11月公開の映画「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」試写を見ました


 11月公開*1の映画「サルトルボーヴォワール 哲学と愛」>>公式サイトの試写会へ行ってきました。この映画は、もともとフランスのテレビ局france3で2006年に放送されたテレビドラマです。2005年はサルトルの生誕100年だったのですが、そのとき、このドラマが製作中であるとういうわさは聞いていました。しかし放送されたのは2006年で、結局私は今まで未見でした。おそらく、サルトルボーヴォワールを俳優が演じた、彼らが主役の映画やドラマは、はじめてだと思います*2
 とても面白かったです。こう言ってはなんですが、期待以上でした。この映画の邦題は「サルトルボーヴォワール」となっていますが、二人の描かれ方の比重は明らかにボーヴォワールに傾いています。というか、むしろボーヴォワールが主人公の映画と言っていいと思います。そもそも、この映画の原題であるLes Amants du Flore、つまり直訳すると「フロール(※パリにあるカフェ)の恋人たち」というのは、ラストシーンを重視するならば(この程度はネタバレではないと思いますが)「ボーヴォワールサルトル」および「ボーヴォワールオルグレン(※ボーヴォワールの愛人だったアメリカ人作家ネルソン・オルグレン)」を指しています。つまりサルトルは明らかに脇役です。
 そして、この映画は、明確に(単純化されている部分もあるかもしれませんが)フェミニズムの視点にたった映画となっています。しかし、このことは意外というわけでもなく、サルトルボーヴォワールらの死後約30年たった現代、たとえば、中途半端にサルトルを神話的な人物として描きつつ、ボーヴォワールは添え物のようにしか描かないような映画が作られたとするならば(この映画がそうなっていたら嫌だな、と思っていたのですがそれは杞憂でした)、それはサルトルに対してもボーヴォワールに対しても実存主義に対しても冒涜だと思うので、こうした描き方は必然的なものであったとすら思います。つまり、こうした描き方がされてはじめて、サルトルボーヴォワール実存主義のことを全く知らない人に対しても、実存主義というのは、「なんだか昔流行ったらしい哲学のナツメロのようなもの」ではなく、たとえばフェミニズムの源流でもある、現代にも息づいている、反権威主義の思想なのだ、ということが「正しく」伝わると思うのです*3
 それにしても、日本のゴールデンタイムのテレビドラマでたとえば大杉栄伊藤野枝が描かれることがあったとして(それ自体限りなくありえなさそうなのが情けないですが)、それが、伊藤野枝を主人公としたフェミニズム的なドラマとして作られるかというと……非常に怪しいですね。大杉を主、伊藤を従とした単なるゴシップ的男女関係としてしか描かれなさそう……。
 ちなみに、拙著『サルぢえ』すなわち図説 あらすじでわかる! サルトルの知恵 (青春新書インテリジェンス)では、ボーヴォアールとサルトルとの関係について188-90ページでこのように書きました。

 サルトルボーヴォワールは、法的な結婚はせず、同居もせず、いわゆる「事実婚」の状態だった。今でこそ珍しくないそうした男女関係も、当時は相当に大胆なことだった。ふたりの関係は、女性に従属的な位置を強いる従来の婚姻関係を否定し、自由で対等な新しい男女関係を作っていこうとしていた人々を勇気づけ、実際に社会を変えるきっかけにもなった。
 しかし実際には、理想と食い違うさまざまな問題点を抱えていた。
 サルトルボーヴォワールに、お互いの一時的な恋愛を縛らないように提案し、「君との恋は必然的なものだが、人間は偶然的な恋愛も体験しなければならない」と言った。それは結局、女好きのサルトルに都合よくできた仕組みであったともいえるのだ。
 事実、サルトルボーヴォワールの教え子オルガ(※映画ではルミという名前で登場)も含め、生涯にわたって数多くの女性を愛人としており、ボーヴォワールにはすべてをオープンにしていたといいながら、実際には彼女に嘘をついてごまかすこともしばしばだった。
 一方、ボーヴォワールサルトル以外の男性と恋愛関係を持っていた。1947年にアメリカ旅行中に出会った作家のネルソン・オルグレンと3年間情熱的な恋をした(……)。
 しかしながら、ボーヴォワールサルトルの言いなりで、思想的にもサルトルの影響から独立できなかったというような評価は、まったくの誤りである。ボーヴォワールからサルトルへの思想的影響もあるし、彼女はサルトルを批判してもいる。男性中心的な哲学の世界を、女性哲学者の先駆者として切り開いた功績も正当に認めるべきである。

