パット・メセニーと政治、その他

こんなものジャズじゃない!

 大学生のころ、開局したばかりのJ-WAVEをよく聴いていて、そこでパット・メセニー・グループの曲がしょちゅうかかっていたのだが、好きになれなかった。ジャズと言えばフォービート、という凝り固まったリスナーだったのだので、いわゆる「フュージョン」に対して、「こんなものジャズじゃない!」ぐらいの勢いで嫌悪していた時期があったのだ。しかし、だいぶあと、1990年代になってから、周りの人の影響やなんかで、「フュージョン」とひとくくりに敬遠していたいろいろな音楽を聞きなおし、そうした偏見は少しずつなくなっていった。ハービー・ハンコックの「アクチュアル・プルーフ」を友人に聞かせてもらって「なんだこれ?!」と思ったあたりからはじまり、チック・コリアのRTF、ジョン・スコフィールド、などにはまり、ウェザーリポートや電化マイルスのもの凄さを20年以上遅れて再確認した時期があった。
 それでもパット・メセニーはどうも今一つピンとこなかった。周囲のジャズファンにあまりにもてはやされているような気がして、それに対する反発もあったかもしれない。しかし数年前、いまさらもいいところだが、80年代あたりの全盛期のメセニー・グループも集中的に聴きなおした。……メセニーファンのみなさん、すいませんでした。やっぱりかっこいいと思いました。自分がどんどんフツーのジャズファンになって行くようで、それはそれで面白くないと思ったりもするが……。

こんなものアメリカじゃない!

 前置きが長くなったが、最近、パット・メセニーが、自身のfacebookに、ある投稿をした(https://www.facebook.com/PatMetheny/videos/10154416371239926/
 そこでパット(本人?)は、「Remember this song?(この曲覚えてるかい?)」というコメントだけを付けて、パットとデビッド・ボウイが競作し1985年に発表された「This is Not America(これはアメリカではない)」という曲のPVを貼り付けていた*1

*1:この曲は、同年制作のアメリカ映画『コードネームはファルコン』(原題:The Falcon and the Snowman)の主題歌として作られた。パット(とライル・メイズ)は映画本編の音楽も担当しているようである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%B3

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「サルトルと革命的サンディカリスムの思想」

『人文学報』(504),2015年3月,首都大学東京人文科学研究科,pp65-88.

一 ペルーティエと革命的サンディカリスム

(省略)

二 サルトルと革命的サンディカリスム

一 「共産主義者と平和」と革命的サンディカリスムの思想
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○○に政治を持ち込むな

 最近、「音楽に政治を持ち込むな」論争というものがあったそうだが、サルトルは、1952年の「共産主義者と平和」という論文で「労働運動に政治を持ち込むな」という主張を批判している。それについて去年「革命的サンディカリスムとサルトルの思想」という論文を書いた。
 この論文の前半部分は、革命的サンディカリスムの思想についてかつて書いたものを一部書き直したものだが、後半部分は、サルトルが「共産主義者と平和」の中で革命的サンディカリスムに言及している部分について論じた。というわけで、その部分を再録することにする。注にも書いたが、この論文は、『労働と思想』(堀之内出版、2015年)所収の拙論「サルトル──ストライキは無理くない!──」の補論なのである。『労働と思想』もよろしく。

f:id:sarutora:20160823002538p:image

 さて、この論文で論じたように、サルトルは、「共産主義者と平和」において、「政治」と「経済」を相容れないものだとする考え方自体を批判する。そして、労働者の行動は、政治的と標榜しようと非政治的と標榜しようと、【政治的でしかありえない】と結論づけるのである。

