さようならCP

 さて、かつて餅月あんこ氏もよく利用されていると言っていた(最近は知らん)町田ソフマップに、iPodを買いに言ったのですが……。在庫なし。お金はらっとくと入荷次第連絡がくるとか。めんどくさいので帰ってきてしまった。京ポンは取り寄せ注文したのですが、なんか、iPodは「それ下さい」と買いたかった(<特に意味はない)。で、上の階のレコファンに行ったら、ずっと探していた『さようならCP』のDVD(中古)と感動的な出会い!帰ってきて早速みました。
 いまごろ観たのか、と思う人もいらっしゃるでしょうが……衝撃的でした。『ゆきゆきて神軍』『全身小説家』の原一男のデビュー作(1972年作品)。ちなみに、マイケル・ムーアはたしか「原一男を尊敬しているがオレにはとてもああいうのは撮れない」というようなことを言っていた。

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 CPとは、Cerebral Palsy=脳性マヒの頭文字である。70年代、その「過激」な闘争スタイルで時代を駆け抜けたCP者の団体「青い芝の会」。この映画は、「彼等の”肉体”と生活、思想との対決を16ミリにとらえた画期的なドキュメンタリー(DVD作品解説)」である。

 1970年を前後して台頭してくる障害者運動の新しい波=障害者解放運動は、障害をネガティブなものと捉え、その除去や軽減・矯正の必要性を自明視する考え方や、施設への隔離・収容をもって問題の解決とするような福祉のあり方に異議を申し立て、その根本的な見直しを迫った。そうした新しい障害者運動のなかでも、もっともラディカルな問いを提起し、運動をリードしたのが青い芝の会である。
(倉本智明「異形のパラドックス―青い芝・ドッグレッグス・劇団態変」石川准・長瀬修編著1999『障害学への招待』明石書店 221-2頁)

 1970年に横浜で起きた障害児殺人事件で、加害者の母親に対する減刑嘆願運動が起こった。この時、青い芝神奈川連合会は減刑反対のカンパニアを展開する。こうした運動の中で、横田弘起草になる有名な「行動綱領」が生まれる。

一、われらは自らがCP者であることを自覚する。
 われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。

一、われらは強烈な自己主張を行う。
 われらがCP者であることを自覚したとき、そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である。われらは強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。

一、われらは愛と正義を否定する。
 われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。

一、われらは問題解決の路を選ばない。
 われらは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行うことのみわれらの行いうる運動であると信じ、且つ行動する。

一、われらは健全者文明を否定する。
 われらは健全者文明が創り出してきた現代文明がわれら脳性マヒ者をはじき出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動および日常の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明を告発することに通ずることを信じ、且つ行動する。

 「強烈な自己主張」を行い、「問題解決の路を選ばない」彼等の行動は、車イスによるバスへの強行乗車・占拠闘争、福祉施設事務室のバリケード封鎖、といったカゲキなスタイルをとった。彼等はまさしく、社会に「波風を立て」、「愛と正義」を否定し、「健常者」との間に「緊張」を作り出そうとした。http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20040717#p1こうしたスタイルは、当然、激しい批判を呼び起こした。しかも、「青い芝批判にもっとも熱心だったのは、むしろ、旧左翼勢力の一部」であった(倉本同論文、249頁)。
 青い芝は、現在の支配的文化を「健全者文明」と呼ぶ。健全者文明にとって、「障害者」は、「他者」である。健全者文明は、「健常者」の身体・ふるまい・ライフスタイルに普遍的価値を与え、「障害者」のすべてに否定的な価値をあたえる。いやむしろ、健全者たちは、障害者を否定的なものとして「つくる」、というべきだろう。
 「歩く」ということが「普通」のことだから、「歩けない」ことは「普通ではない」――こうして、「不幸な」「かわいそうな」障害者、という存在がつくりあげられる。
 だが、実は「健全者文明」なるもの自体が、「障害者」を他者としてつくることの反作用として「つくられる」ものなのである。青い芝は、「健全者文明が創り出してきた現代文明がわれら脳性マヒ者をはじき出すことによってのみ成り立ってきた(行動綱領)」と主張する。青い芝の運動をリードした一人であり、この映画の主人公といってよい横田弘は、映画の中で朗読される詩「足」の中で、そのことを「わたしたち」につきつける。

「足」
私のまわりに集っている大勢の人々
あなた方は、足を持っている
あなた方は、あなた方は、私が、あなた方は私が歩くことを禁ずることによってのみ
その足は確保されているのだ
大勢の人々よ
たくさんの足たちよ
あなた方、あなた方は何をもって、私が歩くことを禁ずるのか

 「わたしたち」が自明なものとしている「足」、それは、彼ら障害者が「歩くことを禁ずることによってのみ確保されている」。車椅子を降り、路上を這いながら道行く人々に詩を朗読する横田は、そう叫ぶ。
 「障害者」は、健全者の否定的まなざしによって「つくられる」(同時に、「健全者」も、障害者に否定的まなざしをむけることによって「つくられる」)。問題は、健全者による、障害者に対する否定的なまなざしを、障害者自身が内面化してしまう、ということである。(続く)

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