偽善者について

まずその前に自分が「偽善者」と言われないように注意したいと思います。(12日コメント欄)

 いえ、そんな必要はないんじゃないでしょうか。偽善者で何が悪い、と思います。いや、偽善者は、まさに善人なのです。シブさんも言っています*1

だいたいね 日本人のなん人かが偽善者だったとしても べつに さしさわりはないじゃないか たとえばだね…ケンの母さんが偽善者だったとしても 本ものの善人とおなじことをするなら… 善人の条件をそなえてることになるだろ…… ちゃんと善いことをするなら 偽善者でも善人だし べつにふつごうはないじゃないか…

 なんて。
 ちなみに、「善人」の本質的「偽善者」性を指摘したのが、サルトルです(cf.『聖ジュネ』)。サルトルによると、「善人」(まっとうな人々)というのは、「悪人」(たとえばジュネ)を怪物として作り出し、いわばその反作用で、自らを「善人」として作る人々、つまり「善人」になる人々です。サルトルは、「悪」を排除することで「善」を作り出すこの社会のシステムを根底的に批判しました。サルトルはこの社会の本質的偽善者性を暴き出し、徹底的に「悪」の側につこうとした人であって、彼が「正義の人」だなんてまったくの誤解だ、と私は思います。
 しかし、同じく偽善者性を批判しているといっても、最近見られる、たとえば市民運動家プロ市民と揶揄するような類のものは、実はサルトルの「善人」批判とはまったく違うのです。なぜなら、他人を偽善者よばわりする彼らは、まさしく、「偽」善ではない、「ホンモノの」善なるモノを信仰しているからです。
 いや、言い方を変えましょう。たとえば、「口先だけで正義を声高に叫ぶ人」を「正義の人」と言って揶揄したりする人というのは、もちろん、正義を声高に叫んだりはしていない人なのでしょう。しかし、なぜ彼らが「正義の人」に絡むかというと、結局、「正義の人」が善人と見なされ、自分たちが善人と見なされないことがシャクだ、ということなわけです。ということは、彼らは「善人と見なされたい」のであり、「善人になりたい」のであり、この社会での「善」の価値を認めているのです。いいかえれば、ここには「正義の人」に対する嫉妬というかルサンチマンがある。いわば、彼らもこの社会での「善人ゲーム」の「勝ち組」になりたいのです。そしてそれは、彼らがまさに、「善」を作り出すこの社会のシステムにとらわれてしまっているということなのです。
 さらに言い換えてみます。「善人ゲーム」や「カシコイ人ゲーム」というシステムによって抑圧されているわれわれの不満が、ゲームやシステムそのものの批判へと向かわずに、「インテリがきれい事を言って反戦とか言って、善人扱いされているのはシャクだ」というような形で現れてしまう。さらにそこに別の人がやってきてこう言うのです。「ああいうインテリは本当は偽善者でバカなのだよ、君たちの方が本当はカシコイのだよ」と。しかし彼は、この社会での「善人ゲーム」や「カシコイ人ゲーム」での単なる別のルールを持ち出しているだけなのです。そうした人が持ち出してくる理屈の中に、例えば「正義の人は本当は不正を望んでいる」というものも使われるわけです。難しいのは、システムの外、ゲームの外に出ようとしていたサルトルニーチェの理屈が、しばしばシステムを補強する理屈として利用されてしまう、ということです。
 いったいどうすればいいのか……さしあたり、「社会」の根源的「偽善」性を批判しつつ、個別の問題に対してはあえて「偽善者」になっていく、という戦略しかないのでは、と思うのですが。*2
 というわけで、これはいま書いている「承認をめぐる闘争」の話につながるのですが、それはまたということで、とりあえず。

*1:cf.http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050604#p1

*2:大変難しい問題だと思います。全然うまく書けていないのですが。