サルトルによると、労働運動を「経済」に限定すべき、と主張することは、「雇用者たちに最高の贈り物をすること」つまり、ブルジョワジーを利するだけである。そもそも、「政治」と「経済」の二つの領域の分離は、ブルジョワジーが自らに都合のよいものとして作りだしたものでしかない。ブルジョワ経済学者は、労働者の賃金を決定する「賃金鉄則」を提唱したが、それは搾取者たちを免罪するものであった。(……)つまり、「経済」と「政治」の分割を認めることは、労働者にとって罠に陥ることであり、自らの手足をしばることになるのだ。しかしサルトルは、「労働者は経済の領域で自己の利益 intérêt を守ることに甘んずればよい」という主張に対して、「労働者の利益とは、もはや労働者ではなくなるということであるように思われる」と言う。つまり、労働者が搾取される階級社会の廃絶こそが労働者の「利益」だ、ということである。そもそも、サルトルも言うように、資本主義社会の労働法自体が、「経済」と「政治」との区別を前提として成り立っている。そこでは、賃上げ要求などの「経済的スト」は「良いスト」とされ(それを逸脱するスト(つまり政治的なスト)は「悪いスト」とされている。(……)しかし、ストライキの権利を職業上の権利要求に制限するという【ブルジョワジー】の決定は、自らの利益をみすえた、【すでに政治的なもの】である。また逆に言えば、労働者がブルジョワジーによる政治的決定を容認し、自らその行動を「基本的な権利要求」に限定したなら、それ自体もまた一つの政治的態度を取ったことになる。つまり、サルトルによると、労働者の行動は、政治的と標榜しようと非政治的と標榜しようと、【政治的でしかありえない】のである。その意味で、サルトルは「客観的には労働組合運動(サンディカリスム)は政治的である」と言う。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20160822/p2

WAR IS OVER

久しぶりにはてなにログインしてダイアリーの下書き一覧を見ていたら、2010年に下書きを書きかけて結局公開しないままになってしまっていた記事があったので、一部を公開します。

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20年ほど前のことです。「西側」メディアは、冷戦の終結を寿ぎ、うかれさわぎました。「「敵」はやぶれた!つまりわれわれの正しさが証明されたのだ!世界に平和がおとずれた!」というわけです。しかし、本当に世界に平和がおとずれたのだとすれば、すなおに考えればそれはすなわち、戦争も、軍隊も、なん回も世界を滅亡させることができる核兵器も、そんなものはぜーんぶ必要なくなった、という意味でしかありえないはずです。というわけで、ベルリンの壁をこわすお祭り騒ぎは、ただちに、全世界の基地の壁をこわし、兵器を廃棄し、兵士が軍服を脱ぎすてるお祭り騒ぎに移行したはずですよね? そう、ちょうどこんなシーンのように。

↑なにやってるんだよお!                  ↑よこしなさいよお!*1
え? そうなってない? どういうことですか?


「戦争をやめろ」「ひとごろしをやめろ」という「あたりまえの」(あえてこの表現を使いますが)「庶民感覚」があります。ところが、御用学者やテレビコメンテーターは、「戦争をなくせとか基地をなくせなんていう考え方は、素朴すぎるナイーブな考え方なのだ」としてバカにし、まるでそんな感覚を持っていること自体が恥ずかしいことであるかのような印象操作をします。一方では、反戦を訴えるひとびとをゆびさして、「あれは現実をしらずに理想論をとなえているインテリなのだ、あなたたち健全な庶民とは違う存在で、あなたたちをバカにしているのだ、だまされてはいけない」などと言うわけです。


鳩山は「学ぶにつけ、駐留米軍全体の中で海兵隊は抑止力として維持されるという考えに至った」と発言しました。「抑止力のために沖縄に基地が必要」という理屈があちこちでもっともらしいものとしてふりまかれていますが、事実はまったく正反対といっていいでしょう。つまり、「沖縄に基地をおくために抑止力という方便が必要」とされているわけです。基地を沖縄に押し付けつづけるために、「抑止力」などというもっともらしい「必要性」がでっちあげられているわけです。

*1:未来少年コナン』第19話より。軍事都市インダストリアの部隊がハイハーバーという島を占領していたのだが、コナンらのゲリラ活動と大津波のせいで、部隊は戦意喪失、占領は不可能になった。

