魔法使いの肖像──サルトル『ユダヤ人問題についての考察』についての考察──

一年前ほど前に某紀要に書いた「魔法使いの肖像──サルトルユダヤ人問題についての考察』についての考察──」という論文をアップロードしました。
http://www.geocities.jp/sartla/ronbun/mahotsukai.html
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これは、タイトルにもあるようにサルトルの『ユダヤ人問題についての考察』(邦訳は岩波新書の『ユダヤ人』)を論じたものです。この本で、サルトル反ユダヤ主義者、「差別主義者」を批判しているのですが、同時にサルトルは、返す刀でというか、リベラリズム、民主主義者の「平等主義」をも辛らつに批判しています。そのことは、こちらhttp://watashinim.exblog.jp/8879908でも紹介されています。
サルトルは、民主主義者の「分析的精神」を批判します。
拙論から引用します。

 分析的精神の考えるような社会では、個人は分解できない固い粒子であり、人間性の乗り物であって、グリーンピースの缶詰のなかの一粒のグリーンピースのように存在する。まんまるで、自分を閉ざし、他と連絡がない。[SII18/13]

 分析的精神によると、個人は、「自己同一」identique 〓 lui-m〓meなものである。また、諸個人は、「人間の本質」essence d’hommeを分かち持つ限り「平等」〓gauxであるSII18/13]。こうして、分析的精神にもとづくブルジョアジーは、旧体制社会の基礎であった、人間の「本性の差異」diff〓rences de natureを否定し、「普遍性の神話」mythe de l’universelを作り上げた[SII18/14]。それに対して、サルトルはこう言う。

 われわれは分析精神を排して総合的な現実感を求める。そうしてその原理は、一つの全体toutはその何たるを問わず、各部分の総和sommeと本性において異なる、ということである。[SII22/16]

 『ユダヤ人』にもどれば、分析的精神の持ち主は、反ユダヤ主義者という一人の人間を前にして、その人間を「要素の総和」に還元すると同時に「要素としての個人」に還元することになる。しかし、それは、ユダヤ人という一人の人間を前にした場合も同じである。彼らは、一人のユダヤ人を、単なる要素としての「個人」に、つまり「人権と市民権の抽象的・普遍的主体としての人間」[RQJ68/65-6] に還元する。「ユダヤ人」はいない。抽象的「人間」がいるだけである。彼らは、ユダヤ人たちを、宗教・家族・民族的共同体から引き離し、各個人が、モザイクのピースや缶詰の中のグリーンピースのような「孤独な個体」として「たった独り、はなればなれの状態で存在する」ようにする。具体的にはそれは、「同化政策」となる[RQJ67/65]。彼らはそれが「平等」であり、ユダヤ人問題の解消だ、というわけである。分析的精神の持ち主とは、すなわち「民主主義者d〓mocrate」である。

 サルトルは、「分析」の立場を批判して、「総合」(総和ではなく)あるいは「全体」の立場に立つわけですが、ところが、反ユダヤ主義もまた総合の立場だ、とサルトルはいいます。そういう意味では、サルトルは「民主主義者」と対立するという点においては、自分の立場は、反ユダヤ主義と共通点をもつ、と言うのです。が、ではどこで反ユダヤ主義のいわば「全体主義」とサルトルの立場(これもある意味では「全体主義」です)は区別されるのか、ということに関して、総合(サンテティック)と混合(サンクレティック)の違い、に着目して分析したのが拙論の後半です。論文でははっきりかきませんでしたが、サルトルが否定する反ユダヤ主義のような人種主義は、「情動」や「想像」による人間の結合で、サルトルが肯定するような結合(後に『弁証法的理性批判』などでは「集団」と呼ぶもの)は、「行動」(直接行動のイメージ)による結合なのです。
また、これも論文には書きませんでしたが、「混合的」と訳したサンクレティックという言葉は、メルロ=ポンティの『行動の構造』で「癒合的」と訳されている言葉です。
 やたら引用が多すぎる、という私の大昔のクセが出てしまっていたりして、論文としては読みにくいと思うのですが、内容的には、面白い部分もあるんじゃないか……と思うのですが、どうでしょうか。

*1:校正で直す前のテキストファイルから作ったので、cinii掲載のpdfhttp://ci.nii.ac.jp/naid/110006824919と微妙に違っているところがあるかもしれません。