http://kamapat.seesaa.net/article/11697509.html
http://wasedadetaiho.web.fc2.com/i/top.htm
http://a.sanpal.co.jp/graffiti417/
私は、これらの事件は重大な出来事だと思っているからこそこれをここに書いているわけです。が、同時に、正直言って、何かむなしさを感じないでもない。というのは、この事件が重大だという感覚を持つ人自体が、ひょっとするとかなり少数派なのではないか、という予感がするから。
たとえば、いとうせいこうのようにhttp://diary.nttdata.co.jp/diary2006/01/20060116.html前代未聞のこの早稲田の事件について「大学は終わった」という感覚を持つ人もいる。しかし、ある意味で、もうとっくに大学は終わっていた、ような気もするのです。例えば私が大学生だったとき、つまりもう20年も前からすでに、「ビラをまく人」に対して冷淡な、あるいは無関心な大学生が大多数でした。そう言えば、私が通っていた大学では、民青の人々が、学内でビラをまく「ニセ左翼暴力集団」(と民青に呼ばれていた人)を取り囲み、追い出す、という光景がしばしば見られました。でも、多くの学生は、追い出される人々はもちろん、追い出す民青をも、冷淡に眺めているだけでした。ましてや、今の大学生は、「民青て、何?」状態ではないでしょうか。当時、学内で孤軍奮闘してビラを作っていたKさんという一年上の人は、自分たちを「生徒」と自称する「学生」が増えていることをよく嘆いていました。20年前からそうだったわけです。今はおそらく「○○大学の「生徒」」という言い方に何の違和感も持たない「学生」がほとんどでしょう。
「ホームレス」「反戦ビラをまく人」「反戦落書きを書く人」は迷惑だ、という感覚は、昔からあったけれど、今は特に「当たり前」の感覚になってしまっているような気もするのです。ただ、その感覚には、いろいろなものが含まれているような気がするのです。
まず、「ビラをまく人」といった、いわゆる「主張する弱者」に対する強いいらだちの感覚があるように思う。しかし、「○○は迷惑だ」と言う人は、実際には○○に特に「迷惑」を受けているわけではなかったりする。ビラを受け取ったからといって、読みたくなければ捨ててしまえばいいわけだし、実際はたいして迷惑を受けているわけではないと思う。にもかかわらずなぜそこまでの「いらだち」を示すのか。
要するに、例えばビラをまくという行為そのものが自分たちになんらかの損害を与えているとかそういう問題なのではなく、「迷惑をかけてはいけない」という自分たちの守っている規範を逸脱する存在が許せないということではないか。自分たちは小さい頃から「人様に迷惑をかけてはいけません」と言われ続け、そう努力してきた。「なのにあいつらはなんだ(ずるいぞ)」というわけです。その意味で、「迷惑」とは、実は「『迷惑をかけないこと』をしないこと」なのかもしれない。実際は、例えば過労死寸前まで酷使する会社に「迷惑をかけられている」のに、そのことに「私たち」は「文句」を言ったりはしない(それはみんなに「迷惑」がかかるから)。で、むしろ「文句」を言う「あいつら」(主張する弱者)を、「迷惑」と非難する。
しかし同時に、「迷惑な人」の存在は、逆に必要とされている面もある。「迷惑をかけてはいけません」という規範は、「『ああいう人』になってはいけません」という言い方によって補完される。その意味で、「迷惑をかけないこと」とは、「『ああいう人』にならないこと」でもある。つまりなんのことはない、「ああいう人」とは、「私たちではない人たち」であり、同時に「私たち」とは、「ああいう人ではない人*2」として析出される、というわけです*3。
しかし、「迷惑な人」に対する非難が、人ごとのような、高みから諭すような、冷笑するような口調を持つ原因は、次のようにも考えられるのではないか。まず、例えばビラをまくというような行為が、取るに足らない、趣味的な、いわば「私的な」ものと見なされているということ。行為そのものに関しては、冷淡、あるいは無関心な態度がとられる。「すきにすれば」「勝手にすれば」というわけです。非難されるのは、そうした「私的な」行為が「公的な」場所に持ち込まれた(と見なされた)時です。「そういうのはお仲間同士で勝手にやっててよ、みんなが興味あるわけじゃないんだから」。これは、まあ結局「そういうのはチラシの裏にでも書いてろ」というあれですね。
と、いまさら言うまでもないことを長々と書いてしまいました。まあとりあえずアップします。