「ニッポンは素晴らしい」

 また、サルトルか、と思う方もいるだろう。が、また、サルトルである。あしからず。とはいえ、サルトルのこの辺のものを掘り起こすのもおそらくここぐらいだろうとも思う(それはそれである意味絶望的なことでもあるのだが)ので、まあいいだろう。
 今回のサルトルは、1957年のサルトルである。1957年5月*1サルトル主宰の『現代』誌135号に掲載され、その後、論文集『シチュアシオン V』に再録された「みなさんは素晴らしい」という文章である(«Vous êtes formidables», dans Situations, V [«Colonialisme et néocolonialisme»], Gallimard, 1964. /二宮敬訳「みなさんは素晴らしい」『シチュアシオン V』(サルトル全集第31巻)所収、人文書院、1965年*2)。
60年前に書かれたこの文章、正直、「え?これ、今のニッポンのことを書いたんじゃ?!」としか思えない文章である。……いやあんた、サルトルについて書くときそんなことばっかり言ってるね?と思う人もおられることだろう。ええ、まあそうなんじゃが、だってそうなんだから仕方ない! というわけで、もう解説は要らない。たんたんとサルトルの文章を紹介するだけで十分と思われる。

*1:邦訳では3月になっているが、誤り。

*2:『シチュアシオン V』の諸論文の一部は、『植民地の問題』人文書院、2000年に再録されているが、残念ながらこの素晴らしい「みなさんは素晴らしい」は、再録されていない。

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「偽装」と「ねらい」

「被害者」と「加害者」

 「仮放免者の会」のブログで、「難民偽装問題」をめぐる読売新聞での報道の問題点についての記事が連載されています。
第1回 http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html
第2回 http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html
第2.5回 http://praj-praj.blogspot.jp/2015/09/830.html
 とてもわかりやすく、読売に対する反論というだけではなく、入管問題全体の理解に役立つような記事です。
 このブログ連載で批判対象となっている読売新聞の一連の記事は、難民申請者の外国人たちを「偽装難民」と決め付けつて貶めるものです。ところで、これらの記事は、(彼らの言う所の)「偽装難民」が増えることが一体どのような問題を引き起こしている、と言いたいのか。結局彼らは、「「偽装難民」が増えることで、偽装ではない「本当の」難民を救ける自分たちの立派な事業が邪魔されて迷惑している」とでも言いたいようなのです(以下引用は特にことわりがない場合、上記の、「仮放免者の会」ブログ連載よりのものです。引用元のURLと見出しは注で示しています)。

 法務大臣、入管当局幹部、および読売新聞社によると、「偽装申請」は「救済されるべき難民の保護の遅れにつながる」から問題である、というわけです。こうした論拠にしたがって、難民審査の効率化と、申請者の就労制限が主張されています。*1

 つまり彼らは、まるで自分たちが「本当の難民」の味方であるかのような顔をして、問題が外から、つまり「偽装難民」という不届きな者たちから来ている、と嘆いてみせるわけですが、実際はどうなのかというと、むしろ、「難民問題」を作り出しているのは当の自分たちなわけです。

そもそも、「偽装申請」が取りざたされる以前に、日本の難民政策が「救済されるべき難民の保護」と言うにあたいする内実をそなえたものであったためしがあったでしょうか。
たとえば、他の難民条約加盟国の多くが例年4〜5ケタの難民認定数を出しているなか、日本のそれは2013年が6人、2014年が11人にとどまっています。この数字だけみても、「救済されるべき難民の保護」について、日本がこれまできわめて消極的な取り組みしかしてこなかったことはあきらかです。*2

 そして、「仮放免者の会」ブログ記事の他の部分を読めばわかるように、日本政府は、難民たちに対して「消極的な取り組みしかしていない」どころではなく、難民たちが人権を認められた当たり前の生活を送ることを阻害している、という意味で、むしろ積極的に難民たちに迷惑をかけている側なのです。
 一連の読売の記事は、「仮放免者の会」ブログが言うように「まるであたかも、外国人が日本の法秩序をゆるがせる加害者であり、日本国と日本人はその被害者であるかのような、まったく実態とはさかさまな構図がえがかれる*3」という点で、悪質なものです。 
 それにしても、実質的加害者が被害者に責任転嫁して被害者面をし、さらには「このままでは本当に困っている人を救えない」などと善人面をする、しかもマスコミを使ってキャンペーンという構図……。どこかで見たことがありますね。そう、こちらの記事http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20121213/p1でもかつてとりあげましたが、水際作戦や、極めて低い補足率、などを棚に上げた、生活保護「不正受給者」バッシングとよく似ているのです。

