殺される人

 最近はじめた「はてブ」経由で、Deadletterさんがかつてこのように書いていたことを知りました。via:http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20050611#p1

「J.P.サルトル−A.カミュ論争」で、共産主義に傾倒していくサルトルの「革命」に異議を唱えるカミュが「強制収容所」の問題を追及したのだが、それに対してサルトルは、共産主義と聞けばすぐに鬼の首を取ったように「強制収容所」を持ち出すカミュは本当は心の底では「強制収容所」の存在を喜んでいるのではないか、自説の正しさがそれによって証明されたその喜びに打ち震えて隠し切れないといったように得意げに「強制収容所」の問題について語る、そういうのは下品だ、と斬って捨てていたのを、こんな時僕は思い出してしまう。

例えば「小泉の構造改革では日本経済は破綻しかねない」と反対している人たちは、言っていることとは裏腹にあらゆる経済指標の悪化に小躍りしているだろうし、教育問題にことのほか口を出したがる人たちは、少年による凶悪事件の頻発を待望するだろうし、自分の子供を交通事故で無くした親が、悪質ドライバーの問題を告発する時でさえ、これは公然と言うのは本当に憚られるのだけれども、多分彼らは自分たちの子供の起きたようなことが他にも多く起きて欲しいと願っている。

当たり前のことなのだが、「不正」を告発するにはまず「不正」が存在しなければならない。ありもしない「不正」を糾弾することは出来ないからだ。だからこそ「不正」を告発しようとする人たちは「不正」を待望するようになる。これは多分必然的なメカニズムだと僕は思う。僕たちは「不正」に依存せずに「正義」の側に立つことが出来ない。

もちろんサルトルは何も「不正」を告発することなんて「偽善」に過ぎないのだからそもそも無意味だなどということを言ったのではない。「不正」に依存せずに「正義」の資格を得られると信じ込み、得意げになって「不正」を言い立てるその態度を「下品」だと言ったのだ、と僕は思う。

大切なことは「正義の人」にならないことなんじゃないだろうか。

「正義」の人はそうであればあるほど必然的に「不正」に汚染されている。そして「不正」があってはならないことである以上、それを待望する声高な「正義」は出来うる限り無いほうがいい。最も理想的なのは「正義」の告発なしで、誰も知らないうちに「不正」が消滅しているというかたちではないだろうか。もちろん現実的にはそういうことは難しい。だからこそ「不正」を「不正」と認識し、告発する「正義」はなくてはならないものなのかもしれない。でも「正義」というのはそもそも不健康で下品なものだ、しかもそれが声高であればあるほど、という認識はやっぱり持っておきたい、と僕は思う。

と、ここまで書いてきてなんなのだが、どっかで似たような話をウェブ上で読んだ気がする。それが何処なのか、ちょっと思い出せないので、もし似た話を見かけたらメールでも下さい。でもそうなると僕も無意識のうちに「パクリ」をやっていることになるのだろうか。うーん。
http://deadletter.hmc5.com/diary/past/2002-july.htm(7月16日)

 「正義の人は無意識に不正を待ち望んでいる」というのは、たぶん内田樹さんがよくしている話ではないかと思うのですが、ところがその内田さんは、カミュサルトルという問題に対しては、サルトルを「正義の人」として批判し、カミュをいわば「ためらいの人」として全面支持しているというのは皮肉な話です。つまり、サルトルを「正義の人」として批判する内田さん自身が、無意識のうちに、サルトルの語法を採用していたわけですね。
 「得意げになって『不正』を言い立てるその態度が『下品』だ」というのはわからないではないけれど、では、品よくしていればそれでいいのかというと……。ただ、「最も理想的なのは「正義」の告発なしで、誰も知らないうちに「不正」が消滅している」というのは少し気になります。その「誰」とは誰なのだろうか、と思うのです。声高な告発なしでは(あるいはそれがあっても)「われわれ」が「不正」を知らない、知ろうとしない、ということこそ問題だと思うのです。そして、告発されて後ろめたく思う人たちは、実は「告発する人が品のない振る舞いをすること」を無意識のうちに待望しているかもしれない。なんて言い方だってできてしまうように思うのです。
 いずれにせよ、たとえば強制収容所で死んで行った人たちは、カミュサルトルのどっちが品がいいか、あるいはどちらが「正義の人」であるのか「ためらいの人」であるのか、といったこととは無関係に、ただ「殺される人」であった。言い換えれば、「正義の人」が望んでいようがいまいが、まさに望まずして殺されていったわけです。しかしでは、「われわれ」は「正義の人」や「ためらいの人」以外の何でありうるのか。非常に難しい問題ではあるとおもう。
 しかし、最近の雰囲気でいうと、「正義の人」の品のなさよりも、むしろ得意げになって「正義の人」を批判する人たちの品のなさの方が目立つような気がするのだけど、気のせいだろうか(つまり「正義の人」を批判する人自体がまさしく「正義の人」になってしまっているというか)……。


 ※ 念のためにつけくわえますが、言うまでもなく私はDeadletterさんが「得意げになって「正義の人」を批判する人」であると言いたいわけではまったくありません。Deadletterさんのブログhttp://deadletter.hmc5.com/blog/を読んでいる人には明かなように、Deadletterさんご自身はまさに「不正を告発する人」であって、その上で、自戒を込めて「「正義の人」になってはいけない」とおっしゃっているのだと思います。