パブリックとプライベート

 公共性という話は、いろいろな話が絡まってきて私の手に負えなくなります(笑)*1
 が、突っ込まれること覚悟でとりあえずもう少し考えてみます。近代的な公共空間なるものの成立は、私的(プライベート)な空間の成立と表裏なわけですが、考えてみれば、「メンヘル系」の「無断リンク禁止」を「身勝手」と叩く人々も、パスワードというシステム自体は批判しない。パスワードを設定してプライバシーを守ること自体は批判しない。実際、彼らも、「公共のリソース」である例えばメールサーバー上に、パスワードで守られた「プライベートな空間」を確保しているのでしょう。しかし、無断リンク禁止はネットの理念に反していて、メールサーバーの一部をパスワードで独占することはネットの理念に反しない、となぜ言えるのでしょうか? ちょっと素朴すぎる問いかもしれませんが。
 ちなみに、近代的なブルジョア道徳を激しく批判したサルトルは、「プライバシー」などというものも、当然否定しました。これは哲学上の「内面性の哲学」批判ともちろん通底しています(くわしくは『図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)』を)。サルトルは実生活上でもそれを実践しようとし*2たとえば手紙や日記などは、すべて公開しています。しかもそこには露悪的とも言える「プライベート」な内容が書かれています。実際サルトルは「私生活」に関したことでマスコミなどから激しく叩かれましたが、サルトルがそれに対して「プライバシーの保護」を訴えたなどという話は聞いたことがありません。私は、そういうところがサルトルの魅力の一つだと思っています。
 いずれにせよ、「他人のプライバシーを暴く快楽」をもって「メンヘル系」のサイトを晒し物にする人も、「そういう人がいるのもネットだ、あきらめろ」とうそぶくような人も、やはり、サルトルほどの度胸もなく、自分の「プライバシー」はしっかり守っているのだろうな、と思わなくもなかったりします。

*1:幅増すとかハーバーマスとかアーレントとか?その他諸々

*2:まあいろいろ欺瞞はあったにせよ