「ねらい」の非対称性

 「仮放免者の会」ブログ連載は、「「偽装難民」たちが難民申請を「就労目的」で悪用している」という読売の悪質な世論誘導を鋭く批判しています。この、「難民申請を就労目的で悪用」という表現は、9月5日の朝日新聞難民認定についての記事にも見られます。

 一方、「借金から逃れるため」などと明らかに難民とは言えない申請も多いという。申請中は強制送還されない制度を悪用し、就労や定住目的で申請を繰り返す人もいるとされる。
(9月5日朝日新聞難民認定の対象拡大へ 審査は厳格化、外部意見の導入も」)

http://digital.asahi.com/articles/ASH9453XSH94UTIL022.html?_requesturl=articles%2FASH9453XSH94UTIL022.html

 「なんだ、哀れな難民のような顔をして、結局カネ目当てか、救けてやろうとした俺たちをだますとはケシカランやつらだ!」とでも言いたいのでしょうか。こうした、「実は○○目当て」などと、誰かの、「偽装」されていない本当の?「目的」をあげつらうことが、何やらその誰かを貶めることになりうる、と思っているらしい人々については、休眠状態の当ブログやその前身のホームページで、かつて何度か話題にしました。最近では、昨年6月の石原環境相(当時)による「最後は金目でしょ」発言が記憶にあたらしいですが、私が真っ先に思い出すのは、ここでもhttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/0401.html#22とりあげた、山本夏彦による、元「慰安婦」が「今ごろ騒ぎだしたのは『金ほしさ』のためだといえばこれも誰もうなずく」という20年ほど前の発言です。この発言についての徐京植さんの言葉を引用します。

 「金ほしさ」だって? 元「慰安婦」たちは、差別と貧困の中で刻々と年老いている。75歳になる宋抻道さんにしても、異国日本で周囲の無理解と差別にさらされながら、身寄りもなく、生活保護だけをたよりに暮らしているのだ。どんなに心細いことだろうか。喉から手が出るほど金がほしいのは、当たり前だ。それに、彼女たちには補償金を要求する正当な権利がある。「金がほしい」としても、だからといって侮辱されなければならない理由などない。
徐京植「母を辱めるな」)*4

http://www.eonet.ne.jp/~unikorea/031040/38d.html

 難民申請者たちだってそうです。「仮放免者の会」のブログを読めばわかるように、難民申請者たちが「就労目的」だとしても、だからといって侮辱されなければならない理由など一切ないのです。
 さて、こうした「○○目的」を熱心にあげつらうものたちが、あらゆるものを対象にそれを行うかというと、たいていそうではありません。彼らは、特定の対象についてだけ「目的」「目当て」「ねらい」を勘ぐります。たとえば、日本の新聞やニュースでは、中国、韓国、朝鮮の政府・首脳による公式発表などを報道するときは、必ずと言っていいほど「こうした○○には、△△といった《ねらい》があるものと見られます」というようなコメントが付きます。ところが、日本、アメリカ、電力会社…などの発表に対して、その「ねらい」について言及されることは、まずありません。こうした、日本のマスコミにおける「ねらい」という言葉の非対称性、と言った問題については、当ブロクでは何回か取り上げてきました。たとえばここhttp://d.hatena.ne.jp/sarutora/20070808/1186595155
 そして、今回の一連の読売新聞の報道にもまた、そうした非対称性があからさまに存在するのです。彼らは、難民申請者たちの「目的」や「ねらい」をあげつらうことには非常に熱心ですが、入管や日本政府の言うタテマエの裏に、かくされているとすらいえずあからさまに見えている「目的」「ねらい」については、問題にしません。たとえば、「難民の保護・救済」という建前のもとで行われようとしている難民認定制度の変更の「ねらい」は、実際は「強制送還の効率化」であることは明らかです。 

 同様に、入管当局が読売等の報道機関をつかった世論誘導をつうじてめざしている制度変更のねらいが、難民の保護・救済にあるのではないことも、こんにちまでの難民政策の「実績」からみてあきらかなのです。とすると、そのねらいは、難民認定審査の「効率化」そのものにあると考えるよりほかなく、つまりそれは、強制送還の「効率化」ということにほかなりません。*5

