「サルトル嫌悪」を超えて*1

J.-P.サルトル著『家の馬鹿息子3』書評
週刊読書人』2007年3月2日号掲載http://www.dokushojin.co.jp/70302.html

(うち)の馬鹿息子がやっと出たよ。
▲ほう、三留してたお前のアホ息子、やっと大学を卒業したんかいな?
■いや、サルトルのだよ。
▲へえ、サルトルの息子も劣等生か。
サルトルに子供はいないよ。『家の馬鹿息子』というサルトルの本がやっと出版されたんだ。
▲え?サルトルってまだ生きてたんか。確かしばらく前に生誕百年とか言うてたけど、えらい長生きやな。
■いや、サルトルは一九八〇年に死んでいる。『家の馬鹿息子』の原書は一九七一年から七二年にかけて出版されたのだけど、遅れに遅れていたその翻訳の第三巻が、世紀をまたいでやっと出たのさ。
▲ふーん。それにしても、サルトルといえば『嘔吐』や『存在と無』は有名やけど、『家の馬鹿息子』て聞いたことないな。変なタイトルやけど、そもそも何の本なんや?
■一言で言えば、十九世紀フランスの作家ギュスターブ・フローベールの伝記だよ。「家の馬鹿息子」とは、外科医の次男で、劣等生だったギュスターブのことだ。といっても、これはただの伝記ではない。全三巻で二八〇〇ページ(原書)というとてつもなく長いこの本は、サルトル思想の集大成といってもいい重要な著作。一人の人間が周囲の人間や社会によってどのように「作られる」か、同時に彼がその作られた側面を乗り越え、独自なものとしていかに「自分を作る」かを、社会と個人の視点を往復させながら描いた壮大な作品だ。晩年のサルトルは全精力を傾けてこの本を執筆したが、失明によって未完に終わった。
▲へえ、また大層な本を書いたもんやな、サルトルは。せやけど、それやったら翻訳が遅れたのも無理はないちゅうこっちゃな。
■それにしても、翻訳の前巻が出版されてから十七年も間があいたというのは異常だよ。それに関して、後書きで、訳者の一人海老坂武氏がこんな異例のコメントを書いているんだ。「訳者たちの、とりわけその一人の怠慢のために刊行が遅れてしまったことを、著者ならびにこの本の刊行を待たれていた読者の方々に心からお詫び申し上げたい。」「他方、出版社の責任も重大である。三名の訳文がほぼ十五年前に出来上がり、一名だけが未提出という長期にわたる異常な状態を放置せず、積極的に解決に向けての努力をすべきではなかっただろうか。」
▲ふーん、後書きで共訳者と出版社を批判するちゅうのはめずらしいけど、そら確かにとんだ「放置プレイ」や。まあそれでも、今回完訳されたんやろ? めでたいこっちゃないか。
■それが違うんだ。今回出た翻訳第三巻で、やっと原書の三分の二が訳されたにすぎないのさ。しかも、海老坂氏は、今後翻訳の続巻が出版されない可能性を示唆していて、「出版の中断となるとこれは大変残念なことであり、大きな知的損失である。若い研究者たちがなんらかの形で後を引きついで完訳にこぎつけることを願わずにはいられない。」と書いているんだ。
▲何やて?!うーん、サルトルいうたら思想界の大物や思てたけど、意外とシビアなもんやな。
■意外でもないんじゃないかな。僕は今回の事態も、「サルトルフォビア」の現れだと思うよ。
▲さるとるふぉびあ?何やそれ?
構造主義の流行以後、サルトルの思想・行動が、激しく批判された。フランスでも、その後を追って日本でも、今でも続いている。そうした現象を「サルトル嫌悪(フォビア)」と呼ぶサルトル研究者がいる。サルトルの全てを執拗に否定するバッシングも多いが、同時に目立つのが、サルトルの思想や行動の過小評価だ。サルトルは無視されるか、珍しく言及されたと思ったら、必ず「今さらサルトルでもないが」「哲学者としては二流だが」とかいう枕詞がくっついている。耳にたこができたよ。『家の馬鹿息子』についても「無駄に長いだけ」なんて言う人もいる。しかし、やたら長くて読みにくい本なんて、構造主義以降の「現代思想」にもいくらもあるけど、そういうのは「深淵で斬新」とされるのさ。
▲うーん、おおげさやな。サルトル研究者としての被害妄想ちゃうか?
■それを言うなら、サルトルを過剰に「小物」と見なそうとするのはまさしく「恐怖症(フォビア)」の症状なんじゃないか、と思えるね。たとえば「今さらフェミニズムでもないが」なんてセリフは君も聞いたことがあるだろう。サルトル・フォビアとはつまり「バックラッシュ」だと僕は思う。フェミニズムにせよ、サルトルにせよ、既存の社会の枠組み、アカデミズムの枠組みをはみ出し、それを大きく変えようとした(変えた)存在だったからこそ、今、揺り戻しが起こっている。サルトル思想の無害化、矮小化の言説は、変化に対する「恐怖」の現れじゃないだろうか。まあ、大家として奉られ「ほめ殺し」されるよりも、嫌われてこそサルトルだと思うけどね。考えてみてよ、サルトルを批判する現代思想研究者で、反体制的なスタンスを示している人も多いけど、彼らの中に、サルトルほどにアカデミズムの中で嫌われ、嘲笑されている人がいるだろうか。
▲ははは。その屈折の仕方は、まるで昔の阪神ファンやな。

永野潤(ながの じゅん)
東京都立大学他非常勤講師
専攻 哲学

家(うち)の馬鹿息子 3
ジャン‐ポール・サルトル著 / 平井 啓之訳 / 鈴木 道彦訳 / 海老坂 武訳 / 蓮実 重彦訳
人文書院 (2006.12)
通常2-3日以内に発送します。

「書評」になっていない、という説もあります。関西弁は、ニセ関西弁です*1。なぜ関西弁にしたかというと、最初改行ができないと思っていたこともあり、なるべく二人のせりふが区別ついたほうがいいかな、と思って。
それから、海老坂氏のあとがきにも明記はされていないし、確認したわけではないので、本文では遅れた訳者が誰かは明記しませんでしたが、おそらく蓮實重彦氏だと思います。

*1:一応ネイティブチェック(和歌山出身・在住者=父)は受けようとしたのですが「どうせニセ関西弁だからこんなもんでいいだろう」という反応で、結局私が書いたままです。