この人要らないんじゃないか

 喫茶店で大学生ぐらいの男女が話をしていた。なんかいつも立ち聞きをしているようだが、ついまたその一部が耳に入ってきてしまった。女性の方が、どこかの公共施設にスタッフが多すぎるのではないか、と感じた話をしていた。「無駄な人が多すぎると思う」というようなことを言っていた。そのようなことを誰かに言ったところ、「地域の雇用創出という意味では、そういう考え方は間違っている」とその誰かに諫められた、というような話もしていた。しかし、彼女は納得がいっていないようだった。「いつもあそこにいくと、あ、この人要らないじゃん、とか思うんだよね」と。
 もちろん彼女は、「その人」が、単に「そこのスタッフとして」要らない、と言っているだけであって、「その人」の生存そのものを否定する意味でその言葉を使っているわけではない、のだろう。だから、彼女の言葉に反応してしまう、というのは、クビキリという言葉を使う人を見て、「『首を切る』とはなんと残忍な」と感想を持つのに類することであることはわかっている。……でもなあ、とちょっと思うのである。
 彼女はたぶん、「自分のことだけ考えてちゃいけない。もっと社会のことに目を向けなきゃ」とまじめに思ったのだろう。実際、相手に、「ゴメンね、こんなまじめな話して」というように言っていた。その結果が、「あ、この人要らないんじゃないか」というのが、何とも言えない気分になった。結局「社会について考える」というのは、「会社の立場に立つ」こととイコールなのだろう。
 でも無理もないと思う。テレビでは「改革」「改革」と言われていて、でそれは何かというと、結局「無駄な人を減らす」というイメージしかない。特殊法人には、郵便局には、「無駄な人」が多すぎる。だからそれを減らすしかない。もちろん自分がその「無駄な人」だとは思ってはいない。あるいは思いたくない。「切り捨てられる人の気になってみろ」という人はわがままな人だ。改革に抵抗する人だ。「既得権益」を得ている人だ。「自分のことしか考えてないのはいけない。もっと社会全体のことを考えないといけない」と。
 もちろん、「私が言っているのは会社のことじゃない、公共施設のことなんだ、だからそこで払われているのは私たちの税金なんだ」と彼女は反論するだろう。しかし、そこが曲者だと思う。結局、「税金なんだ」「みんなのお金なんだ」「彼らは公僕なんだ」というのは、「人の上に立つ」立場、「人を僕としてとらえる」立場へ罪悪感なく同一化するための便利な言い訳、という面があるのだ。そのような感覚をもって「社会」を見ることに慣らされることによって、次第に、あらゆる面で、人間を「効率」「有用性」というファクターでしか見られなくなっていくのかもしれない。
 もっとも、万一彼女がこの文章を読んだとしたら、失礼な立ち聞きオヤジに片言をとらえてえらそうに論評される筋合いはない、とたぶん腹を立てるだろう。先にあやまっときます。すいません。