 しかし、このように、読売新聞は、入管の「ねらい」を読者に伝えません。そして、そのねらいの餌食になろうとしている外国人たちの方を、逆に、何やらよからぬ「ねらい」を持ったものたち、と描き出そうとしているわけです。とすると、こうした「報道」を行う読売新聞自体の「ねらい」が問われるべきでしょう。入管をアシストする「ねらい」があるのか?と。 

(……)〔入管にとっては〕思うように退去強制手続きに入れない、あるいは送還を執行できないという現状があって、その障壁を取りのぞく制度変更をおこないたいという意向があるのでしょう。読売の報道は、こういった意向を忠実になぞったものといえます。*6

 外国人技能実習制度についても同じです。読売新聞は、外国人たちによる「実習制度の形骸化」を言うわけですが、「仮放免者の会」ブログが指摘するように「技能実習制度は、日本政府自身こそがその形骸化を率先してすすめてきた経緯があり、いまさら「形骸化」しうるほどの実質など残ってい」ない*7のです。
 「技能実習制度」は、建前こそ「開発途上国等の経済発展を担う「人づくり」に協力することを目的」とする、などとされていますが、実際の実習生たちは、よく知られているように、人手不足を解消するための都合のいい超低賃金労働力として扱われているわけです。したがって、「偽装難民たちが」「就労目的で来日し」「難民制度を形骸化させている」というような読売らの言い方をもじって言えば、技能実習生問題とは、「偽装・途上国支援者である日本政府や受け入れ先企業が」「人手不足解消目的・奴隷導入目的で外国人を来日させ」「技能実習生制度を形骸化させ続けてきた」とでも表現されるべきものなのです。

日本の政府や実習先である企業等は、実際には、実習生を低賃金の労働力として利用しておきながら、他方ではその労働が「実習である」というタテマエを都合よく持ち出すことで、実習生の労働者としての権利を否定し、実習先の職場に縛りつけることが可能になります。技能実習制度とは、通常の労使関係のいわば例外的な領域を作り出し、そこでの事実上の奴隷的拘束を「合法化」する装置といってよいでしょう。*8

 ところが、難民申請者たちの「目的」や「ねらい」をあげつらう読売は、こうした、あからさまとさえ言える日本政府や受け入れ先企業の「目的」や「ねらい」を問題にしようとは決してしないわけです。

読売は、ミャンマー人実習生33人が茨城県内の実習先から1年以内にあいついで「逃亡」した事例について報じ、「実習制度が来日の『手段』として[ミャンマー人実習生に]利用された可能性がある」などと書いています([g]記事)。これは、あべこべな責任転嫁と言うべきです。この記述においては、実習制度が、労働者を来日させる手段として、むしろ日本政府と日本の受け入れ企業等によって利用されているのだという現実は、まるでなかったことにされます。ミャンマー人労働者を呼び込んでいる者たちの目的と利益は消されるいっぽうで、みずからの目的と利害関心にしたがって日本の制度を悪用している外国人技能実習生というイメージが強調されるわけです。*9

*1:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html 第一回「2.法務大臣・入管当局幹部・読売新聞の一致した見解」

*2:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html 第一回「3.「救済されるべき難民」についての読売の支離滅裂な姿勢」

*3:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html 第二回「4.「就労目的で悪用」――制度・政策の矛盾を外国人に転嫁するレトリック」

*4:それにしても、徐京植さんがこの文章を書いたのが1997年、それから18年が経つが、言うまでもないが状況はまったく変わっていないどころか悪化しています。

*5:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html 第一回「6.入管による読売等をつかった世論誘導のねらい」

*6:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html 第一回「6.入管による読売等をつかった世論誘導のねらい」

*7:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html 第二回「2.技能実習制度を「形骸化」させているのは「偽装難民」なのか?」

*8:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html 第二回「3.現代の奴隷制としての技能実習制度」

*9:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html 第二回「4.「就労目的で悪用」――制度・政策の矛盾を外国人に転嫁するレトリック」

「平和国家 日本」という妄想

憲法9条にノーベル賞を」運動に賛同する議員に改憲主義者がいる、という話についての↓の記事

付け加えるならば、日本人の「平和国家 日本」という妄想が右も左も関係なく成立しうることの証左でもあるんではないでしょうか。
安倍さんたちがのどから手が出るほど欲しいのも「平和国家 日本」ていうイメージですよね。だから「積極的平和主義」とかぬかしてるわけで。賞をもらえたとしたら安倍さんへのナイスアシストを護憲派が主導するという悪夢になることでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/EoH-GS/20140531/1401535751

