しかも実在の曲を選んだと思うのですが……。なんだか結局、クラシック音楽や古典的絵画には詳しくて当然だけれど、それ以外についてはよく知らなくても当然、という雰囲気が、従来のサルトル研究にもあるような気がするんですよね……。*1
というわけで、前置きがえらく長くなってしまいましたが、それはともかく、『嘔吐』を読んだら、Some of these daysって、作品のなかであれほど重要な位置づけをされている曲なのですから、いったいどんな曲なのかふつうに気になると思うんですよね。まず、『嘔吐』新訳303ページにあるSome of these daysについての注です。

この曲は実際に存在しており、作者サルトルの若い頃にはレコードで広く普及していた。プレイヤード版注釈者によれば、この歌詞とメロディは、カナダ生まれの黒人シェルトン・ブルックスによって一九一〇年に作られ、ロシア生まれのユダヤ人女性歌手ソフィ・タッカーによって歌われた。サルトルは後段で、これがユダヤ人作曲家によって作られ、黒人女性歌手によって歌われたと書いているが、ソフィ・タッカーはデビュー当時、顔を黒くしてステージに立ったらしく、ヨーロッパではしばしば黒人歌手と思われたという。

で、この曲が明るい曲なのか、暗い曲なのか、テンポはどのぐらいなのか、それによってずいぶん作品の印象は変わると思います。しかし、たしかにかつては、大昔のジャズのレコードなんて、じっさいなかなか入手しにくかったと思います。ところが、いまは違います!すばらしいインターネッツというものがあるのです。かくいう私も最初にSome of these daysを聞いたのは7・8年前でしかないのですが、インターネット上のどこかで、ソフィー・タッカーのmp3ファイルをひろって聴きました。今はさらにyoutubeというものがありまして、ソフィー・タッカーがこの曲を歌う映像も簡単に見ることができます。
で、インターネット上にかぎってもいくつかのバージョンの演奏が聴けるのですが、実際サルトルが聴いたバージョンはどれなのでしょうか。『嘔吐』本文の記述はこうです。

それはルフランの歌がついている古いラグタイムだ。一九一七年にラ・ロシェルの町中で、アメリカの兵隊が口笛で吹いているのを聞いたことがある。きっと大戦前に作られたのだろう。だが録音はずっと最近のものだ。ともあれそれはコレクションのなかのいちばん古いもので、サファイアの針で聴くパテ社のレコードだ。(新訳39ページ)

英語版wikipediaのsome of these daysの項目にはこうあります。

Ted Lewis and his band backed Sophie Tucker on her classic, million-selling 1926 recording that stayed in the #1 position on the charts for five weeks beginning November 23, 1926, and re-affirmed her lasting association with the song.[1]

サルトルが『嘔吐』を書き始めたのは1931年なので、サルトルが聴いたのはこのヒットしたという1926年の演奏である可能性が高いですかね*2。(Ted Lewisについてのwikipedia記事
このバージョンは、↓にあります。
http://www.archive.org/details/somotday1926
直リンもしておきます。

some of these days(1926)
Download

どうでしょうか。私が最初に聞いたときは、意外と明るい曲だな、と思いました。
youtubeには、ほかのバージョンもありますが、ソフィー・タッカーが歌っている映像つきのファージョンを紹介します。20秒当たりから登場します(いつのものかはわかりません。モニターを撮影したものぽくて映像は悪いですが)。

ロシア生まれのユダヤ人女性歌手ソフィ・タッカーについては、ソフィー・タッカーについての米wikipedia記事をごらんください*3。あとは、「ソフィー・タッカー」でググって得たウンチクなのですが、ビートルズがイギリス王室主催の「ロイヤル・ミュージック・パフォーマンス」でTill There Was Youという曲を演奏したときに、ポールがMCで「次の曲は僕らの大好きなアメリカのグループ、ソフィー・タッカーの曲です」というギャグを言って、爆笑を誘った、のだそうです。「ソフィー・タッカー、グループじゃねえしwww」てことなんでしょうが……爆笑するほどなのかはよくわかりません。*4
これが↓その時の映像ですね。

さいごにもうひとつだけウンチク。上記の注にある「タッカーはデビュー当時、顔を黒くしてステージに立ったらしく」ですが、白人が顔を黒くしてするショーというのは、ミンストレル・ショーといって、かつてアメリカで広く行われていたショーの形式なのですね。wikipediaのミンストレル・ショーの項目によると、「職業的なエンターテインメントとしては1910年頃まで生き残り」とありますから、タッカーはこのショーを職業的に行っていた最後の世代なのかもしれません。
ソフィー・タッカーのwikipediahttp://en.wikipedia.org/wiki/Sophie_Tuckerを見ろ、といっていながら自分がちゃんと見ていなかったのですが、彼女のblackfaceについても、詳しく書いてますね。それによると、彼女がblackfaceでショーに出たのは、劇場支配人から「too fat and ugly」だからそうしろと言われたから、らしいです。その後、ある日出番の直前に黒塗りメイクのセットを盗まれてしまって、しかたなくそのまま出演したところ、そっちのほうがウケた、ということで、以後黒塗りをやめた、のだそうです(ちょっとできすぎた話ですが)。また、彼女は単にミンストレルの伝統にしたがって演じることにあきたらず、アフリカン・アメリカンの歌手にレッスンを受けたり、アフリカン・アメリカンの作曲家やとったりしたということです。
それから、彼女は1925年からMy Yiddishe Mommeという歌を歌い始め、1928年には全トップ5ヒットになったそうです。これはA面が英語、B面がイディッシュ語で歌われていたそうです。
ミンストレル・ショーのwikipediaはかなり詳しく、興味深いですね。

1850年代、その主な焦点が階級から人種に代わった時、ミンストレル・ショーは明らかに悪意のある、奴隷制を支持する内容となった[18]。大部分のミンストレルたちは、いつも歌って踊れて、彼らの主人を楽しませる朗らかで単純な奴隷を演じ、非常に美化して誇張した黒人の生活のイメージを与えた(それほど頻繁ではないが、主人が黒人の恋人や強姦された黒人女性を捨てるという描写もあった)[19]。歌詞と台詞は、一般的に人種差別的で風刺的で、多くは白人に由来するものであった。奴隷が、彼らの主人の下に戻りたがっているという内容の歌は豊富にあった。そのメッセージは明確に、「奴隷のことは気にするな、彼らは生活のほとんどにおいて幸せである」という内容であった[20]。北部に移り住んだダンディの姿や、ホームシックになった元奴隷といったキャラクターは、黒人は北部の社会に属していないし、また属したいとも思っていないという考えを補強するものであった[21]。

というところなど、今の日本のエンターテインメント、これに類するようなものいくらでもあるな、という気がします。

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2 『嘔吐』はもう読まない

*1:いやもちろん、研究者ならポピュラー音楽についてもウンチクを語れ、とか言いたいわけではないのですが。だいたい「若い読者」の世代にはジャズだってかび臭い古典音楽でしょうし、しかもSome of these daysは、1920年代の、ジャズの中でもさらにかび臭いジャズです。

*2:「古いレコードだ。地方であっても古すぎる。パリでは探しても無駄だろう。」(新訳289ページ)ともあるのでちょっと微妙ではありますが。

*3:In 1938, Tucker helped unionize the American Federation of Actors and was elected its president. In 1939というのはちょっと興味深いですね。

*4:ティル・ゼア・ウォズ・ユー(wikipedia)