紅一点論

 コメント欄で、斎藤美奈子宮崎駿をボロクソに言っている、と書きましたが、それは事実です。原本がどっかいっちゃって、永江朗の『批評の事情』(原書房)からの孫引きになっちゃいますが。彼女は、『あほらし屋の鐘が鳴る』で、『もののけ姫』について

宮崎アニメは思想的に深いとか、自然描写がすぐれているとか、ちまたではいわれています。そんな声を聞くと、私は首を九〇度ぐらい傾けたくなります。私は見てて赤面しちゃったもん

 と言い、『もののけ姫』が礼賛されるのは、そこに、中尾佐助やら、網野善彦やらの「文化系の半端なインテリおじさんを喜ばせるアイテム」が仕込まれているからだ、と言ってます。(172頁)*1

学問的な知見というとすごそうですが、じつは、どれも非専門家向けのわかりやすい啓蒙書があり、ロングセラーになっている。つまり、ちょっとインテリなおじさまたちが、ここ一〇年ばかりのあいだに勉強して「えっへん」という気持ちになれた知識の片鱗が、『もののけ姫』にはうまいこと取り入れられているわけですね(……)そこにあるのは「おやじの妄想を大画面で見るおぞましさです。あなたはどこまで耐えられますか?
(174頁)*2

 こりゃひどいですね……。で、上は、寄せ集め文集の中での発言なのですが、ところで、彼女は、アニメの世界観をフェミニズム的観点から斬る、という感じの、『紅一点論』(副題は、「アニメ・特撮・伝記のヒロイン像」)というのを書いています。そちらは、実はまだ読んだことはなかったのですが、今日仕事帰りに、たまたま稲田堤の古本屋で発見したので、購入し、古本屋の向いにあるドトールでざっと読みました。この本では、宮崎アニメも俎上にあがっていて、一章があてられています。さぞやボロカスに言っているのか、と思いきや、案外そうでもなく、ちょっと肩すかしでした。でもまあ基本的には予想通りのことが書いてありました。たとえば、コナンのラナは、ひたすら「耐える女」「待つ女」だ、とか。ま、確かにそうだけどね。
 で、彼女は、『あほらし屋』での発言からも伺えるように、たぶん個人的には、アニメや特撮といったものに対してまったく思い入れがない、というより大嫌いなのだと思います。しかし、『紅一点論』では(にもかかわらず)作品やそれにまつわる文献などをかなりきちんと観たり読んだりしている*3。「ファン」からのツッコミを予想して、気を使っているのでは、というようなところも見られます。つまり、アニメファンにも読まれることを大いに予想しています。しかし、同時に、著者自身と同じく、アニメ(的なもの)がもともと嫌いで、かつ、フェミニズムに共感を持っている人、も読者として想定されていると思うのですね。ところで、この本(文庫版)の解説は、尊敬する姫野カオルコ氏が書いています。彼女は、この本は、「ぼくの大好きな綾波レイのことを悪く言うな」というような、近視眼的なアニメファンが読むとかえって面白いのではないか、逆に、『エヴァンゲリオン』を「オナニーの長い大げさないいわけなのね」とあっさり見ていたような人は、かえってあっさり『紅一点論』も読了してしまって、「読書シンクロ率50パーセント」にとどまってつまらないかもしれない、と書いている。たしかにそうかもしれない。たしかに、私にとってもかなり面白く、さすが斎藤氏、と読ませていただきました。しかしですね、やはりこの本では、アニメを食わず嫌いしているフェミニズムファンが、読者として想定されている。それは、各章で、扱っているアニメなどのあらすじを、ちょっとくどすぎるほど述べていることからもわかる。ということは、そういう読者は、ここで扱われている作品をそもそも観たことがない。で、斎藤氏の本を読んで「ふーん、そういう話だったのか。やっぱりケシカラン話だな」と思う。そして、その後、対象となっているアニメを実際に観るか、というと……やっぱり観ないような気がするのですね。その辺、ちょっと不毛な気がする。誤解を恐れずに言うと、なんというか、たとえば、日本で何年か生活したイギリス人が、日本というのはこんなに奇妙で前近代的な国なのですよ、というのをイギリス人向けに書いている本のような……。
 結局、答えが最初から決まっているんじゃないか、しかもその答えをただ確認するためだけに読む読者が想定されているんじゃないか……つまり、食わず嫌いだった食べ物を無理矢理食べて、「やっぱりまずかった」と言っているんじゃないか……そんなふうに言いたくなる気持ちがどうしても起こってくる。いや、あくまで第一印象なのですが。
 姫野氏は、解説で

猫もアップなら虎だし、虎もロングなら猫だ。住み慣れた部屋も、天上裏から俯瞰するとなんとなくちがう部屋に見える。双眼鏡を逆にしてのぞくと、見慣れた町も知らない町のように見える。それを、気味が悪いと感じるとしても、新鮮だと感じるとしても、どちらも面白い、という感情である。(……)
〔『紅一点論』は〕あえて性差というカメラアイを設けて、アニメと伝記のグラフィティを見て楽しむ本である。

 と書いている。たしかに、そういう本だと思えば、この本に難癖をつけるのは、大人げない、という気にもなる。しかし、そういう本なのかなあ。微妙に違和感が残るのです。それはやはり、冒頭にあげた斎藤氏の『もののけ姫』に対する発言を知っているからだと思う。つまり、斎藤氏は、「見慣れたものを一歩引いて見て、違う見え方を楽しんでいる」のではないわけですよね。斎藤氏にとって、アニメ(的なもの)は、最初から「気持ち悪い」ものでしかない。つまり彼女は、一歩ひくというよりは、最初から外にいる。そう思うと、なんだか、彼女の語り口からは、「楽しさ」よりも、「意地悪さ」のようなものが感じられてしまうのです。


(コメント欄を読んでの追記)
 なるほど。いまどきのアニメファンの心理は二重になっている、というか、アニメファンである自分を相対化する視点をも内在化しているのでしょうね(もちろんアニメファンにもいろいろいるでしょうが)。しかし、そういう意味では、斎藤さんは、いろんなものを相対化してみせて、たしかにそれは大変面白いんだけど、自分のよってたつフェミニズムそのものを相対化する視点、「フェミニスト的なことを言う自分に皮肉な目を向ける自分」のような視点はあまり感じられない。しかし、人を茶化す芸風は、自分を落とすのとセットになってないと、単なる嫌みになってしまう危険性があるように思うのです。その辺、関東と関西の毒舌芸の違いにも通じるように思う(私は、関東の芸人の毒舌芸はどうも好きになれないです)*4
 なんて、思いっきり、自分のことを棚に上げて言うのですが。もちろん、彼女の威勢の良さ、いさぎの良さは、彼女の売りだと思うし、そこが彼女の魅力であることは確かだと思うのですがね。

*1:永江320-1頁からの孫引き

*2:同上

*3:ちょっとガマンしながら観ているようなところが伺えもするのですが。

*4:もちろん、総じて、ということであって、関西の芸人でも単なる嫌みなのはあるし、関東にも自分を落とす芸はあると思いますが。