これを読んで、何年も前に下書きまで書いて放置してて、その下書きもどこかにいってしまったネタを思い出したので、書き直すことにしました(たいしたことではないけど)。
コンビニに、新刊のマンガや小説が数冊並んでいたりしますが、4・5年以上前、そこに『皇国の守護者』というタイトルの本(マンガ)が並んでいて、びっくりしたことがあります。なんだこれ、と思ったら、いわゆる「架空戦記」というものであるらしい。それにしても、フィクションとはいえ、このような禍々しい(ウヨウヨしい)タイトルの本が、普通にコンビニとかに置かれているほどメジャーな扱いを受けるんだな、ということにちょっとびっくりしました。といっても、この本やこうした「架空戦記」の内容がどういったものなのかはよく知りません。もしかすると、作者や読者は、「自分は右翼でも左翼でもない」などと言っているのかもしれませんが、そういうこととは関係なく、なんというか、こんなセンスのタイトルの本がフツーに受け入れられてしまう空気というのが、安倍晋三のような極右政治家が首相になり、百田さんのような人がベストセラー作家としてもてはやされる*1ことと共通するまさにニホン的なものだな、と思ったということです。というわけで、『皇国の守護者』というこの本の詳しい内容については、申し訳ありませんがあまり関心がないのですが、この物語における「皇国」の設定については、興味をひかれました。

人と龍が共存する世界で、小さいながらも貿易によって繁栄していた<皇国>と、その貿易赤字を解消するために海の彼方から侵略してきた<帝国>との戦争、それをきっかけとして激化する<皇国>内部の権力闘争を描く。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AE%88%E8%AD%B7%E8%80%85

架空戦記ですので、「皇国」というのもまあ一応は架空の国ということなのでしょうが、どう考えても日本がモデルになっているわけですね。で、「小さいながらも貿易によって繁栄していた」ですか……まさにid:EoH-GSさんの言う「日本人の「平和国家 日本」という妄想」そのものですよね。架空戦記の愛好者たちはおそらく軍事が大好きな人がたぶん多いのだと思うのですが、しかし、この「設定」には、「日本は軍事国家ではなく「貿易によって繁栄している小国」だ」そして「侵略した/する国ではなく侵略された/されそうな国なんだ」という日本人の歪んだ自意識がわかりやすく漏れだしているのではないでしょうか。もちろん、実際の日本は「貿易によって繁栄していた小国」であるどころか、まぎれもない「軍事大国」であったし、今もそうだし、また戦後日本の「繁栄」なるものの内実も、「貿易によって」というようなきれいごとであったわけではないことは、例えばその繁栄が朝鮮戦争時の特需景気によってもたらされたという事実一つとっても明らかでしょう。まあとにかく、日本人というのは、明治以来、尊大な「大国」意識とアジアに対する蔑視感情をとめどなく増大し続け、実際に軍事大国となって加害を繰り返しておきながら、一方で、自分の汚れた手(軍事)からひたすら目をそらし*2、「大国」のイメージを「科学技術」だの「経済」だので塗りかため、さらには、自分たちは「反日」の軍事大国からいじめられ、脅かされている「小国」なんだ、などという被害者意識をはちきれんばかりにふくらませている、というわけですね*3。「平和な小国日本の平和憲法ノーベル賞をもらって、やっぱり日本は世界に認められた大国だ!」というわけですか。なんとも都合のいい話ですね。

*1:そういえば最近「『永遠の0』は反戦小説だ」と百田さんを擁護する人をネット上で見かけました。今回書いたことに関連する話だと思います。

*2:この隠蔽が、軍事基地の70パーセント以上を沖縄に押し付けることによって行われていることは言うまでもありません。

*3:また一方で、この矛盾は、中国や朝鮮の軍事的脅威を煽る一方で「あの国の軍隊は自衛隊に何分で制圧されてしまうようなお粗末なものだ」などと嘲笑する、という逆の形でもあらわれています。