 そして、映画では、サルトルが上で書いた意味でどうしようもない男だった、ということが、きちんと正確に?描かれていました。
 というわけで、ボーヴォワールが主人公で、サルトルをダメ男として描く、というのは、ある意味必然的でありまあいいのですが……ただ、サルトルを読んだわけでもないのに、「サルトル哲学は一時もてはやされたが、デリダフーコーにコテンパンに批判されつくされ、彼の哲学書に今でもリーダブルなものはひとつもない」みたいなしょうもない「現代思想ウンチク」をどこかで仕込んでしまった人(これがまたけっこういるわけです)が、この映画を見たらどうなるか……。「サルトルって、デリダフーコーにコテンパンに批判されたダメな思想なんだけどさ、人間的にも問題があったていうことがなかなかよく描かれてたね、この映画」とか言ってそうで……。ていうか、そういう人は「今さらサルトルでもないでしょ」とか言って映画自体けなしてそうだな(笑) ま、いいか、そういう人たちはほっといて。
 ところで、この映画(というかフランスにおいてはテレビドラマ)のwikipedeaフランス語版の解説ではhttp://fr.wikipedia.org/wiki/Les_Amants_du_Flore、リアルな伝記映画というよりは通俗映画、のように書かれていますが、結構事実関係はきちんと調べて描かれていたと思います。*4一般にはあまり知られていないことかもしれませんが、バイセクシュアルとしてのボーヴォワールもかなり主題的に描かれていました。wikipediaフランス語版では、ボーヴォワール役の人はなかなか良かったけどサルトル役はいまいち、みたいに書かれていますが、確かにそうかも。まあサルトルは脇役なので…。ただ、サルトルの声が、実際の低いダミ声とは正反対のむしろ甲高い声で、そこだけはちょっと気になりましたけどね(てこんなマニアックなことが気になる人はまあいないと思いますが…)*5
 あと、実在人物なのですが実名ではなく名前が変えられていた登場人物もかなりいました。ボーヴォワールの自伝でも、実在人物が、諸事情によって(本人や遺族が存命だったりして)名前が変えられているケースがかなりあるのですが、この映画では、ボーヴォワールが自伝で使用した仮名ともまた違った仮名が使われていました。そのへんのところが気になる人も(ごく少数)いると思いますが、パンフレット(試写会用は試作品なのかもしれませんが)には仮名と実名との対応なんかもちゃんと書かれていて至れり尽くせりです。
 サルトルが主役の映画が作られるとしたら、この映画のような、ブルジョア批判しつつエリートブルジョアだった前半生ではなく、晩年の、どんどん極左になっていき、極左の若者に擦り寄っても馬鹿にされたり、労働者階級に「知識人と労働者は一つになろう」なんて呼びかけても無視されたりする情け無くもかっこいいサルトルを描いた映画を見てみたいかなあ。
 ところで、この映画、昔観た映画「フリーダ」にちょっと雰囲気が似ていたかも、というような気がしてきました*6。あれも、フリーダ・カーロを主人公に、フェミニズム的な視点がありつつ、夫ディエゴ・リベラを女好き左翼のダメ男として描く、という感じだったと思います。オルグレンに対応するのはトロツキーということになりますね。昔(「ホームページ」の時代に)書いた感想にあるように、観た時はあまり面白いと思わなかったのですが、今観たら感想が違うかも。

*1:渋谷ユーロスペース(東京)。その他の場所の公開予定はこちら>http://tetsugakutoai.com/theaters.phpちなみにユーロスペースでは10月22日から「百合子ダスビダーニャ」http://yycompany.net/も公開されます。

*2:ちなみに、オードリー・ヘップバーン主演のハリウッド映画「パリのアメリカ人」には、サルトルがモデルの哲学者、フロストル教授というのが出てきますが。

*3:……と、言うのは好意的すぎる見方で、フランスでの(特に知識人界での)サルトル不人気というかサルトル嫌悪(サルトル・フォビア)の流れの中でサルトルが悪く描かれている、て単にそれだけのことという可能性もなくはないですが。

*4:ただ、細かいところでは、ボーヴォワールにカストールとあだなをつけたのはルネ・マウーだったはずなのがサルトルに変えられていたり、とか結構変えているみたいですが…

*5:もうひとつ、これはご愛嬌といったところですが、テレビドラマということもあると思いますが、ちょっと低予算なところが感じられるところも…。とくに、当時(1940年代後半)のアメリカの街中のシーン結構あるのですが、おそらくロケも行かずセットも作らず、当時のアメリカの映像をつないでごまかしていたと思う(笑)

*6:そんなに映画を観ない私なのであてにならない比較ではありますが。