愚考

 「『国家は』『家族は』『○○は』幻想だ」という言い方がある。それに対して、「○○は幻想なんだから壊してしまえ」と言う人もいれば、「○○は幻想なんだけれど、そういう幻想は世の中がうまく回っていくために必要なものなのだから、幻想だからと言って壊してしまわないほうがいいのだ」という言う人もいる。
 この二番目の言い方をする人は、「幻想なんだから壊してしまえ」という人を批判してこう言う。「壊してしまえという人は無責任だ。そう言う人は、壊れてしまった後責任をとれるのか。自分は、壊れても傷つかない高みにいるからそういうことが言えるのではないか」と。
 が、そう言って一番目の言い方を批判する二番目の言い方をする人も、それはそれでどうなんだろうか、と私は思う。
 二番目の言い方をする人は、いったいそのメッセージを誰に向かって言っているのだろうか。もしその人が、本当に、「○○は世の中が回るために必要なものだ」と思っているのだとしたら、「本当は幻想なんだけど」などと言うべきではないだろう。○○の効果を上げるためには、なるべく多くの読者が○○を信じるように、「○○は幻想なんかじゃない、実体なんだ」とむしろ強調するはずだろう。
 たとえば、国民全員が、「本当は国家なんか幻想なんだけどこれはあった方がいいから信じておこう」と思っている、などという事態は、私には異様に思える。「国家という幻想」は、「『国家は幻想ではなく実体である』という幻想」によって機能しているはずである。「これは幻想なんだ」と思われた段階で、その幻想はもう幻想としては機能しなくなりかけている。
 結局、さっきの二番目の言い方をする人、というのは、実はメッセージの宛先を限定しているのではないか? そういう言い方というのは、「私の文章の読者である君、君はアタマがいいから、○○が幻想だって気づいているよね。だけど、この幻想を信じているバカな人が多いほうが世の中うまく回るんだよ」という「選ばれた」ものへの著者のめくばせを、読者が感じるようにできているのではないか。ところで、メッセージは、限定されることによって付加価値が生まれたりする。限定品をみんなが欲しがる、というのはどの業界でも同じだ。
 「業界裏話」が受ける回路、というものがある。「ほんとはテレビの裏側なんてこんなもんなんだよね」と業界人達が語りあう場面を、みんなが見たがる。というわけで、テレビをつけると何のことはない四六時中裏話をやっている、というわけだ。それは結局、視聴者が全員「テレビのタテマエを信じてしまっているバカな視聴者と違って、自分だけは業界の裏に通じているんだ」と思いたがっている、ということだ。
 きれい事を言うようだけど、私はそういう構図が好きではない。
 私はできればそういう語り方をしたくない。「分かる人だけ分かればいい」というような業界裏話的文章を、裏話が受ける(つまり、みんな「分かる人」になりたがっている)とわかりつつ書く、というようなことをしたくない。……というこの文章自体も、裏話的じゃないかって?うーん、まったく矛盾していますね。が、勢いでアップします。